3か月後 ― 魔物避け(ニコ)
1人で仕事をするようになってから、この辺りで顔を覚えた人も少し増えた。
畑へ向かう途中で会う老人や、薪を拾いに来る夫婦。名前を知っているかどうかという程度でも、同じ場所へ何度も通っていれば自然と挨拶を交わすようになる。
メリルも最初はその1人だった。
ただ、彼女はニコが薬草の話を始めても困った顔をせず、むしろ続きを聞きたがった。それでいつの間にか、会えば少し長く話をする相手になっていた。
その日も森で会ったメリルは、小さな籠を腕にかけていた。
「これは?」
摘んだ草を差し出され、ニコは受け取って葉の裏を確かめた。指先で茎を回すと、付け根の赤みが見える。
「似ていますけど、違います。こっちは葉の付け根が少し赤いでしょう」
「あ、本当だ」
メリルも顔を寄せ、ニコの指先を覗き込んだ。
「じゃあ、この前のお茶よりは美味しくない?」
「そもそもお茶には向かないですね。これは――」
言いかけたが、足が止まる。
道の脇で、不自然に大きくめくれている土が見えたのだ。
「どうしたの?」
メリルが数歩先から振り返る。
ニコは答えずに道を外れ、しゃがみ込んだ。
雨で崩れたものではない。土の掘り返され方に偏りがあり、その周囲では低い位置の草が何本か倒れている。
指先で土に触れてから、少し離れた木へ目を向けた。根元近くの幹に、何かが擦れたような跡が残っている。
「……イッカクイノシシかな」
「え、こんなところに?」
メリルも道を外れ、ニコの横から地面を覗き込んだ。
「普段はもう少し奥にいると思います」
ニコはしゃがんだまま周囲を見回した。
王都から遠くない場所で、人の出入りも多い。薬草や薪を採りに来る者もいれば、少し離れれば畑や家もある。イッカクイノシシが好んで寄ってくる場所ではなかった。
「これで分かるの?」
メリルが掘り返された土を指す。
「これだけなら分からないです。勘違いかもしれないし。ただ、餌を探した跡にも見えるんですよね」
ニコは立ち上がり、数歩先の木まで歩いた。
「あそこに木を擦った跡もあるでしょう。それと――」
今度は反対側へ回り込み、倒れた草の前で足を止める。
「向こうの草も倒れてます」
「どれ?」
「あれです。少し右の」
メリルはニコの隣まで来て目を細めた。しばらく探したあと、ようやくそれらしいものを見つけたらしく「ああ」と声を上げる。
「……って、よく見えるね。私じゃ絶対気づかない」
「僕も、もしかしたら、くらいです」
ニコはもう一度しゃがみ、掘り返された土と周囲の草を確かめた。
「でも、そんなに古くはなさそうです」
「今日?」
「そこまでは分かりません。昨日かもしれないし、もう少し前かもしれない。ただ、最近だと思います」
メリルはそれまでの笑顔を引っ込め、森の奥へ目を向けた。
「じゃあ、しばらく奥には行かない方がいいか」
「はい。その方がいいと思います」
イッカクイノシシは、経験のある冒険者が何人かいれば、それほど厄介な魔物ではない。だが、額から伸びた硬い角を向けて突進してくる相手に、武器を持たない者が遭えば話は別だった。
「できれば、しばらく1人では――」
そこまで言って、ニコは口を閉じた。
痕跡が1つあっただけだ。たまたまここまで下りてきただけで、もう森の奥へ戻っているかもしれない。
また心配しすぎているのだろうか。
そう思いながら森の奥を見る。けれど、何も言わずにいて何かあったらと思うと、そのまま帰る気にもなれなかった。
「……ちょっと待っていてもらえますか?」
「いいけど。何?」
ニコは背負っていた荷物を地面へ下ろし、中から小さな布袋と小刀を取り出した。
道端を見回し、何本かの草を摘む。葉を指先で揉んで匂いを確かめると、今度は少し離れた木のそばまで行き、表面の皮をわずかに削り取った。
戻ってきたニコの手元を、メリルが覗き込む。
「何作ってるの?」
「魔物避けです」
「今ここで?」
「多少は効果があると思います」
ニコは平らな石の上で草と木の皮を細かく刻み、布袋へ詰めた。口を縛って両手で軽く揉むと、青臭さに混じって鼻につく匂いが立ち始める。
すぐそばにいたメリルが、鼻の前で手を振った。
「……なんか臭い」
「そういうものなので」
ニコは自分でも匂いを確かめてから、袋を差し出した。
「今日はこれを持っていてください。イッカクイノシシが嫌うと言われているものはほかにもあるんですけど、今は持ってなくて」
「これじゃ駄目なの?」
「効かないわけではないと思います。ただ、これだけだと匂いが飛びやすいです」
メリルは受け取った袋を鼻から遠ざけるように持ち、それから籠の持ち手へ結びつけた。
