第75話:狂宴の終焉
静まり返った闘技場の中心で、両者は刺すような視線をぶつけ合っていた。
這いつくばるような姿勢から、執念だけで巨体を押し上げたオーガの呼吸は荒い。砕かれた拳から滴り落ちるどす黒い鮮血が、乾燥した砂の上に不規則な斑点模様を描いていく。
かつての圧倒的な支配者の面影はなく、そこにあるのは追い詰められ、逆巻く殺意を剥き出しにした一匹の獣の形相だった。血走った眼球が、目の前の「獲物」を逃すまいとぎらついた光を放っている。
対するリュウジィは、荒ぶる熱量を内包しながらも、その佇まいは不気味なほどに静かだった。
深紅に染まっていたチャイナ服は、いまや漆黒の横縞と金色の光が混ざり合う、鮮烈なタイガーストライプへと変貌している。その衣の下で、竜の剛力が次の爆発をじりじりと待っている。
スッと自然体に立ったまま、リュウジィの口端が不敵に吊り上がった。その瞳には、強大な魔獣を正面から叩き潰すことだけを愉しむような、剥き出しの闘争心が宿っていた。
音が消えたかのような静寂の中、二人の間を重苦しい圧迫感だけが支配している。
一方は絶望的な屈辱を殺意に変え、一方は圧倒的な力を破壊の意志へと昇華させている。互いの間合いが、爆発寸前の緊張感に塗り潰されていった。
「――ゴ、ォォォォォォアアアッ!!」
先に動いたのはオーガだった。
地を震わせる咆哮と共に、無事な方の剛腕を振り上げ、自重を乗せた渾身の一撃を叩きつける。機動力を奪われ、もはや退路などない魔獣が放つ、死物狂いの特攻だった。
だが、リュウジィの目には、その一撃が止まって見えるほど緩慢に映っていた。
リュウジィは最短の軌道で前手を通すと、迫りくる巨拳を下から鮮やかに跳ね上げる。
剛腕が空を切り、オーガの胸元ががら空きになった。その刹那、溜め込まれていた熱量がリュウジィの後ろ手に一点集中する。
一歩。
踏み込みと共に放たれたのは、急所である膻中を正確に射抜く、文字通りの「大砲」だった。
「砲拳!!」
ドォォォォォンッ!!
赤と黒の炎を纏った拳が、オーガの分厚い胸板にめり込む。直後、内功の爆発が魔獣の肉体を内側から突き抜けた。
「ガ、ハッ……!?」
衝撃波がオーガの背中から円状に弾け飛ぶ。山のような巨体は、その一撃の威力に抗えず、ズルズルと砂を削りながら5メートルほど後方へと押し込まれた。
辛うじて踏み止まったものの、オーガの胸元からは、焦げ付いた煙が立ち上っていた。
リュウジィは休む間もなく地面を蹴った。
砲拳の余韻に浸ることもなく、瞬時に間合いを詰め直す。アキレス腱を断たれ、胸に強烈な打撃を受けたオーガの反応は絶望的に遅い。リュウジィがその懐に滑り込むのを、濁った目で見届けることしかできなかった。
リュウジィの視線が、オーガの残された右脚へと落とされる。
一気に踏み込み、ヒヒイロカネが仕込まれた硬質な靴底を、オーガの脛へと叩きつけた。ただの蹴りではない。刃物で削ぎ落とすように下方へと重力を乗せて滑らせ、そのまま力任せに踏み抜いた。
バキッ、という乾いた破壊音が響き渡る。
「ギ、ギャアアアアアアアアッ!!」
闘技場の空気を震わせる、凄まじい絶叫。
オーガの頑強な脛骨が、ヒヒイロカネの剛性に耐えきれず無残にへし折れた。逃走の手段も、立っているための支えも、魔獣からは完全に奪い去られた。
支えを失った巨体が、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちる。
その無防備な背中を見据え、リュウジィはとどめの一撃を放つべく、全身の力を拳へと収束させた。
「うおおおおおおッ!」
雄叫びと共に振り抜かれた拳から、赤と黒の炎が猛然と噴き出す。その炎はリュウジィの意志に呼応し、獲物を噛み砕かんとする巨大な「竜の顎」の形へと膨れ上がった。
「崩拳!!」
グワァッシャァァァッ!
