4か月後 ― 薬(デルガント)
《デルガント》がその日の野営地を決めたのは、日が山の向こうへ傾き始めた頃だった。
依頼先は王都から北東へ1日ほどの森で、近隣の村から頼まれた魔物の個体数調査だった。討伐が目的ではないため、昼間は森の広い範囲を歩き、痕跡を見つけては数と位置を記録している。
明日もう半日ほど調べれば、必要な情報は揃う見込みだった。
カーティスが選んだ野営地は、森を流れる細い川から少し離れた平地だった。
水を汲みに行くにも遠すぎず、地面は平らで、大きな木の根も張り出していない。周囲には新しい魔物の痕跡もなく、風を遮る木々もある。
ジェラルドも一通り周囲を見て、問題ないと判断し、皆で荷物を下ろし、それぞれ野営の準備を始めた。
薪を集め、火を起こし、簡単な食事を取る。日が落ちる頃には全員が腰を下ろし、あとは交代で見張りをしながら朝を待つだけになった。
問題が起きたのは、夜が更けてからだった。
「……かゆっ」
最初に声を上げたのはロルフだった。
首筋を掻きながら寝返りを打つ。その少しあとには、ネイトが腕を払った。
焚き火の明かりへ、小さな羽虫が何匹も寄ってきている。
珍しいものではない。
森で野営をしていれば、虫に刺されることくらいあるが、その夜はやけに多かった。
顔の周りを飛ぶ虫を追い払いながら横になっていたエルマーが、とうとう身体を起こした。
「うっとうしいな、もう!」
毛布を肩へ掛けたまま、焚き火へ薪を放り込む。火の粉が舞い上がり、近くにいた虫が散ったが、しばらくするとまた戻ってきた。
「煙増やすか?」
「目まで痛くなるだろ」
ロルフも起き上がり、首筋を掻いている。
見張りに立っていたカーティスが周囲を見回した。
「川が近いからですかね」
「もう少し離れたところにすりゃよかったな」
ジェラルドも腕に止まった虫を叩きながら言ったが、今から暗い森の中で野営地を移すほどのことでもない。
結局その夜は、焚き火の煙を少し強くし、布で肌を覆いながら朝を待った。
◇
翌朝、最も機嫌が悪かったのはエルマーだった。
「くそ、最悪だ」
朝食もそこそこに、首の横を掻いている。
露出していた手首にも赤い跡がいくつか残っていた。
ネイトが共有の鞄から虫刺され用の薬を出し、エルマーへ渡した。
「掻くなよ。余計ひどくなるから」
「分かってるよ」
蓋を開け、指先に薬を取る。
塗ってしばらくすると、エルマーの眉間の皺がさらに深くなった。
「……ああ、やっぱ駄目だ、これ」
「どうした?」
「これ塗ると赤くなるんだよ」
薬を拭いながら舌打ちする。
効かないわけではない。ただ市販のものを使うとかぶれやすい。
以前なら別の薬があった。
ニコがエルマー用に材料を変えて作っていたものだ。
それを最初に口にしたのはロルフだった。
「ニコのやつだと平気だったよな」
「……そうなんだよ」
エルマーは腹立たしそうに薬瓶をネイトへ返した。
「面倒くせえな。薬だけあいつに作らせるか」
冗談めかした口調だった。
ロルフが笑う。
「それならいいかもな。薬は普通に便利だったし」
ジェラルドも何となく笑いかけたが、その横でブルーノが荷物をまとめる手を止めていた。
何も言わず、また革紐を締め直す。
カーティスは焚き火の跡へ土をかけていた。話が聞こえていないわけではないだろうが、こちらも何も言わなかった。
その様子に気づかないまま、エルマーは腫れた手首を見て顔をしかめた。
「そもそも、なんでこんな虫だらけのところで寝たんだよ」
その言葉で、カーティスの手が止まった。
「なんでって?」
「こういうのって先に分かんないのか? 探索役だろ」
カーティスは持っていた枝を焚き火の跡へ放り、立ち上がった。
怒った様子はなかった。ただ、自分たちが一晩過ごした場所を改めて見回す。
「周囲に危険な魔物の痕跡もない。水場も近いし、地面も平らだった。野営できない場所じゃなかったでしょう?」
「できるできないの話じゃねえよ。こんだけ虫がいるなら、別の場所にした方がよかっただろ」
「それはそうですけど」
カーティスはそこで少し考えた。
「でも、季節ごとの虫の出方まで調べて、寝る場所を決めるところまでは俺はやらないですよ」
エルマーが眉を上げた。
「ニコならやってたぞ」
「でしょうね」
カーティスはあっさり認めた。
「あのノート見たら分かります。あの人、そういう細かいところまで調べてたんでしょう」
その言い方が気に入らなかったのか、エルマーの顔がわずかに険しくなる。
