第86話 ツキノの告白
馬車が止まり、俺は外に出た。
夕闇の中に、前と変わらない黄金の輝きが浮かんでいる。
ロクメイカンの建物を見上げた。ここに来るのは二度目だ。
自分の店の三倍は魔石を使っているという金色の建物は、豪華な光を放ち、夜の闇を塗りつぶしている。
外壁に埋め込まれた大量の魔石が、周りの家並みを圧倒するように輝いていた。その明るさは、自分の店とは比べものにならない。
この街で、ロクメイカンの名前を知らない者はほとんどいない。
高級娼館。
ただ女性と酒を楽しむだけの店ではない。ここに来る客は、金だけでなく、身分や評判、そして店からの信頼さえも求められる。
特に、ロクメイカンのナンバーワンであるツキノに会うとなれば、話は別だ。
どれだけ金を持っていても、誰でも簡単に相手をしてもらえるわけではない。
客が女性を選ぶのではなく、女性の側が客を選ぶ。
現世でいうところの花魁に近い存在。
その中でもツキノは、ロクメイカンの看板を背負う特別な女性だった。
彫刻のある重い鉄の門の前に立ち、一呼吸置いた。
門の両脇に立つ正装の門番が、俺の前に一歩出て、視線を向けてくる。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「ギャングスターの、リュウジィだ」
俺が答えると、門番は短く頷き、黄金の門に手をかけた。
重い音を立てて、左右に扉が開く。
開いた門の奥から、甘い香油の匂いと、黄金の光が流れてきた。
石畳を踏み、建物の中に入った。
エントランスを抜けた先には、広いロビーがある。床には毛足の長い絨毯が敷かれ、足音が消えていく。
前にカシムと座った、深い緑色の革張りソファが並ぶ一角を通り過ぎた。
あの時も、この場所には上品な服を着た客たちがいた。
高価な酒を手にした男たちが、隣に座る女性へ甘い言葉を囁いている。女性たちは笑顔を浮かべ、客の話に耳を傾けていた。
しかし、どれだけ豪華な服を着ていても、どれだけ金を持っていても、この店の頂点に立つツキノの隣に座れる者は限られている。
彼女は、誰かに買われるだけの女性ではない。
自分の価値を知り、相手を選ぶ側の人間だ。
そんなことを考えていると、ロビーの奥から、聞き覚えのある足音が近づいてきた。
黄金の光を背にして現れたのは、ツキノだった。
「……リュウジィ、来てくれたの?」
ツキノは俺の前で足を止め、少しだけ目を細めた。
その表情には、普段から客の前で見せている余裕がある。
けれど、よく見れば、赤い瞳の奥にはわずかな揺らぎがあった。
相変わらず、真夜中の闇を溶かしたような黒髪が波打ち、歩くたびに甘い果実の香りが漂う。
艶やかな髪も、整った顔立ちも、相手を惹きつける仕草も、すべてが彼女の武器なのだろう。
ロクメイカンのナンバーワン。
数え切れないほどの客を魅了し、簡単には手の届かない場所にいる女性。
そんなツキノが、今は俺の前に立っている。
それだけで、周囲の客たちの視線が集まっているような気がした。
「行きましょう。こっちよ」
ツキノはそう言って、俺を促した。
俺は頷き、ツキノに導かれて、奥に続く広間へ入った。
広間には、贅沢な格好をした客たちが、隣に座る女性たちと楽しそうに酒を飲みながら話している。
豪華な照明が天井から降り注ぎ、色とりどりの衣装をまとった女性たちが、華やかな笑顔を浮かべていた。
酒の香りと香油の匂いが混ざり合い、楽しげな笑い声が広間の中に響いている。
その中でも、ツキノの存在は明らかに違っていた。
彼女が歩くと、何人もの客が自然と視線を向ける。
ロクメイカンのナンバーワンが、誰かを連れて広間を横切っている。
その事実だけで、周囲の空気がわずかに変わった。
俺はツキノに導かれ、その賑やかな喧騒の中に身を置いた。
広間の一角にある席に座り、運ばれてきたグラスを合わせた。
澄んだ音が響く。
ツキノはグラスを傾け、ふっと表情を和らげた。
「来てくれてありがとう。……本当に嬉しいわ」
その言葉は、普段の彼女が客に向ける社交辞令とは少し違って聞こえた。
高級娼館のナンバーワンであるツキノなら、客を喜ばせる言葉などいくらでも知っているはずだ。
