第85話 新規店舗の下見と予期せぬサプライズ
石造りのその建物は、喧騒に包まれたギャングスターから歩いて二分ほどの場所に、ひっそりと佇んでいた。
かつて活気のあった飲食店の居抜き物件を、カエデが丹念に探し出してくれたものだ。俺はカエデに連れられ、冷え込む夕方の下見に訪れていた。
建物の前に立ち、冷ややかな外観をじっと見つめる。
人通りの多い通りから一本入った角地にあり、周囲は表通りに比べて静かだった。外壁は重厚な石造りで、幸いにも大きな傷みは見当たらない。
看板を付け替え、必要な内装工事を済ませれば、明日にも店として動き出せそうな手応えがあった。
「ここが、新しいお店の候補地です。オーナー」
カエデが澄んだ声で言った。
俺は深く頷き、預かっていた重たい鍵を鍵穴に差し込む。錆びついた金属が擦れる音を立て、鉄の扉がゆっくりと開いた。
中に入ると、前の店が遺していったカウンターや椅子が、無機質な雰囲気のまま並んでいた。
天井を見上げれば、かつての熱気を逃がすための排気口が、小さな穴をぽっかりと開けている。
調理場へ足を踏み入れ、錆びついた蛇口を捻る。
頼りない音とともに、冷たい水が勢いよく飛び散った。
「うわっ……」
思わず声が漏れる。
水を止めてから、今度は火力を調整する魔石のつまみを恐る恐る回してみた。
手元に伝わる魔力の感触を確かめる。
火床や洗い場の配置は、このまま活かせそうだ。大掛かりな改修をしなくても、焼肉屋として必要な設備を整えられるかもしれない。
ただ、足元の床は長年の油で黒く汚れ、どことなくベタついていた。
靴底が床に張りつくような感触に、俺は小さく眉をひそめる。
カエデは埃の舞う客席を歩き回り、壁の染みや照明の明るさを丁寧に確認していた。
「そうだな。内装は少し変えるつもりだが、広さはちょうどいい」
俺はフロアの端から端まで歩き、自分の足で正確な歩数を数えた。
客席の広さは十分にある。テーブルの配置を工夫すれば、今のギャングスターよりも多くの客を受け入れられそうだ。
調理台の前に戻り、冷え切った石板へそっと指先を触れる。
「カエデ、お前の意見も聞かせてくれ。内装はどういう感じがいいと思う?」
俺が問いかけると、カエデは小さく息を呑み、店内を見渡した。
やがて何かを思いついたように、瞳を輝かせる。
「そうですね。調理場がこれだけ広いなら、客席から調理場の様子が見えるようにするのはどうでしょうか」
カエデは誰もいない客席の中央に立ち、調理場の方を真っ直ぐに指差した。
「今は高い壁で仕切られていますが、ここを壊して低いカウンターに変えるんです」
そう言いながら、カエデは調理場との境にある壁際まで歩み寄った。
壁の表面を指先でなぞり、コンコンと乾いた音を立てて叩く。
「そうすれば、調理場の活気が客席に直接伝わります。注文した肉が準備される様子が見えるのも、お客さんには安心感を与えるはずです」
カエデは期待を込めた瞳で、俺の反応を窺った。
俺は薄暗い調理場の中から、殺風景な客席を見渡した。
分厚い仕切りの壁は視界を完全に遮り、店の奥を淀ませている。
自分の足で壁の向こう側へ回り、カエデのすぐ隣に立った。
「確かに、この壁を抜けば開放感が出るな。だが、煙や熱気が客席に流れる」
俺は眉間にしわを寄せながら天井を見上げた。
隅にある排気穴の位置を視線で追う。
「そこは、排気の魔石を増設して対応できます。以前の店よりも強力なものを使えば解決します」
カエデは床の油汚れを避けながら、反対側の壁際へと移動した。
「照明も、今は少し暗すぎます。窓を大きくするか、明るい色の石材を壁に使いましょう」
カエデは窓枠に積もった白い埃を、指先で器用に拭き取った。
俺はその様子を眺めながら、頭の中で改装後の店を思い描く。
客席から調理場が見え、焼き上がる肉の匂いが店内に広がる。
