第95話「市場街ニシキ」
店舗分離に伴い、リュウジィから新たに経理補佐を一人雇う許可を得たカエデは、人材探しのため王都最大の市場街を訪れていた。
昼を過ぎても、ニシキは人の熱気で溢れていた。
石畳の大通りには露店が隙間なく並び、香辛料、干し肉、酒瓶、魔導具、他国の織物まで、ありとあらゆる商品が雑多に積み上げられている。
「道開けろ! 荷車が通るぞ!」
「120ゴルドだと!? ふざけんな、昨日は80ゴルドだっただろうが!」
「東国産の薬草だ! 偽物掴まされる前にこっち来な!」
怒鳴り声にも似た呼び込みが四方から飛び交い、値切り交渉をする商人たちの声が重なり合う。
昼間だというのに酒場は既に客で埋まり、酔っ払い同士の怒鳴り合いまで聞こえていた。荷車の車輪が石畳を軋ませ、店番の子供が客の間を駆け抜けていく。
中世ヨーロッパ風の石造りの街並みでありながら、この場所には王都特有の上品さなど存在しない。
あるのは、人の熱気とゴルドの音、そして剥き出しの生活だけだった。
そんな喧騒の中を、カエデは静かな足取りで歩いていた。
腰には二本の麟角刀。
艶のある黒髪を背中まで伸ばし、細い銀縁の眼鏡を掛けた女は、この世界では見慣れない黒のパンツスーツを身に纏っている。
王都の仕立て屋に、リュウジィがカエデ用に特注で作らせた、その衣装は、貴族服とも東国衣装とも違う。市場の荒くれ者たちが無意識に視線を向ける程度には、異様な存在感を放っていた。
だが、カエデは周囲から向けられる視線など気にも留めず、人の流れを冷静に観察していた。
彼女は商品を見ているのではない。
――人を見ていた。
数字を扱える人間はいる。
だが、"店の金"を任せられる人間は少ない。
カエデは通り沿いに並ぶ露店へ視線を向けながら、人混みの中を進んでいく。
立ち止まる者、急ぐ者、金を出す者、誤魔化す者。
人の動きを一人ずつ見極めながら、経理補佐として使える人間がいないか探していた。
その時だった。
「はいはい、干し肉三つで70ゴルド! ……って、おっさん10ゴルド足りないよ」
威勢のいい声が響いた。
通りの角にある露店で、一人の若い女が客を相手に立ち回っている。
年齢は二十歳前後。
栗色の髪を後ろで雑に束ね、袖をまくった姿で次々と客を捌いていた。
女は手のひらに硬貨を乗せて見せる。
「気のせいじゃないって。ほら、60ゴルドしかない」
女は笑いながら、男の手に硬貨を押し返す。
その間にも別の客へ釣り銭を投げ渡し、後ろの在庫を確認し、隣の露店と値段を比較して声を張り上げる。
「そっちより安くするから見てきなって!」
動きに無駄がない。
カエデは足を止めた。
――速い。
暗算だけではない。
客の財布。商品の回転。在庫の減り。人の流れ。
それら全てを同時に見ながら、女は次々と客を捌いている。
カエデはしばらくその動きを観察してから、人混みをかき分けて露店の前に立った。
「あなた、計算速いですね」
不意に声を掛けられ、売り子の女が顔を上げた。
「……は?」
「客の財布の中身を見て値段を変えてる。在庫確認も同時。釣り銭も間違えない」
カエデは淡々と続ける。
「独学ですか?」
女は一瞬だけ目を細めた。
――見抜かれている。
そんな表情だった。
女は視線をカエデから客へ戻した。
「悪いけど今忙しいんだわ。用があるなら買ってって」
そう言いながらも、女の手は止まらない。
「そっちの兄ちゃん! 干し肉触るなら買って!」
「1000ゴルド崩すからちょい待ち!」
「あーもう、横入りすんなって!」
次々と客を捌きながら、再びカエデを見る。
「で? 何なのあんた」
カエデは真正面から女の目を見た。
「働きませんか?」
カエデは真顔で言った。
「私の店で、経理補佐を探しています」
女は一瞬、言葉を失う。
「……いや、話飛びすぎでしょ」
女は呆れたように笑った。
「初対面で何なの? あんた」
「カエデです」
「名前じゃなくて」
即答だった。
カエデは小さく首を傾げる。
