3か月半後 ― 革のノート(デルガント)
カーティスが《デルガント》に加わってから、1か月が過ぎた。
その間に受けた依頼は、どれも問題なく終わっていた。
先頭を任せれば周囲に目を配り、足跡や折れた枝から魔物の動きを探る。必要なら1人で先へ出て様子を確かめ、戦闘になれば2本の短剣を抜く。地図も読めるし、ジェラルドと相談しながら道を決めることもできた。
何より、カーティスは必要のないところで足を止めなかった。
気になる痕跡があれば確認する。危険につながると判断すれば皆に伝え、そうでなければそのまま進む。その簡潔さは、ジェラルドたちが新しい探索役に望んでいたものだった。
酒場で過ごす時間にも、すっかり馴染んでいる。もともと別のパーティで長く活動していただけあって、妙な遠慮もない。エルマーの軽口には軽口で返し、ロルフとは依頼先で見かけた冒険者の話で盛り上がった。
新しい6人での活動は、順調だった。
◇
その日も、依頼そのものは早く終わった。
王都の西にある森で3体の魔物を討伐し、まだ日が高いうちに戻ってきた。ギルドへの報告を済ませた6人は、そのまま馴染みの酒場へ入った。
夕食には少し早いせいか、店内はまだ空いている。奥のいつもの卓を囲み、最初の酒が運ばれてくる頃には、誰もがすっかり仕事を終えた顔になっていた。
ただ、ロルフだけが先ほどから何度も左腕を揉んでいる。
今日の戦闘で傷を負ったわけではない。数日前の討伐で腕を強く捻り、その影響がまだ残っていた。
向かいに座っていたネイトがそれに気づき、椅子の脇へ置いていた共有の鞄を引き寄せた。中から小さな瓶を取り出して卓上を滑らせる。
「まだ痛むのか?」
「痛いってほどじゃないんだけどな。なんかずっと張ってんだよ」
ロルフは瓶を受け取り、蓋を開けた。王都の薬屋で買った、ごく普通の塗り薬だった。
指先に取って左腕へ塗り込みながら、ロルフが顔をしかめる。
「これ、あんまり効かねえんだよな」
「この前も言ってたな」
「効かないわけじゃねえんだけどさ。前はもうちょい楽になってた気がする」
薬そのものにおかしなところはない。冒険者向けとして広く売られているもので、ネイトが見ても成分に問題はなかった。
それでもロルフはここ最近、同じことを何度か口にしていた。
そのやり取りを聞いていたブルーノが、持ち上げかけた杯を止めた。
「前の薬と違うからじゃないか」
ロルフの手が止まる。
「前の?」
「ニコが作ってたやつだよ」
言われて、卓を囲む何人かの視線が薬瓶へ集まった。
以前使っていたものは、薬屋で買ったものではなかった。
傷薬だけではない。疲労が残ったときに使うものや、腹の調子を崩したときの薬。喉を痛めれば飲み物に入れるものが出てきて、虫に刺されれば別の軟膏が出てきた。
ニコが作り、減ればまた補充していた。
誰かが管理しているという意識すらないまま、必要なものは共有の鞄に入っていた。
「そういや……あいつがいなくなってからか。これ使い始めたの」
ロルフは改めて手の中の瓶を見た。
ジェラルドも記憶をたどった。ニコがいた頃、薬を切らした覚えはほとんどない。必要な材料をいつ買い、どこで採り、いつ作っていたのかまでは知らなかった。
少し離れた席で料理を待っていたカーティスが、意外そうに顔を上げた。
「ニコって、前にいた探索役ですよね。薬も作ってたんですか?」
「ああ。そういうの好きだったからな」
ジェラルドが答えると、カーティスはロルフの薬瓶を見てから、少し不思議そうに眉を上げた。
「探索だけじゃなかったんですね」
その一言に、ジェラルドはすぐには返事をしなかった。
探索だけではない。
もちろん、それくらいは知っていた。
けれど、ニコがいなくなったあとで買うようになった薬を前にすると、その言葉が妙に耳に残った。
そのとき、ブルーノが何かを思い出したように足元の荷物を探り始めた。
取り出したのは、使い込まれた革張りのノートだった。
