第96話「店じまい」
市場街から人の波が消え始めたのは、日が赤く傾き始めた頃だった。昼間には怒鳴り声で埋め尽くされていた石畳の大通りも、今は片付けの音が目立ち始めている。露店の店主たちは余った食材へ布を掛け、木箱を縄で縛り、売れ残りを荷車へ積み込んでいた。
「おいガキ! その箱そっちじゃねぇ!」
「今日赤字だわ……」
「酒場行く奴いるかー!」
昼の喧騒とは違う、仕事終わり特有の空気が市場を包んでいる。
そんな中、リッカは露店の前で大量の硬貨を数えていた。
「……よし」
積み上げた硬貨を革袋へ流し込み、深く息を吐く。
「結局今日もギリギリかぁ……」
そう呟きながら肩を回した瞬間、
「お疲れ様です」
「うわっ!?」
真横から声が飛んできた。リッカが振り向くと、黒のパンツスーツ姿の女――カエデが無表情で立っていた。
「……あんたまだいたの?」
「待っていました」
「嘘でしょ……」
リッカは思わず額を押さえた。
「普通帰るでしょ。あの流れなら」
「約束でしたので」
真顔だった。リッカは数秒黙り込み、
「……真面目過ぎて逆に怖いんだけど」
そう呟きながら露店の布を畳み始める。カエデはそんな様子を静かに見ていた。
「手伝います」
「え?」
「荷物運び」
「あー……じゃあその木箱お願い」
「はい」
カエデは積み上げられた荷物を一つずつ確認すると、荷車の空いている場所へ順番に運び始めた。
動きに無駄がない。
重そうな荷物を無理に抱え込むこともなく、持ちやすいものから手を付け、荷崩れしないよう配置まで考えている。
「……あんた、意外とこういうの慣れてる?」
「初めてです」
「初めてでそれ?」
「効率を考えただけです」
リッカは呆れたようにカエデを見る。
普通なら荷物を運ぶだけで精一杯になりそうなところを、カエデはまるで作業手順まで決めていたかのように淡々と進めている。
「なんかさ……」
「はい」
「いちいちやることが合理的すぎない?」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
リッカは苦笑しながら、残った荷物をまとめ始めた。
手伝ってもらっているはずなのに、なぜか自分まで仕事のやり方を見直したくなってくる。
妙な女だった。
「で? 店って何の店なの?」
荷車へ木箱を積み込みながらリッカが聞く。
「飲食店です」
「酒場?」
「焼肉屋です」
「やき……?」
リッカが首を傾げた。聞き慣れない単語だった。カエデは少し考え、
「肉を焼いて食べる店です」
「いや肉は普通焼くでしょ」
「目の前で焼きます」
「……?」
リッカの顔に「何言ってんだこいつ」と書かれている。
「他にはキャバクラも経営しています」
「きゃば……?」
「酒を飲みながら女性と会話を楽しむ店です」
「……金持ち相手?」
「主に」
「うわぁ……」
リッカは若干引いた顔をした。
「なんか急に胡散臭くなったんだけど」
「よく言われます」
真顔だった。リッカは吹き出しそうになるのを堪える。
「……あんたさ、絶対市場向きじゃないよね」
「そうでしょうか」
「そうだよ。浮き過ぎ」
黒のパンツスーツを指差しながらリッカが言う。
「その服も何なの? 貴族?」
「違います」
「商人?」
「違います」
「じゃあ何」
「飲食店勤務です」
「そこだけ絶対譲らないよね!?」
ようやく荷物の積み込みを終え、リッカは荷車へ腰を下ろした。
「……で、どこまで話せばいいの?」
「借金額からお願いします」
「初手それ!?」
リッカが素っ頓狂な声を上げる。
「普通もっとこう……世間話とかあるでしょ!」
「重要事項かと」
「間違ってはないけど!」
カエデは真顔のまま続けた。
「昼間の男たち。恐らく非正規の金貸しです」
「……まあね」
「利率が異常でした」
リッカの顔から少し笑みが消える。
「見てたんだ」
「はい」
「……15000ゴルド」
ぽつりとリッカが呟いた。
「現在の借金総額です」
カエデは静かに計算する。露店商としては、かなり重い額だった。
「返済は?」
「毎日少しずつ。でも利息が増える方が早い」
リッカは乾いた笑みを浮かべる。
「まぁ、典型的なやつ」
「何故借りたんですか?」
「親父が死んだから」
あまりにも軽く言われた言葉に、逆に空気が止まった。
「露店ごと借金残してさ。逃げたかったけど、店畳んだら今度は食ってけないし」
リッカは空を見上げる。市場街の夕暮れは、赤黒く濁っていた。
「だから毎日ここで必死に売ってる」
「なるほど」
「反応薄っ!」
「事情は理解しました」
