第77話:帰還の路
アズマリアの国境へと続く街道を、一台の馬車が西へ向かって進んでいた。
車輪が乾燥した土を噛み、一定の刻みで車体を揺らす。御者台に座る男の乾いた鞭の音と、並走する二頭の馬の力強い蹄の音だけが、静寂に包まれた荒野にこだましていた。
古びた客車の中には、死線を共に潜り抜けたリュウジィとタツヨの姿があった。
二人の顔色からは、かつての消耗しきった影も消え、確かな生気が戻っている。リュウジィは重い背もたれに深く身体を預け、心地よい疲労感に身を委ねていた。
対照的に、タツヨは窓枠にぐっと肘を突き、遠ざかっていく車窓の景色をじっと見つめていた。
身体を痛めつけていた無数の包帯はすっかり取り払われ、剥き出しになった褐色の腕には、新たな戦いの記憶を刻む深い傷跡が生々しく残っている。
馬車が緩やかな丘を登り詰めると、進行方向とは逆に、アズマリアの壮麗な王都がゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。
夕刻の斜陽を一身に浴びた石造りの尖塔群が、鮮烈な朱色に染め上げられている。
中世ヨーロッパを思わせる重厚な石積みの城塞に、せり出した曲線を描く赤瓦の屋根が混じる独特の景観。その美しい稜線が、夕闇に沈む地平線へと溶けていく。
タツヨは、その名残惜しい景色からどうしても目を離すことができなかった。
初秋の空はどこまでも高く、どこまでも晴れ渡っていた。
「やっぱり離れるのは寂しい?」
リュウジィが、物思いに耽るタツヨへ穏やかに声をかけた。
タツヨは虚空を見つめたまま、ゆっくりと答える。
「そりゃちょっとはな。転生して三年いたからな。スキル判定でハズレの武道家スキルとか言われてさ。俺、元ボクサーだけど、なんで武道家?って思ったよ」
苦い記憶を噛み締めるような親友の言葉に、リュウジィも共感するように言葉を返した。
「それはわかるよ。俺も最初、ショクアンとかいうふざけた名前の所で、武道家スキルはハズレだとか言われてさ。しかも他の職業に就くとスキル補正が邪魔をするから上手くいかないとか、スキル無しのほうが色んな職業に就けるから運がいいとか」
納得がいかないと言わんばかりに、タツヨはガッシリと腕を組んだ。
「俺達の場合、現世でやってたことに対してスキル補正は関係ない気がするんだよな。だってお前、この世界で店を経営して上手くいってるだろ? 武道家スキルが邪魔をするなら、上手くいかないはずだろ?」
タツヨの鋭い指摘に、リュウジィはこれまでの苦労が報われるような思いで表情を和らげた。
「なるほど。そう言えばキングスフォーンの王様と約束しててさ。今回の件を解決したら、キングスフォーンは実力があれば、武道家スキルでも騎士や傭兵として雇用を認めるようにしてくれるって」
思いがけない朗報に、タツヨはハッと顔を上げた。
「法改正を約束させたのか! さすがだな」
馬車はその後も数日間、乾いた街道を走り続けた。
夜の帳が降りれば街道沿いの小さな宿場町で眠り、朝の光とともに再び西へ進む。
果てしない平原を抜け、険しい山道を越える。
やがて前方の視界が一気に開け、巨大で堅固な城壁に囲まれた見慣れた大都市、キングスフォーンの威容が姿を現した。
リュウジィにとっては、実に三ヶ月ぶりとなる懐かしい帰還だった。
見慣れ親しんだ正門の石造りと、活気にあふれた人々の喧騒が、刻一刻と近づいてくる。
馬車が分厚い城門をくぐり抜け、石畳をリズミカルに叩く音が一層高くなった。
リュウジィは、そのまま王宮へは向かわず、馬車を一直線に自身の城である店へと走らせた。
夕暮れ時の空が深みのある紫色に染まる頃、馬車は目的地の建物の前でピタリと足を止めた。
「ギャングスター」
黒光りする重厚な看板には、そう誇らしげに記されている。
一階は、この世界の五大珍味の一つである幻のキングオーグの極上肉を豪快に振る舞う焼肉屋。
二階は、この異世界では類を見ない画期的なキャバクラが営まれている。
ここは、リュウジィにとって自分の城とも呼べる場所だった。
店の前には、開店準備を進める店内から、スタッフたちの声や物音が聞こえていた。
すでに開店準備が進み、一階の窓ガラスからは温かな明かりが漏れている。店内の慌ただしい気配が外まで伝わってきた。
タツヨは馬車を降りると、圧倒されるように建物の立派な構えを見上げた。
「凄え! 良い店じゃん」