骨を砕く鈍い衝撃音と共に、炎の顎がオーガの腹部を正面から貫いた。
内臓を焼き、脊椎を断ち切るほどの衝撃が魔獣の巨体を文字通り宙へと跳ね上げる。オーガは抗う間もなく砲弾のごとく後方へと弾き飛ばされ、闘技場の頑強な外壁に激突した。
凄まじい轟音が響き、衝撃に耐えきれなくなった壁が大きく爆ぜて瓦礫と化す。土煙が舞う中、半ば壁に埋まるような形で、オーガは力なく地面に崩れ落ちた。
逃がさない。
リュウジィは砂煙を突っ切り、崩れ落ちた魔獣のもとへ瞬時に肉薄した。
瓦礫の山から力なく突き出されたオーガの頭部。恐怖に歪んだその顔面を、リュウジィは一切の慈悲なくヒヒイロカネの靴底で踏み抜いた。
「死ねッ! 死ねッ! 死ねぇぇぇえええッ!!」
腹の底から絞り出すような咆哮を上げながら、リュウジィの脚が重機のごとき速度と重さで何度も、何度も振り下ろされる。
一発ごとに、メキッ、ボグッという不快な破壊音が闘技場に反響した。
オーガの強靭な頭蓋骨がひび割れ、眼球が飛び出し、顎が砕け散る。それでもリュウジィの足並みは止まらない。踏みつけるたびに、飛び散る脳漿と鮮血がタイガーストライプの衣を赤く塗り潰していく。
もはやそれは「戦い」ではなく、ただの「解体作業」だった。
十数回、二十数回。執拗なまでの蹂躙が繰り返され、やがてオーガの首から上は形を失い、地面にべったりと張り付いた生々しい肉片の塊へと変わり果てた。
返り血を浴びたリュウジィは、肉塊を一度だけ強く踏みつけ、反転した。
一歩、また一歩。重い足取りで、地獄のような惨状を背に闘技場の中央へと戻る。
「うおおおおおおおおおっ!!」
血に濡れた拳を天高く突き上げ、勝利を告げる勝ち名乗りを上げた。
その瞬間、沈黙を守っていた観客席から、地鳴りのような大歓声が沸き起こる。王者の失墜と、新たな怪物の誕生を祝う熱狂が闘技場を包み込んだ。
だが、その熱狂の渦中で、リュウジィの膝が不意に折れた。
「あ……」
意識が遠のく。限界を超えて引き出された力が、潮が引くように消えていく。そのまま、糸が切れた操り人形のように砂の上へ崩れ落ちる。
同時に、荒れ狂っていた赤と金の光が消えた。
激しく脈動していたタイガーストライプの衣は、主の沈黙に合わせるように色を失い、元の穏やかな漆黒のベロアへと戻っていく。
静かになった闘技場で、リュウジィは深い眠りに落ちた。
その熱狂の渦中、闘技場を見下ろす貴賓席では、一人の男が顔を真っ赤にして震えていた。国務大臣、ピエール。彼は目の前で繰り広げられた予定外の結末に、椅子の肘掛けを力任せに叩きつけた。
「ええい、無能めが! あんな得体の知れん小僧一人に、オーガが敗れるとはどういうことだ!」
唾を飛ばし、周囲の文官たちが震え上がるほどの怒号を響かせる。
懐に忍ばせた魔石通信機には、何の反応もない。暗殺一族「骸衆」の頭領、クルシオ自身の行方すら掴めなくなっていた。
「クルシオの奴、何をしている! 返答もよこさず、どこで油を売っているのだ……! これでは、あの小僧を始末するどころではないではないか!」
完璧だったはずの計画が、足元から音を立てて崩れ始めている。その予感が、ピエールをさらなる狂乱へと突き動かしていた。
「……ええい、こうしてはおれん。一旦引くぞ!」
苛立ちを隠そうともせず、ピエールは乱暴に席を立った。この場を離れ、立て直しを図ろうとしたその時だった。
ジャリッ、という鋭い金属音が周囲を囲んだ。
「――っ!?」
ピエールが息を呑み、足を止める。
貴賓席の通路を完全に封鎖したのは、抜き身の剣を構えた王国騎士団の精鋭たちだった。その切っ先は一様に、狼狽するピエールの喉元へと向けられていた。
「な、なんだこれは……貴様ら、狂ったか! 私を誰だと思っている! この国の政を司る国務大臣だぞ!」
ピエールは顔をひきつらせ、必死に威圧しようと怒鳴り散らす。だが、剣士たちの瞳に揺らぎはない。彼らは静かに、道の先を開けた。
重厚な足音と共に、騎士たちの間から一人の男が進み出る。
白髪の混じった短髪、左目尻から頬にかけて深く刻まれた歴戦の傷跡。アズマリア最強の剣士、騎士団長バルトロメウスだ。
その隣には、高貴な紫色の瞳を冷たく光らせる女性、第一王女ヒルデガルドが並び立っていた。
「――見苦しいですよ、ピエール大臣」
ヒルデガルドの声が貴賓席に響くと、ピエールは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「ヒル、ヒルデガルド様……! これは一体、何の真似ですか! 私は国務を全うして――」
「国務、ですか?」
ヒルデガルドが言葉を遮る。
「リリス王女の暗殺未遂、および国家転覆の首謀……それが貴方の言う国務なのですか?」
「なっ……! な、何を根拠にそのような……! 証拠もなしに大臣である私を――」
ピエールの言葉が終わるより早く、バルトロメウスが沈黙を破った。
「証拠なら、いま届けてやるよ」
バルトロメウスが片手で持っていた、血の滲んだ三つの布包みを無造作に放り投げた。
ゴロゴロと床を転がり、ピエールの足元で止まった包み。衝撃で布がめくれ、中身が露出する。
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃっ!!」
ピエールが腰を抜かし、無様に尻餅をついた。
転がり出たのは、死後もなお憎悪を張り付かせた「骸衆」頭領クルシオ、およびその側近たちの生首だった。
バルトロメウスが低く笑い、傷跡のある頬を歪めた。
「さすがにそいつは頭領なだけあって、最後まで何も喋らなかったがね。だが、他の手下どもは案外あっさり喋ってくれたよ。あんたとの密約、金の流れ、全部な」
「そ、そんな……そんな馬鹿なことが……!」
「あんたがあのリュウジィって小僧に集中してくれていたおかげで、こっちは動きやすかったよ。影でこそそ動くゴキブリを掃除するには絶好の機会だったんでな」
ピエールは絶望に顔を白くし、何事かを呟こうとしたが、もはや言葉にはならなかった。ヒルデガルドが冷徹に命じる。
「連れて行きなさい。これまでの罪、法廷ですべて清算してもらいます」
騎士たちが一斉にピエールを取り押さえた。かつて権勢を振るった大臣は、もはや叫ぶ力もなく、引きずられるようにして貴賓席から連行されていった。
一つの陰謀が潰え、一人の怪物が眠りにつく。
アズマリアの夜は、まだ始まったばかりだった。




