第99話 開幕
新規オープン当日。
朝早くから、ハクさんは両店舗の間を静かに行き来していた。厨房の火入れ確認、ホールの椅子の配置、キャストの控え室の準備。誰に言われるでもなく、全てが開店前に整っていた。それがハクさんという男だった。
リュウジィとミライが並んで店に着いたのは、開店一時間前だった。
ハクさんが扉の前で待っていた。リュウジィの姿を認めると、深く一礼した。
「お待ちしておりました」
「準備は?」
「滞りなく」
そう答えると、ハクさんは踵を返し、両店舗の間へと消えていった。
ミライはロクメイカンで、数えきれないほどの貴族と、その従者たちを見てきた。だが、今の一礼ほど美しい所作は見たことがなかった。頭の下げ方ひとつ、踵の返し方ひとつに、無駄が一つもない。名家に仕える執事でさえ、ああはいかない。
ミライがその背中を見送って、小さく言った。
「凄い人ね」
「本当、頼りになるよ」
ジャンヌダルクの扉を開けた瞬間、キャストの一人が足を止めた。
天井から連なる魔石の照明が、シャンデリアのように柔らかな光を落としている。
深紅のビロードのソファと絨毯が、フロア全体に敷き詰められていた。
金細工の装飾が壁を縁取り、重厚な木製のカウンターが奥に構えている。
見上げれば二階席が緩やかに張り出し、その手すりにも細かな細工が施されていた。
「……本当にここで働くの、私たち」
天井を見上げたまま、誰かが呟くように言った。答える者はいなかった。ただ、全員が同じ気持ちだった。
リナがキャストたちの最終確認をしていた。ミーナが隣に立ち、鏡越しにリナと目が合った。
「今日は気合い入ってますね」
「当然でしょ。新しい店の初日よ」
ハニーブロンドのロングヘアーを一度払いながら、リナが答える。
「そうですね」
ミーナが小さく笑った。
バッドが黒服姿で扉の前に立ち、シドがその横に控えていた。ミライが二人の前を通り過ぎる際、バッドが背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見据えた。
「任せてください」
「よろしくね」
ミライは軽く目を細め、フロアへと消えた。
バッドはその背中を見送って、シドに小声で言った。
「やっぱかっこいいな」
「当たり前だよ、兄貴の彼女だぞ」
開店の時刻になった。
ハクさんがリュウジィの隣に立ち、前を見据えたまま静かに告げた。
「準備が整っております」
リュウジィが頷く。扉が開いた。
開店と同時に貴族や商人が押し寄せ、フロアはあっという間に埋まった。キャストたちが客席を縫うように動き回る中、ミライは全体を見渡しながら矢継ぎ早に指示を出した。
「七番に新規のお客様。ニーナさん、お願いできる?」
ミライはフロアを見渡したまま、ニーナに声をかけた。
「行きます」
ニーナが黒髪を揺らしながら、静かにそのテーブルへ向かった。
「三番のお客様、長くなりそうで。リナさん、お願いできますか」
ミライが背中越しに声をかけた。
「わかった」
リナが笑顔を作りながら三番テーブルへ向かう。
バッドが扉の前で入店待ちの客をさばいていた。列が通りまで伸びている。
「申し訳ございません、ただいま満席でして」
バッドが深く頭を下げながら答える。
「いつ入れる」
「三十分ほどお待ちいただければ」
バッドは一歩も退かず、真っ直ぐ目を見て答えた。
シドが横で無言の圧力をかけている。客は渋々列に戻った。
カエデがミライの隣に立った。
「ジョジョエンの様子を見てくるわ」
そう言い残して、カエデはフロアを後にした。ミライは小さく頷き、また次の指示へ動いた。
その頃、ジョジョエンでは、キングオーグの肉が焼ける香りが通りにまで流れ出ていた。開店前から並んでいた客で、ホールは開店十分で満席になっていた。
各テーブルで、客たちが思い思いにキングオーグの肉を焼いている。
「三番テーブル、キングオーグ二人前追加!」
バッドの母の声が、ホールから厨房へ飛ぶ。ゼノンが皿を抱えて走り、ギノンが別のテーブルで注文を受ける。
すれ違いざまに、ギノンがゼノンを小突いた。
「緊張してんじゃねえか」
「してねえよ」
二人のやり取りが聞こえてきて、バッドの母が苦笑した。
「こっちもキングオーグ頼む!」
「少々お待ちください!」
ギノンが返しながら、隣のテーブルの客に頭を下げる。
タツヨは厨房と客席の間を往復しながら、皿を運び、空いた皿を回収し、水を注ぎ足す。居酒屋バイトの経験が、体に染み付いていた。
「おい、こっちの肉まだか」
「今参ります」
笑顔で答えながら、タツヨがすれ違いざまにゼノンの背中を軽く叩く。
「四番、頼む」
「あ、はい!」
皿を置いて一息ついたタツヨが、ホールを見渡してぼやいた。
「思ったより広いな」
「どう、まだいけそう?」
バッドの母が声をかける。
「任せろ!」
タツヨは口角を上げ、拳を軽く握った。
スタッフが右往左往する中、バッドの母だけが泰然としていた。
「大丈夫大丈夫、焦らなくていいから!ほら次いくよ!」
ホールの真ん中で腰に手を当てながら、バッドの母が声をかける。
その一言で、ホールの空気が落ち着いた。
リッカは会計カウンターの端で帳簿を広げ、精算をこなしながら、数字を書き込み続けた。客が途切れない。手が追いつかない。それでも指は止めなかった。
カエデがジョジョエンに顔を出し、リッカの手元を一瞥した。
「問題ない?」
「なんとか」
リッカは指を止めずに答えた。
「初日はどうしても混乱するから、入金はこの順番で。わからなければ、手の空いた人にハクさんか私を呼びに行ってもらって」
リッカの帳簿を指でなぞりながら、カエデが説明する。
「わかりました」
「ならいい」
それだけ言って、カエデは足早にジャンヌダルクへ戻っていった。
夜が更けた頃、両店舗の扉が閉まった。
閉店後、スタッフ全員がジョジョエンに集まった。テーブルの上にキングオーグの肉が並べられ、リッカが今日の売上を帳簿に書き込んでいる。カエデがその隣で数字を確認していた。
「初日にしては上出来ね」
カエデが帳簿から目を離さずに言った。
リッカは数字を見て、目を丸くした。
「……これ、本当ですか」
「本当よ」
タツヨが肉を頬張りながら立ち上がった。
「じゃあ俺が音頭取るか」
「お前が取るのか」
「文句あるか」
タツヨが杯を持ち、スタッフ全員をゆっくりと見渡した。
「リュウジィと、ここにいる全員に。乾杯」
ハクさんが、珍しく杯を持って口をつけた。バッドがゼノンとギノンと杯をぶつける。ニーナとリナが笑い合う。ミライがリュウジィの隣で静かに杯を傾けた。
借金を抱えて撃たれた男が、気づけばここまで来ていた。隣には彼女がいて、仲間がいて、店がある。
リュウジィはその光景を少しだけ眺めながら、胸の奥に込み上げてくるものを感じていた。
「兄貴、早く飲んでくださいよ」
バッドが声をかける。
リュウジィは杯を持った。
「うるさい」
笑いが起きた。
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