五 後輩 ②
振りむくと、文田さんが立っているのが見えました。取りたてて困惑している様子はありません。
「ここにいたのか、よかった。みんなが心配する頃だから、そろそろ戻ろう」
おそらく文田さんと二人きりで話をするのはこれが初めてだったでしょう。この言葉を聞いて私は文田さんがどういう方なのかをおよそ察しました。文田さんは私がいないのにいち早く気づいて、周囲が騒ぎはじめる前に探しにきてくださったんです。私はこれ以上、迷惑をかけてはいけない一心で涙を止めました。
「はい」
文田さんはしばらく何も言いませんでしたが、変わらず私を気づかってくださっているのが分かりました。やはり先生や厩舎の先輩たちのところへ戻るのが億劫でのろのろと歩く私に、歩調を合わせてくださったんです。そして部屋の前に近づくと、低く小さな声でこう言ってくださいました。
「今度、稽古で私が騎乗を見ようか」
私は即座に文田さんに向かって頷きました。
「はい、お願いします」
あの時代は徒弟制度が残っていました。今ほどはいきなりレースでの結果を求められずに済んだ好ましい面もありましたが、厩舎内では年長の者が密接に若手の教育に関わっていたので厳しい上下関係もありました。それに新人にとっては先輩の当たり外れだとか、ベテランが利益を独占して若手に譲らない年功序列みたいな風潮もありましたからね。そういう考えに固執している先輩の場合、わざと後輩の教育に手を抜くなんてことも珍しくなかったんです。
かくいう私がまさにそのケースで、本当の基礎中の基礎だけ叩きこんであとは自分で覚えろとか言うだけ。〝技術は盗んで覚えろ〟なんていう心構えさえ提示されませんでした。競馬界自体、職人気質の持ち主が多くていちいち手取り足取り教えてくださる方のほうが稀でしたし、同じ厩舎でものちのち競争相手になる同業者ということもあって、私がついた須本さんという先輩は殺伐とした感じで気軽にものを訊ける人じゃなかったんです。いくら面倒見のいい有村先生でも厩舎は大所帯でしたので、駆け出しの一人にすぎない私にまで手は回りません。五里霧中で色々と模索していた私に、この申し出を断る選択肢はありませんでした。
そういった次第で、さっそく翌週から個別の指導が始まりました。もちろん四六時中というわけにはいきません。ご自身も馬に稽古をつけている文田さんがお手すきのときだけでしたが、実に濃密な時間でした。
一般的にはこの頃、ジョッキーの騎乗フォームは長い鐙で胴体を起こす旧来の天神乗りから、今のように鐙の短い前傾姿勢で馬を追うモンキー乗りに移行していたと言われています。しかし実際には、大方の騎手はまだ天神乗りの頃の癖が抜けきっていませんでした。あなたも知ってのとおり、モンキー乗りは身体にかかる負担が大きい。なので頭では型を理解していても、それを体現できないでいたんです。人間は常に注意を払っていないと無意識のうちに楽をしてしまうものですし、適切な習得方法も身体のつくり方も確立していませんでしたしね。正しく乗れているか否かを確認しようにもデジカメはおろか公式に撮影されたレース動画すら簡単には見られず、一般家庭にビデオデッキが普及するのすらもっと先という時代でもありました。教える方だって自分が間違えてたら、後輩に正しい指導はできません。
そんな中で文田さんは本当にきれいなモンキー乗りをしていました。たぶん他の騎手もいろいろ参考にしていて、競馬界全体の天神乗りからの移行が少し早まったんじゃないかと思うくらいです。ご自身でちゃんとした姿勢を見につけていた方ですから、私の騎乗フォームのどこがどういけないのかをはっきり分かっていたんでしょうね。まずは目の前で馬を走らせるようにと言って、直に具体的な指摘をしてくださったんです。
「胴が起きてるぞ。もっと伏せる。もっとだ」
「膝を前に。そのくらい」
「馬に乗るときはいつもその姿勢。感覚を記憶しておくんだ。忘れるな」
丁寧でしたけど、とにかくきつかった。惰性で楽をしていたツケが回ってきてたんですね。それでもまだ若かったからでしょう、デビュー一年目でおかしな癖が身体に染みついていなかったのがプラスにはたらいたのか、程なくして効果が表れました。
一か月後には、姿勢が従来とは全然違っているのが分かるようになっていたんです。馬に密着するのはくるぶしからふくらはぎまでで、上半身はできるだけ馬の背に近づけ平行にする。これが自然とできていました。鐙も前より短い状態で、です。
ところがもう少し経つと、自分に何かが足りないような気がしてきました。ある日の稽古で長めの距離を走り、直線で追いだそうとした段になってそれを顕著に感じたんです。スピードには乗っています。教わったとおりの姿勢は保てており、推進力を生む空気の流れも作りだせています。