「じゃあ、これ借りてくね」
「明日もこの辺に来ますか?」
「うん。このくらいの時間なら来られるよ」
「それなら、ほかの材料も入れたものを作って持ってきます。これと交換しましょう」
「分かった。ありがとう」
ニコは頷き、地面に広げた道具を片づけた。
荷物を背負い直したところで、籠からぶら下がる布袋が目に入る。
「あ、それ、家の中には入れないでくださいね。匂いが移るかもしれないので。軒下とか、雨の当たらないところに置いてください」
「そんなに?」
「……たぶん」
「自信なさそうだね」
「匂いの感じ方は人によるので」
メリルが笑った。
「分かった。外に置いとく」
「それと、これを持ってるから大丈夫だと思って奥まで行ったりはしないでくださいね。絶対に近づいてこないわけではないので。興奮していたり、追われていたりすると――」
そこでメリルがまた笑った。
ニコは気まずげに口を閉じる。
「……長いですね」
「違うって。ニコさんらしいなと思っただけ」
メリルは籠を持ち上げ、ぶら下がった袋を軽く揺らした。
「奥には行きません。これは外に置きます。明日ここで交換。これでいい?」
「……はい」
以前なら、そこで謝っていただろう。
けれどメリルは笑っている。
ニコもつられるように笑い、2人は丘を下りていった。
◇
その日の夕方、久しぶりに実家へ帰ったラウルは、玄関へ向かう途中で足を止めた。
軒下に、見覚えのない小さな布袋がぶら下がっている。
「……う、わ」
近づくと匂いがする。
ラウルは軽く顔をしかめて布袋を覗き込み、それから玄関を開けた。
「メリル。外にある臭い袋、何だ?」
「ああ、それ?」
奥から返事があり、しばらくして前掛けで手を拭きながらメリルが出てきた。
「魔物避け。ニコさんにもらった」
「またニコか」
ラウルはもう一度、軒下の袋を振り返った。
何度か聞いた名前だった。薬草に詳しく、森で会うたびにメリルへあれこれ教えてくれる冒険者だ。
「何の魔物避けだ?」
「イッカクイノシシ」
「イッカクイノシシ?」
ラウルの表情が変わる。
「この辺に出たのか?」
「姿を見たわけじゃないよ。ニコさんが跡を見つけたの。いつもの丘を下りたところ」
「ずいぶん下まで来てんな」
ラウルは荷物を玄関脇へ置き、軒下へ戻った。
布袋を外して手に取り、軽く揉んでから鼻へ近づける。
「これ、そいつが作ったのか?」
「うん。その場で」
「その場で?」
ラウルは紐を緩めた。
中には細かく刻んだ草と、削った木の皮が入っている。指先で少し持ち上げ、匂いを確かめる。
「なるほどな」
「分かるの?」
「使ってるものはな」
ラウルは中身を戻して紐を結び直した。
「効きそう?」
「まあな。イッカクイノシシは鼻が利くし、こういう匂いは嫌う。これだけで絶対来ないなんてことはないけど」
「ニコさんも同じこと言ってた」
袋を軒下へ戻しかけたラウルの手が止まった。
「へえ」
もう一度袋を見る。
「でも、それはとりあえずなんだって」
「とりあえず?」
「家にほかの材料があるから、ちゃんとしたのを作ってくれるって。明日、同じところで交換してくれるの」
「そこまでしてくれるのか」
ラウルは袋を元の場所へ掛け直した。
これまでメリルから聞いていたのは、薬草や料理に使う植物を教えてもらったという話ばかりだった。
だが考えてみれば、最初に聞いたときからそうだった。
間違った草を大量に摘んでいたメリルへわざわざ声をかけ、今度は人の多い場所まで下りてきた魔物の痕跡に気づき、その場にあるもので魔物避けまで作って持たせている。
ラウルは手に残った匂いを嗅ぎ、顔をしかめながら手を払った。
「お前、結構世話になってるんだな」
「そう?」
「そうだろ」
メリルは少し考えてから、「そうかも」と笑った。
ラウルは玄関脇に置いた荷物を拾い上げた。
「明日、何時に会うんだ?」
「今日と同じくらい。昼を少し過ぎた頃かな」
「じゃあ俺も行くわ」
「兄さんも?」
メリルが目を丸くする。
「なんで?」
「お前が世話になってるなら、1回くらいちゃんと礼言っとく」
そう言って家へ入ろうとしたラウルの背中へ、メリルが声をかける。
「おかえり」
一瞬きょとんとしてから、ラウルは眉を寄せた。
「さっき言っただろ」
「言ってないよ。最初に言ったの『臭い袋、何だ?』だから」
「……そうだっけ?」
「そうです」
メリルが笑いながら家へ戻っていく。
ラウルも後を追い、途中で思い出したように腹を押さえた。
「なあ、飯は?」
「次はそれ?」
2人の声が家の奥へ消えていく。
軒下には、青臭い匂いを放つ小さな布袋だけが残された。




