8ヵ月後 ― 噂(デルガント)
ブルーノが《デルガント》を抜けてから、何か月か過ぎた。
新しい前衛は、まだ入れていない。
募集は出していたが、急いで決める必要もないというのがジェラルドの判断だった。人数が減った分、受ける依頼を選べばいい。カーティスが加わってから探索にかかる手間は減っているし、5人でも仕事そのものに困ることはなかった。
ただ、ここ最近は小さなミスが続いていた。
予備の水袋を積み忘れたり、買っておくはずだった消耗品が足りなかったり。先日は依頼の集合時刻をエルマーが勘違いして、出発が遅れた。
どれも依頼の成否に関わるほどのものではない。誰かが気づけば、その場でどうにかできる程度のことだった。
その日は、王都の北にある森で魔物の個体数を確認するだけの依頼だった。
前日まで降っていた雨は朝には上がっていたが、森へ入ると土はまだ水を含んでいた。
カーティスは分岐で立ち止まり、左右の道を見比べて右を選んだ。
「左は近いですけど、昨日までの雨ならぬかるんでると思います」
右は少し遠回りになる。その代わり緩やかに高い場所を通るため、足場はいいはずだという。ジェラルドは頷きかけて、背負っていた荷物から革張りのノートを取り出した。ブルーノが抜ける日に受け取ってから、ジェラルドが持ち歩くようになったものだ。
該当する場所を探してページをめくる。
「ニコは左を選んでたみたいだ」
カーティスがノートへ目を落とした。
「いつの記録です?」
「ええと……2年前の同じ時期だな」
「晴れてたのでは?」
「ああ、確かに。前の日も晴れだ」
「じゃあ今日は違いますね」
カーティスはそれだけ言うと、右の道へ目を戻した。
「そりゃ左の方が普段は早いですから。俺も雨が降ってなきゃそっちにします」
実際、右の道は多少遠回りにはなったものの歩きやすく、目的地には予定していた時刻より早く着いた。魔物の痕跡もカーティスが見つけ、数と移動方向を確認して記録する。
帰り道、分岐まで戻ったところで、エルマーが左の道を覗き込んだ。
少し先から道の中央まで泥が広がっているのが見える。
「うわ。あっち行かなくてよかったな」
「だから言ったでしょう」
カーティスが笑う。
「まあ、疑ったのはジェラルドだけだけどな」
「疑ったわけじゃないよ」
ジェラルドも笑いながら答え、ふと背中のノートを意識した。
ニコもカーティスも間違っていない。条件が違えば、選ぶ道も変わると分かっているのに、最近は何かあるとノートを開くようになった。以前はろくに読もうともしなかったのに。
そのまま森を抜けるころ、ジェラルドが歩きながら全員を振り返った。
「そういや最近、ちょっと細かいミスが続いてるだろ」
「まあこの前のは悪かったよ。でも今日ってなんかあったか?」
エルマーが聞く。
「今日はないよ。まあ、だから今のうちにさ。しばらくちょっと気を引き締めよう」
「了解」
誰かを責めるような話でもなく、皆も特に気にした様子はなかった。
王都へ戻ったのは夕方だった。
報告を済ませ、いつもの酒場へ入る。5人で卓を囲むことにも慣れてきた。注文した料理が揃うころには、話題は次の依頼へ移っていた。
「南の護衛、5人でもいけるんじゃねえ?」
「距離あるぞ」
「野営1回だろ。余裕だって」
エルマーが肉を切りながら言い、ロルフが依頼書の控えを引き寄せる。
ジェラルドは酒を飲みながら聞いていたが、やがて背もたれに身体を預けた。
「まあ、前衛はもう少し探そう。急いで変なの入れても仕方ないし」
「それはそうだな」
ロルフが頷く。
少し間が空いてから、エルマーが何気なく口を開いた。
「もしもだぞ? もしもだけどさ。ニコを戻すなら、俺はあれ絶対やめさせるからな」
ジェラルドが顔を上げる。
「あれって?」
「何でもかんでも止まるやつ。依頼と関係ない跡までいちいち調べるの」
「ああ」
「説明もな。まあ聞くけどさ、もうちょっと短くしてもらわねえと無理。そこ変える気ないなら、俺はお断り」
エルマーは斜め上を見ながら、他にも思いつくまま指を折っていく。
本人がここにいれば喧嘩になりそうな言い方だったが、ジェラルドは楽しげに笑った。
「その辺はもう、言わなくたってアイツも気づいてるだろ」
「だといいけどな」
「って、お前、薬は作ってほしいんだろ?」
ロルフが笑うと、エルマーは悪びれもせず頷いた。
「そりゃな。アイツがどんなに面倒なやつでも、効くもんは効くんだし」
「勝手だなあ」
「じゃあお前は、あいつが前みたいに何回も足止めても、ちゃんと優しく話を聞いてやれよ。俺らは先に行くから」
「ムリムリ」
ロルフが笑う。
ネイトは酒杯を両手で持ったまま、何も言わなかった。カーティスも口を挟まず、運ばれてきた料理を食べている。ジェラルドは卓の脇に置いた荷物へ目をやった。その中には、さっき森でも開いたニコのノートが入っている。
以前と同じにする必要はない。
探索にはカーティスがいる。ニコが何もかも自分で調べる必要はないし、薬や記録のような得意なこともある。
こちらも、今度は最初から聞かずに切り捨てたりはしない。
やり方なら、いくらでも変えられる。
そんなことを考えていたからだろう。
近くの卓からニコと聞こえた気がして、何となくそちらへ目を向けた。
3人組の冒険者だった。顔を知っている程度で、話したことはほとんどない。