相手の気分を読み、欲しい言葉を選び、自然な笑顔で届ける。
それが彼女の仕事であり、彼女が身につけてきた技術なのだろう。
だが、今の声には、そうした計算だけではないものが混じっていた。
「アズマリアの件、お疲れ様。大変だったわね」
ツキノはそう言って、グラスの縁に唇を寄せた。
「なんだ、バッドはそこまで話してたんだ」
俺は苦笑しながら、グラスを傾ける。
「……あのさ、ツキノさん。ずっと聞きたかったんだけど、毎週店に来てくれてたみたいだね。なんで? 確かにうちの焼き肉は美味いけど、毎週来るのは……」
俺が問いかけると、ツキノは赤い瞳を少し泳がせた。
グラスの縁を指でなぞりながら、しばらく考え込む。
普段のツキノなら、こんなふうに返事に迷うことはないのだろう。
どんな客が相手でも、相手の気持ちを読み取り、柔らかな笑みを浮かべながら、隙のない言葉を返す。
けれど、俺の前では、その完璧な余裕が少しだけ崩れていた。
「……心配だったから、かな。自分でもよくわからないの」
「はあ? わからないって……」
「だって、そんなのわからないよ」
ツキノは小さく笑った。
その笑みには、いつもの花魁らしい艶やかさがあった。
それなのに、どこか誤魔化しているようにも見えた。
「……ねえ、リュウジィ。君はどうして甘いものが好きなの? そう聞かれて、ちゃんと理由を答えられる?」
茶目っ気のある笑みを浮かべ、ツキノは俺の顔を覗き込んできた。
その仕草は、客を惹きつけるために磨かれたものなのかもしれない。
わずかに首を傾け、相手の目を見つめ、甘い声で問いかける。
そんな仕草ひとつで、男たちは簡単に心を奪われるのだろう。
だが、今のツキノは、俺を誘惑しているというより、本当に答えを求めているように見えた。
「うーん、それは……」
俺はグラスを置き、少し考える。
「でもさ、俺がいくら店をやってるからって、ツキノさんから見たら俺なんてまだ小僧でしょ。そんなに気に掛けるような相手かな」
中身は46の親父なんだけどな。
心の中で付け加え、俺は苦笑いして視線を外した。
ロクメイカンのナンバーワンであるツキノから見れば、俺なんてまだまだ若い。
大勢の客から求められ、金や身分を持つ男たちを相手にしてきた彼女にとって、俺のような男は特別な存在ではないはずだった。
だが、ツキノは笑わなかった。
赤い瞳が、真っ直ぐにこちらを捉える。
「自分でも不思議なの。貴方は普通の人じゃないから」
ツキノは静かに言葉を続けた。
「言葉や見た目だけじゃなくて、もっと深いところに何かがある気がするのよ」
「普通じゃない? ……まあ、確かにそうかもね」
ある意味、普通じゃないのは確かだけどな。
俺が曖昧に返すと、ツキノは確信を持ったように頷いた。
「普通じゃないわよ」
ツキノはグラスを置き、俺を見つめる。
「だってその若さでお店を成功させて、力もあって、王宮や貴族にもつてがある。そんなの、普通ならもっと傲慢になって調子に乗るわよ」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、貴方はそうじゃない。初めてお店に行った時だって、どこか冷めていたし」
「そうだったかな。……あんまり自覚はないけど」
あの時はリブルに完敗して、めちゃくちゃ凹んでたからな。
俺はグラスの中身を眺めながら、心の中で苦笑した。
ツキノはそんな俺の様子を見て、少しだけ目を細める。
その視線には、客を見る時のような値踏みする色はなかった。
男の価値を金や身分で測るのではなく、目の前にいる一人の人間を見つめている。
「だから気になった。何故か分からないけど、貴方のことがどうしても気になるの」
その言葉に、俺は返事をするのを忘れた。
ツキノは、いつものように余裕のある笑みを浮かべている。
ロクメイカンのナンバーワンとして、誰にも簡単には触れさせない女性の笑み。
けれど、その瞳の奥には、今まで見たことのないものがあった。
客の前では決して見せない、戸惑いのようなもの。
自分でも理由を説明できない感情に、ツキノ自身が驚いているようにも見えた。