リュウジィは愛おしそうに自分の店を見つめた。
そして、気負いなく重い扉を押し開ける。
店内には、これから始まる営業に向けて準備を進めるスタッフたちの声や物音が響いていた。
広々とした店内では、すでに開店を待ちきれなかった数組の馴染み客が腰を下ろし、賑やかに酒と食事を楽しんでいる。
活気に満ちたホールを横切ろうとした時、湯気が立ち込める厨房のカウンター越しに、いつも温かく支えてくれるバッドの母親がリュウジィの姿に気づいた。
彼女は店内の準備を進めながら、よく通る大きな声でリュウジィに声をかけた。
「あら、リュウジィさん。やっと帰ってきたんだね!」
積もる感謝を込め、リュウジィは深く頭を下げた。
「長らく店を空けちゃってすいません。ありがとうございました」
彼女はすべてを包み込むような笑顔を浮かべ、力強く頷いた。
「いいってことさ。さあ、上のみんなにも顔を見せてやりな。みんな待ってるよ」
温かい言葉に背中を押され、リュウジィは長い道のりを共に旅したタツヨを伴い、ホールの奥へと歩みを進めた。
奥まった会計所のカウンターの裏では、愛用の眼鏡をかけたカエデが真剣なまなざしで帳簿と向き合っていた。
リュウジィがその横に立つと、カエデは微かに驚いたように顔を上げた。
「おかえりなさい、オーナー」
「ああ。カエデ、急な指示だったのに一番いい馬と馬車を手配してくれて助かったよ。おかげで、フロドとプリカは無事か?」
「はい。二人は無事に到着しています。フロド様の希望で、闘技場での配当金を使って店の近くに家を購入しました」
カエデは几帳面に愛用の羽ペンを置いた。
「バッドが毎日様子を見に行っていますが、二人とも彼に懐いているようです。フロド様は、向かいのドナド様の店で修行を始めました。今夜も深夜から店に出るそうです」
予想外の報告に、リュウジィは大きく目を見開いた。
「えっ、家を買った? ……あいつら、この国に住むつもりなのか?」
「そのようです。既に生活の基盤を整えています」
カエデは淡々と事実を告げると、冷徹だった視線をリュウジィの隣に佇むタツヨへ静かに向けた。
リュウジィは驚きをどうにか収め、深く頷いた。
「わかった。本当に助かった。ハクさんは二階か?」
「はい」
確認を終えると、リュウジィはタツヨを連れてギシギシと鳴る階段を上がった。
足を踏み入れた二階は、まさに開店直前のピリッとした緊張感に包まれていた。
広々としたフロアでは、ハク、バッド、シド、そして頼れるママのリナと美しきキャストたちが、手際よく忙しそうに動き回っている。
階段を上がってきたリュウジィの姿を誰より早く見つけると、フロアの空気がふっと緩み、皆が一斉に作業の手を止めた。
「おかえりなさい」
あちこちから温かな声が上がる。
リュウジィはまず、信頼を置くハクの元へ真っ直ぐ歩み寄った。
ハクはピシッと背筋を伸ばし、リュウジィに向かって美しく深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、リュウジィ様」
「ハクさん、留守を頼みきりですみませんでした」
丁寧な挨拶を交わしていると、待ちかねたようにバッドとシドが並んで歩み寄ってきた。
バッドは嬉しさを隠しきれず、顔をクシャッと綻ばせる。
「兄貴! 寂しかったっすよ。お疲れ様でした」
その隣にどっしりと構えるシドは、落ち着いた大人の物腰で静かに頭を下げた。
「お久しぶりです、リュウジィさん。アズマリアでのこと、お疲れ様でした」
リュウジィは、並んで立つ大切な三人の顔を一人ひとり見た。
「二人ともありがとうな。バッドもフロドとプリカのことを気にしてくれて、本当にありがとう」
リュウジィは三人の前で足を止め、心からの感謝を込めて頭を下げた。
バッドは少し照れくさそうにゴツい手で頭を乱雑に掻いた。
「いえいえ、兄貴のためなら俺は何でもやりますよ」
バッドはふと視線をずらし、リュウジィの背後に立つ見慣れない男へ興味津々の目を向けた。
「ところで兄貴、そちらの方は……?」
リュウジィは振り返ってタツヨの肩に軽く手を置き、待ち構える皆に向かって誇らしく紹介した。
「皆に紹介する。アズマリアで出会ったタツヨ・ジョージだ。向こうでいろいろあって、俺にとってはもう身内みたいなもんだ」
突然の紹介に、タツヨは組んでいた腕をスッと解き、姿勢を正した。
そして、ハクたち三人に真っ直ぐ視線を合わせて挨拶する。