「それも探索じゃねえの?」
「探索って言えば探索かもしれませんけど、俺はそこまでやらないです。危険があるなら調べます。でも、虫に刺されない場所まで毎回探すのは……」
カーティスは自分の腕に残った赤い跡を見て、肩をすくめた。
「刺されたら薬塗ればいいと思うんで」
「その薬で俺はかぶれてんだけどな」
「それは俺に言われても困りますよ」
ロルフが吹き出した。
エルマーもさすがにそれ以上はカーティスを責めず、赤くなった手首をもう一度掻こうとしてネイトに止められた。
ジェラルドはそのやり取りを聞きながら、昨夜過ごした場所を眺めた。
危険ではなうし、依頼にも何の支障もない。
ただ、一晩中虫に悩まされ、全員よく眠れなかった。それだけだ。
それだけのことを、ニコなら気にしただろうか。
「……ブルーノ」
「ん?」
「あのノート出してくれ」
ブルーノが顔を上げた。
一瞬だけ間があったあと、荷物の奥から革張りのノートを取り出す。
ジェラルドが受け取りページをめくっていくと、該当する地域の記録はすぐに見つかった。
数年前の日付が書かれている。
当時の依頼内容と天候、歩いた道。その下に、野営した場所についての短い記述が残っていた。
この時期は川沿いに羽虫が多い。
夜営するなら、水場から離れた東側の高所がよい。
さらにその下には、虫除けに使える草の名前まで書かれている。
「……書いてあるな」
ジェラルドの声に、ロルフとネイトも寄ってきた。
「マジで?」
「ここだ。たぶん昨日いた辺り」
地図と照らし合わせる。
少し東へ進んだ場所には、昨夜の平地よりわずかに標高の高い場所があるらしい。
歩いても大した距離ではない。
エルマーが横からノートを覗き込み、呆れたように息を吐いた。
「こんなのまで書いてんのかよ」
「細けえなあ」
ロルフが笑った。
以前なら、それで終わっていた言葉だった。
ジェラルドは開いたページから目を離さなかった。
「ニコなら、昨日あそこにしなかったな」
口にすると、妙に確信があった。
魔物もおらず、危険な場所でもないが、それでもニコなら、虫が多いかもしれないと言って、東へ行こうとしたはずだ。
エルマーが鼻を鳴らした。
「じゃあ、次から先にノート見とけばいいだろ」
確かにそうだった。
ノートを読めば、自分たちにも分かる。
「これ、やっぱ便利だな」
ロルフが横から言った。
「ブルーノ、これもっと活用しようぜ」
ブルーノはすぐには答えなかった。
開いたままのノートを見てから、ロルフへ目を向ける。
「ああ」
短く返し、ジェラルドの手からノートを受け取った。
「薬の作り方も載ってんだろ?」
エルマーがまだ赤い手首を見ながら尋ねる。
「自分で作る気か?」
「もしかしたら作れるかも、って絶対ムリか、小難しいつくり方見ただけで腹が立ちそう」
エルマーは恨めしそうな顔で、虫に刺された場所をギュッとつねった。
「アイツに作らせりゃいいんだよな。探索はカーティスがいるんだし。そういうことだけやってくれりゃよかったんだよ」
ロルフが「ああ」と軽く頷いた。
「それなら案外うまくいったかもな」
カーティスは荷物を背負い直しながら、その会話を聞いていた。
何か言いかけたように見えたが、結局何も言わない。
ブルーノも黙っていた。
ただ、革張りのノートを鞄へ戻す手つきだけが、少しゆっくりしていた。
ジェラルドはエルマーの言葉を頭の中でもう一度繰り返した。
探索はカーティスに任せる。
ニコには、薬や記録をやってもらう。
気になることがあっても、全部その場で話さなくていい。必要なものだけまとめてもらえばいい。
それなら、以前よりうまくやれるのではないか。
ニコが細かすぎるところは、自分たちももう分かっている。
自分たちだって、聞き方には気をつければいい。
「……そうか。そうだな」
気づけば、ジェラルドはそう呟いていた。
出発の準備を終えた一行は、昨日の調査の続きをするため森の奥へ向かった。
昨夜ほとんど眠れなかったせいで、いつもより口数は少ない。
それでも依頼そのものに問題はなかった。
昼前には予定していた範囲を調べ終え、帰路につくことができた。
《デルガント》は、ニコがいなくても仕事を続けられている。
ただジェラルドの頭には帰り道のあいだも、エルマーの言葉が残っていた。
――薬とか、こういう細かいのだけやってくれりゃよかった。
それなら今度は、うまくいくのではないか。