俺は何も言わず、グラスを傾けた。
それからしばらく、俺たちは他愛のない話をしながら酒を楽しんだ。
ツキノは時折楽しそうに笑い、俺のグラスが空くたびに酒を注いでくれた。
アズマリアでの出来事。
ギャングスターの店のこと。
カエデが探してきた新店舗の話。
そんな話をしているうちに、いつの間にか時間が過ぎていた。
ツキノは、俺の話を聞く時も、時折小さく相槌を打ちながら、じっとこちらを見ていた。
普段なら、客を楽しませるために自分から話題を振り、相手の話を引き出す側なのだろう。
けれど今夜は、俺の話を聞くことそのものを楽しんでいるようだった。
ツキノと話していると、不思議と肩の力が抜ける。
いつもなら気にしてしまう女性との距離も、今夜はそれほど気にならなかった。
ロクメイカンのナンバーワン。
金を積んでも簡単には手に入らない女性。
そんな相手が隣にいるというのに、俺は彼女を特別扱いすることなく、自然に話していた。
それが、ツキノにとっては嬉しかったのかもしれない。
やがて、ツキノがゆっくりと立ち上がった。
その動作には、花魁らしい優雅さがあった。
急ぐこともなく、周囲の視線を気にすることもない。
彼女が立ち上がるだけで、広間の空気がわずかに揺れる。
それほどまでに、ツキノという女性の存在は大きかった。
彼女は俺の手をそっと取り、潤んだ瞳でじっと見つめてくる。
「……ねえ、リュウジィ。今夜はこのまま、帰るなんて言わないわよね?」
その問いかけには、いつもの余裕たっぷりな態度とは違う、どこか縋るような響きがあった。
いつもなら、客を焦らし、簡単には答えを与えない側のツキノ。
金を払ったからといって、すぐに距離を縮められるわけではない。
男たちは彼女の微笑みひとつに心を奪われ、彼女が許す時を待つ。
そんな女性が、今は自分から俺の手を取っている。
その事実に、俺は少し驚いた。
俺は握られた手に力を込め、彼女の顔を正面から見据えた。
「帰らないよ」
俺が短く答えると、ツキノは安堵したように微笑んだ。
その笑顔を見て、俺の胸の奥に小さな熱が灯る。
それは、ロクメイカンのナンバーワンが客に向ける営業用の笑顔ではなかった。
少なくとも、俺にはそう見えた。
俺たちは広間を後にし、さらに奥へと進んだ。
厚い絨毯の上を歩き、ツキノが静かに重厚な扉を開ける。
その先は、広間の喧騒から切り離された、特別な部屋だった。
ロクメイカンの中でも、限られた客しか入ることのできない場所なのだろう。
ツキノが普段どれだけ多くの客を相手にしていても、誰もがこの場所へ通されるわけではない。
俺はそんなことを考えながら、彼女の後に続いた。
部屋に入り、扉を閉めると、広間の喧騒が嘘のように消えた。
薄暗い室内には、先ほどよりさらに強い果実の香りが満ちている。
外の黄金の光は遠ざかり、部屋の中には柔らかな明かりだけが残っていた。
俺は自分に寄り添うツキノの細い腰に手を回し、引き寄せた。
ツキノの指先が俺の胸元に触れ、熱を帯びた瞳が俺を捉える。
いつもなら、相手を翻弄する側の彼女が、今は俺の腕の中にいる。
それでも、ツキノの仕草には、長年培ってきた花魁としての美しさがあった。
視線の向け方も、身体の寄せ方も、指先の動きも、すべてが自然で隙がない。
けれど、その奥にある感情までは隠しきれていなかった。
言葉はもう必要なかった。
俺はそのままツキノを抱き上げ、静かな闇の中へと誘った。
――。
事が終わり、静寂が訪れる。
俺の腕の中で、ツキノが顔を埋めていた。
ロクメイカンのナンバーワンとして、普段は誰にも簡単に触れさせない女性。
金を積んでも、身分を示しても、彼女の心まで手に入れられるわけではない。
そんなツキノが、今は俺の腕の中で身を寄せている。
「ねえ、リュウジィ。……私を、女にしてよ」
「えっ? いきなり? なんで?」
驚いて聞き返すと、ツキノは答えず、俺を強く抱きしめた。
腕の中に、彼女の重さを感じた。
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