「タツヨ・ジョージです。アズマリアで剣闘士やってました」
ハク、バッド、シドの三人も、その武骨な自己紹介に敬意を込めて挨拶を返した。
店全体の切り盛りを任されている支配人のハクは、迫る開店前の業務を確認するため、リュウジィに軽く会釈をして持ち場へと戻っていった。
リュウジィは、バッドとシドの二人をその場に残した。
「二人に渡す物があるんだ。アズマリアの武器屋に特注しておいた品だ。帰りに受け取ってきた」
そう言って、リュウジィは肩から下ろした長方形の重厚な革鞄を床に置いた。
蓋を留めていた革ベルトを外し、ゆっくりと開く。
そこには、職人の技が光る見事な二振りの剣が収められていた。
一本は凛とした輝きを放つロングソード。
もう一本は、独自の殺傷力を持つ片刃のファルシオン。
いずれも希少なオリファルコン製の特注品で、部屋の明かりを受けて、鈍くも力強い光沢を放っている。
それぞれの柄頭には、細部まで精緻に彫り込まれた誇り高い狼の彫刻が、静かに牙を剥いていた。
リュウジィはまず、重みのあるロングソードを両手で持ち上げ、バッドへ真っ直ぐ差し出した。
「バッド、これはお前に」
差し出されたまたとない名剣を、バッドは両手で大切そうに受け取った。
だが、その圧倒的な重量感と刀身から放たれる凄まじい輝きを目の当たりにした瞬間、呼吸を忘れたように動きを止めた。
「え……嘘だろ。これ、オリファルコンじゃねえっすか!?」
バッドは信じられないといった様子で、感嘆の声を裏返らせた。
「兄貴、これ一本売れば一年は遊んで暮らせるくらいの値段っすよ! 本当にいいんすか? こんな凄いの!」
震えるバッドを見つめ、リュウジィは次にファルシオンを手に取った。
固唾を飲んで見守るシドへ、それを差し出す。
「シド、こっちはお前のだ」
「あっ!ありがとうございます、リュウジィさん」
シドは胸に込み上げる驚きと感動を噛み締めるように、わずかに震える両手でそれを受け取った。
バッドとシドは、手にした究極の武具を何度も眺め、その価値を確かめるように互いの剣へ視線を向けた。
抑えきれない喜びが、その表情から滲み出ている。
二人の様子を温かく見届けると、リュウジィは喧騒の戻りつつあるフロアの奥へ向かった。
そこでは、リナが的確に開店準備の指示を出していた。
頼れる彼女は、若いキャストたちをしっかりとまとめてくれている。
「リナさん、留守中はお疲れ様でした。女の子たちのことで何か問題はなかったですか? 困っていることがあれば聞きますが」
リナはきびきびと動かしていた手を止め、安心させるようにリュウジィへふっと笑いかけた。
「あ、オーナーおかえり。女の子たちのこと? 全然大丈夫だよ。不思議だよね、こんだけ女が揃ってるのに、みんな仲がいいんだもん。今のところ、特にトラブルとかも起きてないし」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
「みんな、この店での仕事が気に入ってるみたい。オーナーが心配するようなことは何もないから、安心していいよ」
リナの飾らない言葉を聞き、リュウジィの肩の力がふっと抜けた。
アズマリアでの死闘からようやく完全に解放され、自分がゼロから血を流して作り上げた、この帰るべき場所に戻ってきた。
その実感が、じわりと胸の奥に広がっていく。
大きな窓の向こうには、すっかり紫色の夜の帳が下り始めていた。
キングスフォーンの街角のあちこちに、ポツポツと暖かな魔導灯の明かりが灯り始めている。
一階からは、焼肉の香ばしい煙とともに、待ちわびた客たちの弾む声が階段を伝って賑やかに上がってくる。
二階のフロアでも、キャストたちが鏡の前で最後の手直しを終え、店全体が華やかな香りに満ち始めていた。
「よし。じゃあ、みんな。今夜も頼むよ」
リュウジィが力強く声を張り上げると、バッドやシド、そしてリナたちが頼もしく頷いた。
この店の斜め向かいにあるドナドの深夜食堂に温かな灯がともるのは、まだほんの数時間先のことだ。
転生したばかりの絶望の最中に自分を救ってくれた恩人の顔や、そこでひたむきに修行に励んでいるというフロドの健気な姿を思い描きながら、リュウジィは新たな日常へと踏み出すのだった。
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