「理解早いなぁ……」
リッカは苦笑する。だがカエデは真剣だった。
「ちなみに帳簿は付けられますか?」
「話戻るの!?」
「重要ですので」
カエデは本気だった。リッカは数秒黙り込み、
「……独学だけど、一応」
そう答えた。その瞬間。カエデの目が僅かに鋭くなる。
――当たりだ。
そんな空気だった。
「15000ゴルドでしたね」
「え?」
「借金」
「あ、うん」
カエデは懐から革袋を取り出す。そして何の躊躇もなく、リッカへ放った。ズシリ、と重い音。
「……は?」
リッカが目を瞬かせる。革袋の口が少し開き、中から大量の硬貨が覗いていた。
「返済に使ってください」
「…………」
リッカの思考が止まる。
「いや、待って」
「足りませんか?」
「そういう話じゃなくて!?」
リッカが慌てて革袋を押し返す。
「何!? 怖っ!! 何なのあんた!?」
カエデは革袋を静かにリッカの手へ戻した。
「優秀な人材確保には必要経費です」
カエデは即答した。
「安いですね」
あまりにも自然に言われたその一言に、リッカは完全に固まった。
「…………は?」
「15000ゴルドで経理経験者を確保出来るなら破格です」
「いや意味分かんないんだけど!?」
リッカが叫ぶ。
「もっとこう……あるでしょ!? 騙すとか! 契約書とか!」
「逃げますか?」
「その質問怖いんだけど!?」
カエデは真顔のまま首を傾げた。
「逃げないのであれば問題ありません」
「問題だらけだよ!!」
市場街にリッカの叫び声が響く。だがカエデは相変わらず真顔だった。
「返済後、生活基盤を失う可能性があります」
「……え?」
「露店の利益率が低い。加えて借金返済分で手元資金が減る。このままでは再度借入する可能性が高いです」
淡々と。本当にただ計算結果を読み上げるように、カエデは言った。
「なので環境変更を提案しています」
「…………」
リッカが黙る。
「ちなみに給与は出ます」
「いやそういう問題じゃ――」
「住居もあります」
「ちょっと待って」
「食事付きです」
「待遇が良くなるほど怖いんだけど!?」
リッカが半歩下がる。だがカエデは構わず続けた。
「帳簿管理。売上確認。仕入れ補佐。人員管理補助」
「人員管理?」
「従業員数が増えましたので」
カエデは静かに言う。
「現在、管理出来る人間が不足しています」
「……」
リッカは思わず革袋を見る。15000ゴルド。自分が毎日必死に働いても、返済の終わりが見えなかった金額。それをこの女は、まるで昼飯代でも払うみたいに出した。
「……なんでそこまですんの」
小さく漏れた声。カエデは少しだけ考える。
「必要だからです」
「いやだからその必要の基準が怖いって!」
「あと、あなたは壊れにくそうです」
「は?」
「市場で一人で生き残っている」
カエデはリッカを真っ直ぐ見る。
「精神的耐久力が高い」
「……褒めてる?」
「はい」
「全然嬉しくないんだけど」
リッカは頭を抱える。だが、
――悪い話じゃない。
それも事実だった。借金は消える。寝る場所の心配も減る。食事付き。給料まで出る。普通なら飛び付く条件だ。問題は。
「……絶対ヤバい店でしょ」
「合法です」
「そこ即答する!?」
「税金も払っています」
「聞いてないんだけど!?」
リッカはとうとう吹き出した。笑うつもりなどなかった。だが駄目だった。
「ふっ……あはは……っ」
市場街の夕暮れの中。張り詰めていたものが少しだけ崩れる。カエデはそんな様子を静かに見ていた。
「……あーもう」
リッカは笑いながら額を押さえる。
「分かった。今日は逃げない」
「はい」
「でも働くとは――」
カエデはリッカの荷物を自然に持ち上げた。
「では職場見学へ」
「……は?」
「現在、店舗分離中ですので」
「店舗分離?」
「元々、一階が焼肉屋、二階がキャバクラでした」
「だからその"きゃばくら"って何なの!?」
「酒を飲みながら女性と会話を楽しむ店です」
「うわ本当に胡散臭い」
「現在、焼肉屋を別店舗へ移転しています」
「……あー、それで人手足りないんだ」
「はい。経理と管理人員が不足しています」
そう言ってカエデは歩き始めた。迷いが一切無い。
「いやいやいや! 心の準備とかあるんだけど!?」
「問題ありません」
「何が!?」
市場街の喧騒を抜けながら、リッカは半ば引きずられるようにその後を追う。
その時点ではまだ。自分の人生が、今夜を境に大きく変わることを、彼女は知らなかった。
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