「それ、何ですか?」
カーティスが身を乗り出す。
「ニコが置いていったやつだ」
ニコが《デルガント》を去った日、パーティで使えるようにまとめたものだからと差し出したノートだった。
あのとき受け取ったブルーノも、すぐに読んだわけではない。しばらく荷物へ入れたままになっていたが、ある日ふと思い出して開いてみた。
そこで初めて、ニコが何を残していったのかを知った。
依頼で通った道。雨が続いたあとの地面の状態。季節ごとに見かけた魔物と、その痕跡。水を補給できる場所や、傷薬に使える草が生えていた場所。
何度も訪れた土地には、前回との違いまで書き加えられている。
ページの端には日付と天候が細かく記され、別の場所には魔物除けに使った材料と、その効き方まで残っていた。
ブルーノはそれから何度か読み返していた。
薬の話が出て思い出したのは、その後ろの方にあった記録だった。
「確か、この辺だ」
厚い紙を何枚かめくり、目的のページを開いて卓の中央へ置く。
ロルフが酒を片手に覗き込み、途中からネイトも身体を寄せた。
そこに並んでいたのは、薬の作り方だけではなかった。
ロルフは古傷のある左肩から腕にかけて張りが残りやすい。ネイトは治癒の力を使いすぎたあとに食欲を落としやすい。エルマーは魔力を使い切った翌日に頭痛を訴えることがある。
ジェラルドとブルーノについても同じだった。
誰がいつ、どんな状態になりやすいのか。そのとき何を使い、どうだったのか。効きが悪かったものには線が引かれ、別の材料や分量が書き足されている。
「……俺の薬については……いや、ちょっと待て。なんだこれ」
すでにノートを見ていたらしいブルーノは知っているのか、おかしげに笑いだした。
「なになに。ニキリス草の若葉と、葉の裏が白いタイプのナナシを乾燥させてすりつぶしたものに……って、もう何のことか分からん。そのあとにも煮出す順番? 混ぜる順番?」
エルマーが横から覗き込む。
「俺のもだ。ヤタ木の樹皮を剥いで? 煮詰めて?……ってなんだよ。マジでこんなんで誰でも作れると思ってんのか、アイツ?」
エルマーが呆れたようにノートを指で叩いた。
カーティスは卓の反対側から手を伸ばし、ノートを自分の方へ引き寄せた。
薬の記録を読み終えても、すぐには閉じなかった。
前へ戻れば道や地形、後ろへ進めば魔物や植物の記録が出てくる。その途中には、誰かが足を痛めた、帰りが遅くなった、翌日は休ませた方がいいといった短い書き込みまで挟まっていた。
しばらくページをめくっていたカーティスが、ようやく顔を上げた。
「……すごい人だったんですね」
その言葉に、ジェラルドたちは互いの顔を見た。
最初に反応したのはエルマーだった。苦笑しながら椅子の背にもたれる。
「このノートだけ見れば、俺でもそう思うかもな」
ロルフも笑い、杯を傾けた。実際のニコは、こんな整然とした記録だけで済む人間ではなかった。
足跡が少し違う。風向きがよくない。いつもいる鳥が見当たらない。何か見つけるたびに足を止め、危険かもしれないから確認したいと言う。
そして調べた結果、何も起きないことも多かった。
「毎回付き合ってたら進まねえんだよ」
ロルフはそう言って、空になった杯を卓へ置いた。
ネイトも懐かしそうに笑った。薬についても似たようなところがあったという。頼んでもいないのに味や匂いを変え、前の方がよかったか、こっちの方が飲みやすいかと聞いてくる。疲れて帰ったあとまで細かな確認をされ、有難いけど面倒だった。
話しているうちに、昔の出来事が次々と思い出された。
最初の頃は、ジェラルドもニコが何か言えば足を止めていた。ほかの4人も、聞かれれば答えていた。
それがいつから変わったのかは、誰にも分からない。
何度目かの警告にエルマーが返事をしなくなり、ニコが話している途中でもロルフが先へ歩くようになった。ネイトも、ほかの話をしている最中ならそちらを優先した。