「経理経験者を探しています」
「いや、だからそういう話じゃなくてさ……」
女が額を押さえた、その時だった。
「おい」
低い男の声が割り込んできた。
振り向くと、三人組の男たちが露店の前に立っていた。
薄汚れた革鎧。腰には短剣。
いかにも市場街に居座る荒くれ者といった風貌だった。
「今日までだって言ったよなぁ?」
男がニヤつきながら言う。
「ツケ、払ってもらおうか」
女は露骨に顔をしかめた。
「……今商売中なんだけど」
「知るかよ」
頭の男が露店へ肘を乗せる。
積まれていた干し肉が崩れ、木箱が傾いた。
「あっ、おい!」
「払えねぇなら、別の形でもいいぜ?」
男たちが下卑た笑みを浮かべる。
周囲の通行人たちは視線こそ向けるものの、誰も止めようとはしない。
市場街では珍しくない光景なのだろう。
女は小さく舌打ちした。
「あと三日待ってって言ったじゃん」
「三日前も同じこと聞いたなぁ?」
男が笑う。
「そろそろ身体で払ってもらうしか――」
「三秒以内に離れてください」
静かな声だった。
男たちが動きを止める。
いつの間にか、カエデが男のすぐ横に立っていた。
細身の麟角刀が、男の手首へ静かに添えられている。
「……は?」
男が目を瞬かせた。
カエデは無表情のまま眼鏡を押し上げる。
「営業妨害です」
「な、何言って――」
ヒュッ――。
風切り音が響いた。
「ぎゃああああッ!?」
男の短剣が石畳へ転がった。
手首から血が噴き出している。
誰も、いつ麟角刀が抜かれたのか見えていなかった。
「ひっ……」
後ろの男たちが後退る。
カエデは血振るいすらせず、静かに麟角刀を下ろした。
そして、男たちを順番に見渡す。
「次は利き腕が飛びます」
無機質な声だった。
市場の喧騒が、一瞬だけ遠のいた気がした。
「て、てめぇ……!」
手首を押さえながら男が後退る。
だが目の前の黒髪の女は、一切表情を変えない。
細い銀縁の眼鏡。
黒のパンツスーツ。
そして、血の付いた細身の麟角刀。
その姿だけが、騒がしい市場の中で異様に浮いて見えた。
「まだ続けますか?」
カエデが静かに問う。
男たちの顔が引きつる。
見えていないのだ。
いつ抜いたのか。
どう斬ったのか。
何故、手首だけを正確に裂かれたのか。
「……っ、行くぞ!」
先頭の男が吐き捨てるように叫ぶ。
三人は逃げるように人混みの中へ消えていった。
残されたのは、妙な静寂だけだった。
「…………」
売り子の女が固まっている。
カエデは何事もなかったかのように麟角刀を鞘へ納めた。
そして露店の前へ戻る。
「これで落ち着いて話せますね」
「いや全然落ち着けないんだけど!?」
女が思わず叫ぶ。
「何!? 今の!? 怖っ!」
「脅しただけです」
「脅しで済む出血量じゃなかったでしょ!?」
周囲で見ていた通行人たちも、距離を空け始めていた。
「……あんた何者?」
女が警戒混じりに問い掛ける。
カエデは少しだけ考え、
「飲食店勤務です」
真顔で答えた。
「絶対違うでしょ」
女は呆れたように笑いながらも、先程までより警戒を解いていた。
少なくとも、自分を助けたことだけは事実だったからだ。
「……で? 本当に人探してんの?」
「はい」
カエデは頷く。
「計算が出来て、金をごまかさない人を探しています」
「随分限定的だね」
「貴重なので」
真顔だった。
女は思わず吹き出す。
「変な人……」
そう呟いてから、露店の木箱へ腰掛けた。
「私はリッカ」
「リッカ」
「そ。あんたはカエデだっけ」
「はい」
リッカは少しだけ考えるように視線を逸らす。
そして木箱に腰掛けたまま、腕を組んだ。
「……今日の店じまい終わったら、少しだけ話聞く」
そう言った。
カエデは静かに頷く。
「助かります」
市場街の喧騒は、まだ止まらない。
だがカエデはようやく、"当たり"を見つけた気がしていた。
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