今よりも明るく、開放感のある店にできれば、客の入りも変わるかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
開け放たれたままの扉から、慌ただしい足音が響いてきた。
振り返ると、バッドが息を切らしながら店内へ入ってくる。
バッドは店内の様子を一瞥すると、俺に向かって手招きをした。
「兄貴、ちょっと……ちょっといいですか」
周囲を気にしながら声を潜める。
俺は冷たい調理台から手を離し、バッドの方へと歩み寄った。
バッドはカエデに背を向け、さらに奥の薄暗い店の隅へと移動した。
俺もカエデから距離を取り、バッドと向き合う。
「あのう、余計なことだとは思ったのですが。今日、兄貴の名前でロクメイカンを予約しておいたので、行ってください」
「はあ? 誰がそんなこと頼んだ」
俺は眉を寄せ、バッドを睨みつけた。
怒気を孕んだ俺の低い声に、バッドはわずかに肩を縮こまらせる。
「兄貴が怒るのはわかるのですが。兄貴がアズマリアに行っていた時、あの方は週に一回は店に食事に来ていて、兄貴のことを心配していたんですよ。帰ってきたら教えてくれ、と」
バッドは困ったように頭を掻いた。
「俺、断れなかったんですよ」
俺は行き場のない苛立ちと気まずさを飲み込み、無言でバッドを見据えた。
「余計なお世話なのはわかっているんですが、兄貴、帰ってきてからもずっと働きっぱなしじゃないですか。息抜きが必要ですよ」
バッドは一度言葉を切り、俺の様子を窺う。
「それにツキノさんが来ると、二階からリナさんが降りてきて、店の相談に乗ってもらったりして。店の皆とも仲が良いんですよ」
バッドの真っ直ぐな言葉が、妙に胸の奥に引っかかった。
「……でもなぁ」
言い訳を探す俺に、バッドは追い打ちをかけるように言った。
「兄貴の今の立場なら、女の一人や二人いてもおかしくないですよ」
バッドは真っ直ぐに俺の目を見つめる。
「でも、兄貴は女に対して何か、気を許さない所があるじゃないですか」
その言葉に、思わず心臓が小さく跳ねた。
決して女が嫌いなわけではない。
それどころか、自分では情けないほどスケベな方だと思っている。
だが、前世の記憶――あの喧噪に満ちたキャバクラを経営し、巧みな手練手管で男たちを破滅へと導く女たちを見てきたせいで、どうしても心のどこかで女に完全に心を許せないのは確かだった。
それなのに異世界に来て、キャバクラを経営してる。
痛いところを突かれ、俺はわずかに目を伏せた。
バッドの言うことは、間違っていない。
女に対して警戒する自分がいることは、俺自身もわかっていた。
「わかった」
俺は一度、重く息を吐いた。
そして、バッドの肩を力強く叩く。
「アズマリアに行った時も、ツキノさんが店に来ていると言っていたよな、お前。ありがとう。今日は店を休むよ」
バッドの緊張がほどけ、安心したような笑みが漏れた。
「ありがとうございます。ゆっくりしてください」
「ありがとうございますって、何かな、それは」
呆れたようにため息をつきつつ、俺は薄暗い隅で待っていてくれたカエデの元へと戻った。
「カエデ、悪いが今日はこの辺にしよう。一度ギャングスターに戻る」
「分かりました。オーナーは少し休まれた方がいいですよ」
カエデは慈しむような眼差しで俺の肩に手を伸ばし、目立たない埃を優しく払った。
「早く行ってください」
そう促され、俺は苦笑する。
「わかったよ」
心の中で一つ深い呼吸を置いてから、冷え始めた新店舗の扉を出た。
夕闇が藍色に染まり始める王都の道を、ロクメイカンの方角へ向かって足を進める。
街の喧騒のなか、甘い香油の匂いと、あの鮮やかな黄金の輝きが待つ場所へ。
歩きながら、俺の脳裏にはツキノの潤んだルビーの瞳が鮮明に蘇っていた。
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