ジェラルド自身、「あとで聞く」と言ってそのまま忘れたことが何度もある。
やがてニコは、話し始める前に相手の顔を見るようになった。
今いいですか、と聞くようになり、少し長くなると謝るようになった。
だからニコも加減を覚えてきたのだと思っていた。
「最後に、このノート渡してきたときもさ」
ロルフが革張りのノートを指した。
「俺、いらねえって言ったんだよな。正直冗談じゃないって思ってさ」
自分で言って笑い、当時と同じように肩をすくめる。
ネイトもつられるように口元を緩めたが、ブルーノだけは笑わなかった。
革張りのノートに目を落としたまま、杯にも手を伸ばさない。
その様子を横目に見ながら、カーティスはノートを閉じた。
「……それ、本人が話してるときにやってたんですか?」
ロルフの笑いが残ったまま止まる。
「何が?」
「無視したり、置いていったりしたの」
ロルフは答える代わりにエルマーを見た。
エルマーがわずかに眉を寄せ、卓上の皿から肉を1切れ取る。
「毎回全部聞いてたら終わらねえんだよ。ずっと一緒にいればこっちだって、聞く必要がある話かどうかくらい分かるようになる」
カーティスはすぐには返さなかった。
閉じたノートへ片手を置き、その厚みを確かめるように指先で革表紙をなぞった。
ジェラルドはなぜか、その手元から目を離せなかった。
「合わなかったなら、辞めてもらったのは別にいいと思いますよ」
やがてカーティスが言った。
「一緒に仕事する相手なんだから、合う合わないはあるでしょう。でも、それとこれは違うでしょう」
声を荒らげたわけではなかった。
それだけに、卓を囲んでいた空気が静かに変わった。
エルマーが手にしていた肉を皿へ戻す。
「……何が言いたいんだよ」
「話してる途中でみんなで無視したり、そのまま置いていったりって」
カーティスはエルマーではなく、卓を囲む全員を見た。
「ずいぶん子供じみた酷いことしてたんですね」
ロルフの口元から笑いが消えた。
エルマーは露骨に顔をしかめたが、ジェラルドは何も言えなかった。
止めなかったのかと聞かれれば、答えは決まっている。
止めなかった。それどころか、自分も同じように聞き流していた。
「お前には分かんねえだろうよ」
エルマーが低い声で言うと、カーティスはあっさり頷いた。
「そうですね。だから、辞めてもらったことについては何も言ってないです」
そこで言葉を切ると、閉じたノートをブルーノの方へ戻した。
ブルーノはそれを受け取りながら、しばらく表紙を見ていた。
「……その通りだ」
低い声が落ちた。
「俺も同じだった。気の毒だなと思ったことはあったけど、何もしなかったし、何も言わなかった」
ブルーノの大きな手が、革表紙の上に置かれる。
「これを受け取っただけだ」
カーティスは何も答えなかった。
ジェラルドは口を開きかけた。
ニコにも悪いところはあった。細かすぎたし、止まりすぎた。皆が疲れているときでも話が長くなることがあった。何も起きなかったことだって、何度もあった。
そう言おうとして、卓上の薬瓶が目に入った。
その横には、ブルーノの手に押さえられた革張りのノートがある。
壊れた橋の前で足を止めたときも、ニコなら事前に調べていただろうと思った。
薬屋で買った薬を使うようになってから、以前の薬がニコの手製だったと思い出した。
そして今、5人の体調まで書き込まれたノートを見ている。
5年間、同じパーティにいた。
それなのに、自分が知らなかったことが、まだ出てくる。
ジェラルドは結局何も言わず、空になった杯を持ち上げた。
「……もう1杯頼む」
店員を呼ぶ声に、誰も何も重ねなかった。
やがて運ばれてきた料理をカーティスが自分の皿へ取り、ロルフも冷めかけた肉へ手を伸ばした。エルマーは新しい酒を頼み、ネイトは共有の鞄へ薬瓶を戻す。
少しずつ、いつもの酒場の時間へ戻っていく。
それでも卓上では、閉じられた革表紙のノートに、ブルーノの手がまだ置かれていた。