「知らねえな。細っちくて? 髪が黒くてクルクルしてて?」
「ニコだよ。知らねえ? 最近そいつが《ライファ》に入ったんだよ」
一緒に仕事をしたことはないが、《オルディス》の《ライファ》は知っている。
だが、あの有名な先遣隊とニコが結びつかない。
騒がしい店の中でその話を聞き逃すまいと、ジェラルドは自然とそちらへ身体を向けた。
「この前ちょっと一緒になったんだけど、面白くてさ。ていうか、あれは変わってるって言うんかな。草とか跡とか見つけると、急にしゃべる量増えるし」
「ああ、増える増える」
「だから知らねえって」
3人が笑った。
ジェラルドは酒杯を置き、卓に両手をついて身体を乗り出した。
声をかけると、ほろ酔いの少し濁った瞳が、気分を害した様子もなくこちらを見る。
「今、ニコって言ったか? 《ライファ》に入ったって?」
「ああ。言った言った」
エルマーが少し大きめの声で会話に入り込む。
「別のニコじゃないのか?」
「さあ。どのニコだよ」
「黒い髪で、細くて……25くらい。短剣だけ持ってる」
「だからそいつだよ。なあんかさ、戦わなそうな、周りばっか見てるやつ」
「……それ、ニコだ。え、マジで?」
ロルフが小さく呟いた。
「そうそう、ソイツ。《ライファ》の連中と一緒にいてさ。あそこずっとメンバー増えなかったから、あー、珍しいなって思ってさ」
「へえ」
ニコを知らないと言っていた男が、そこで初めて興味を持ったらしい。
「なんだよ、じゃあさぞかしすごいやつなんだろうな」
見たことがあるという男が笑う。
「いや? ちょっと変わってるだけだよ。でもまあ、なかなか面白いやつだったぞ」
話はそれで終わった。
向こうの3人はすぐに別の話題に移ったが、《デルガント》の卓では誰もすぐには口を開かなかった。
さっきまで次の依頼について話していたのが嘘のように、卓の上だけが妙に静かになった。
ロルフは依頼書の控えに視線を落とし、エルマーは酒杯を持ち上げたものの飲まずに戻す。カーティスはちらりと4人を見てから、また料理へ視線を落とした。
最初に声を出したのはネイトだった。
「……よかったんじゃない?」
ジェラルドが見る。
「何が?」
「いや。ニコ、ずっと1人でやってるのかと思ってたから。ちゃんと入るところ決まったなら、よかったかなと思って」
ネイトはそう言って、手にしていた酒を一口飲んだ。
心配していたわけではない。ただ、1人でやっているよりはその方がいいだろうと思っただけだ。
「まあ……そうか」
ロルフも顔を上げた。
「《ライファ》なんてびっくりだけどな」
それから少し考えるようにして、ジェラルドを見る。
「じゃあ戻ってこないな、こりゃ」
ジェラルドは眉を寄せた。
「何で?」
「何でって。だって…」
「ずっとそこにいるとは限らないだろ」
ロルフは少し意外そうな顔をして何か言いかけたが、結局そのまま口を閉じた。
エルマーが一口飲んだ杯を、大きな音をさせて机に置いた。
「何でニコなんだよ」
苛立ったように椅子の背へ身体を預けた。
「ニコが入れるくらいなら、俺だって入れたぞ絶対」
「お前、《ライファ》に入りたかったのか?」
ロルフが笑ったが、エルマーは笑わなかった。
「そりゃ声かけられりゃ誰だって行きたいだろ。《オルディス》だぞ」
今度は誰も笑わなかった。
ジェラルドにも、その感覚は分かった。
《ライファ》が自分たちより上にいることは分かっている。
だが、自分たちでは到底届かないほどの差があるとは思っていない。受けてきた仕事が違い、所属している組織が違う。巡り合わせが少し違っていれば、自分たちだって同じところまで行けたかもしれない。
エルマーはまだ納得できないらしく、酒杯を指で回していた。
「……ハハ、でもあんなヤツ選ぶってことは、実際は大したことないのかもな。《ライファ》も」
「あるんじゃないですか」
それまで黙っていたカーティスが言った。
エルマーが顔を向ける。
「何だよ」
「別に。ニコって人が《ライファ》に入ったこと自体は、そんなに不思議じゃないです」
「お前、会ったこともないだろ」
「ないですよ。でも、ノートは見ましたから」
カーティスはそれ以上続けず、残っていた酒を飲んだ。
ジェラルドは黙っていた。
不思議ではない。その言葉だけが、妙に残った。
ニコに最初に声をかけたのは、自分だった。20歳だったニコを見て、一緒にやれると思った。戦えなくても、あいつにはあいつなりにできることがあると思った。
そして今、《ライファ》がニコを選んだ。
なら、あのとき自分がニコに声をかけたことは、やはり間違いではなかったのだろう。そう思うと、少しだけ胸のつかえが取れた。
けれど同時に、別の疑問が残った。だったら、なぜ自分たちはこうなったのだろう。
楽しくやっていた時期だって、確かにあった。
それなのに最後には、ニコが何か言おうとするだけで苛立つようになり、話を聞くことさえしなくなった。
やはりそれは間違いだったんだろう。
しっかりと価値を認めてやるべきだったんだ。
でも、遅くはない。気づいたのだから。
自分たちにとって、やはりニコは必要だった。
きっとニコにとっても、《デルガント》はかけがえのない場所のはずだ。
いつか会う機会があれば、そのとき伝えればいいと思っていた。
けれど今は、一度ニコとちゃんと話さなければと思った。