ですがそのままの体勢で手綱をしごくのが至難の業でした。この時点で相当に四肢への疲労が溜まっており、理想の姿勢で堪えるだけの力が残っておらず、思っていたより馬の脚が伸びなかったんです。私はこのクラスの馬にしてはまあまあの時計を引き出せたことにある程度の手応えを掴みながらも、騎乗にどこか納得しきれず鞍を降りたあと傍で見ていた文田さんに訊ねました。
「どうでしたか」
「乾はどうだったと思う?」
指導はいつの間にかこのような形に変わっていました。初めからあれが駄目、これがいけないとかを口にすることはなくなり、逆に訊きかえしてくるようになっていたんです。こうした指導はある意味、他の先輩の指導より厳しかったと思います。自分の頭でものを考えるという、大事な習慣が身につくように促す目的も兼ねていたんですね。もっとも何度かやりとりを繰りかえすと、半分くらいは疑問に答えてくださったわけですけれども。
「途中までうまくできていたはずですが、最後の頃には余力がなくなってしまいました」
「うん。直線に入るまでは合格だった」
「までは、ということはその後がまずかったわけですか」
「合格点はあげられない。ずいぶん身体が起きあがってきてたんでね」
「多少、姿勢が崩れているかとは思いましたが、そこまでだったとは」
「本番でも、特に距離が長くなると今みたいになる傾向にある。でも、そうなってしまうのはなぜだろう?」
「慣れたつもりでも身についてはいなかったと」
「最初はそこかな。正しい姿勢で乗れるようにするための体づくりも必要だ」
「どうすればいいんですか?」
「それはいま色んな騎手が考えてる。ただ、一つ言えることがある。両脚の関節が強くなければいけない。足首、膝、特に大事なのが股関節」
文田さんが仰ったのは、今で言うフィジカルトレーニングです。そういったものがまだあまり浸透していなかった時代、早くもそこに注目していた大変に先見の明がある方でした。例の事件がなければ、引退後は素晴らしい指導者になっていたはずです。
「分かりました」
しかもこの日はそれだけではありませんでした。私が指摘のひとつを理解したと見るや、また別の指摘をしてくださったんです。
「あと付けくわえるなら、馬の追い方に改善の余地がある。ちゃんと馬の動きに合わせて身体を動かすんだ」
「たとえば、どのようなところですか」
「まあ、例をひとつ挙げるなら手首の動かし方だね。馬は後肢を踏みこんだときに頭を前方に下げる。それを手綱を使って助けるんだ。直線の伸び方が変わってくる。要は自分の身体を、馬を走らせる装置の一部だと考えればいい。このあたりは私ではない別の騎手もコツを掴んでいると思う」
直線の伸び、という言葉で頭にあのレースが浮かびました。私に決定的に足りなかったのは、馬を追う力と技術だったのです。それからこうもこう仰いました。
「他にも馬との呼吸の合わせ方とかがまだまだだけど、こればかりは場数を踏んでもらうしかない。私が教えられるのはここまで。頑張るんだよ」
かくして個別の指導は終わり、私なりの試行錯誤が始まりました。この日を境に、明確に意識が変わったのを覚えています。
実際、さらに二か月ほど経つと成績が上がりました。いきなり先輩たちを追い抜くほどの劇的な上昇ではありませんでしたが、ちょっとした穴人気の馬であればたまに二着に持ってこれるようになり、勝ち星も以前より早いペースで積みあげられるようになったんです。それがはっきり分かったときの喜びは測りしれません。私は感謝の意を伝えるべく、真っ先に文田さんのところへ行きました。
「あの、ありがとうございます。文田さんのご指導のおかげで少しずつ勝てるようになってきました」
ですが反応はひどくそっけないものでした。
「ん? ああ、気にしなくていいよ」
結構な時間を割いてくださったにもかかわらず、その件に触れようともしません。かといって無関心なのとも違い、それとなく別の方に意識を向けているようです。照れてたんですね。私はいちいち恩を売らないそういった態度にかえって惹きつけられ、今度はちょくちょく暇を見つけてお邪魔にならない程度に仕事以外の話をお聞きするようになりました。
そこで分かったのは、文田さんの暮らしぶりが大変に質素だということです。お手馬も多く、かなりの収入があるはずなのに着ている服は私なんかと大して変わらない。ご結婚をされても家を建てる素振りすらなく、家賃の安そうな近くの古い貸家を借りて自転車で厩舎に来ている。普段から相当に節約されている様子が窺えました。
ある日など、競馬場の休憩室でこう呟かれたほどです。
「今日も行かなきゃならないんだけど、飲み会、もっと少なくなればいいのにな。それならもっと出費が減るのに」
私は笑うしかありませんでした。悪い言い方をすればケチだったんです。お昼をご一緒したときもご自分だけで会計を済ませていたりとか。念のために言っておくと、私はそれをひとつも悪く思っていませんよ。むしろ人間らしい部分があって安心したくらいです。
ただ、そんな時間もあまり長くは続きませんでした。例の事件が起きたからです。
それ以降、文田さんと顔を合わせる機会はなくなってしまいました。釈放後、連絡は一切なくどちらへ行かれたのかも不明になってしまいましたのでね。私にとっては大事な糸がぷっつり切れてしまったようで、第一報を耳にしたときはしばらく茫然自失としていました。それでもどうにか気を取りなおして先輩たちに「何かの間違いでしょう」と訊くと「自分もそう思う」「とばっちりだと信じたいが、何とも言えない」との答えで、最初から文田さんが怪しかったなどという声はひとつもありません。ですので、いったんは自分を奮いたたせて希望をもつようにしたんです。
何より有村先生に至ってはもっとはっきり「俺は信じない」と仰っていました。なのにたしか二回目、そう二回目に皆の代表で面会したあと主張を覆してしまったんです。理由は明白でした。曰く「本人が認めてるんだから仕方ない」。ただ、そうは言いながら有村先生だけは比較的長いあいだ、無実を信じていろいろ訊いて回られていたようです。他の皆は、罪を自供したことを聞いた途端に文田さんについてほとんど言及しなくなってしまいました。
けれども本当に文田さんが八百長をしたと思っていた人は、私を含めて少なかったのではないでしょうか。もしそうであれば、のちのち八百長をするのに邪魔になるかも知れない私を育てるような真似はしません。それよりは金か何かで抱きこみやすいよう私を下手くそにしておいたままの方が楽でしょうし、不正をはたらいて利益を得ていたのならもっと羽振りがよかったはずです。また文田さんにはその年、チヨノフライトというダービーを狙える三歳馬がいたんです。五大クラシック制覇に王手をかけた状態で最後の一冠を獲れる可能性があったのに、普通わざわざそのチャンスをフイにはしません。
そういう風に色々と考えながら、他の人には言えずじまいのうち時間だけが経ってしまいました。
乾さんはそこで大きく息をついた。
「済みませんね。私が言えるのはこれくらいです」
目の前で瞼を閉じるその顔は、心の底から詫びているように見える。だが僕にとってはとんでもないことだった。これまでは八百長に関わった可能性のある得体の知れない騎手という認識でしかたなかった文田猛志を、人格をもった一個の人間として捉えられるようになったのである。おまけにそれが紛れもなく血の繋がっている祖父なのだ。
「いえ。こちらこそ貴重なお話をお聞きかせいただきました」
僕がお礼を述べると、大賀さんも後に続ける。
「本当にありがとうございます」
一方で乾さんは首を横に振るばかり。声も段々と沈んでいった。
「でも私は結局、文田さんに恩返しもできず未だに申し訳なく思っています。と言いますのもせっかくご指導いただいたのに、満足のいく成果は出せなかったからです。
私はたしかにあの日以来、教えられたとおりモンキー乗りに耐えられるようトレーニングに励み、徹底したフォームの矯正に努めました。それが功を奏して、リーディングも全国九位まで上げることができました。
ただ順調だったのはそこまででした。当時は体づくりの教科書なんてものはありませんから基本自己流でやるしかなかったので仕方ないのですが、後になって思いかえしてみればまずい部分が多々あったんでしょう、ひどく腰を痛めてしまいましてね。復帰を急ぐあまり半端な状態でだましだまし乗ったせいで余計に悪化して、長い時間本来の姿勢を保てなくなってしまったんです。それと文田さんから指摘されなかった部分で、ペース配分がてんで駄目でした。体内時計を作れなかったんですね。勝てたGⅠが短距離ばかりなのはそのためです。だから私はうまく現役を全うできたか、せめてご報告を兼ねてお訊きしたかったんですよ。今どこで何をされているのか、ご存命なのかも分かりませんが。
何より八百長の疑惑が未だに晴らせていませんし、万が一そうされたのだとしても温かい指導をいただいたご恩があります」
しかしすぐに表情が若干、上向いた。のみならず、また小さく息を吐くと意外な申し出を口にする。
「ですから、私はあなたに協力したい。遅まきながら文田さんの汚名を雪ぎたいんです。本当はあのとき何とか支えなければいけなかったはずですので。私に出来ることはそう多くありませんが、心当たりのある方を探してみます」
「是非ともお願いします」
今日はあくまで話を聞くだけのつもりでお邪魔させていただいた。なのに協力をしてくださるとは。気づいたときには、僕は頭を下げていた。
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