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46歳おっさんの形意拳が、異世界でチートになった 〜魔法も剣も届かない究極の拳法で、第二の人生を無双する〜  作者: 九条竜二


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第73話 安価な代償と双色の覚醒




 鼓膜を揺らしていた爆音も、肌を焼くような熱気も、すべてが嘘のように消え去っていた。

 

リュウジィは、冷たい感触にゆっくりと目を開けた。

 視界に飛び込んできたのは、どこまでも続く、深い藍色の空。そして、自分の体が横たわっている、薄く水の張った巨大な鏡のような場所だった。


起き上がろうと手を付くと、ピチャリ、と小さな波紋が静寂の中に広がっていく。


「ここは……」


立ち上がり、辺りを見回す。

上下の境界が曖昧なほど透き通った、静止した水の世界。さっきまで戦っていた闘技場の喧騒は、もうどこにもなかった。


波紋が消え、再び静まり返った空間に、リュウジィの独り言だけが空虚に響く。


「俺死んだのか? これがあの世か」


自分の手を見つめるが、血の匂いも、あれほど激しかった戦いの痛みも感じない。あまりに現実味のない静寂が、かえって死の予感を色濃くさせていた。

 

その時、何もないはずの水面に、場違いな一脚の椅子が姿を現した。

そこには、白いローブを纏い、無機質なベネチアンマスクをつけた男が、脚を組んで優雅に腰掛けていた。


「お久しぶりですね、リュウジィ。死んでませんよ、まだね」


カイロスは、そのどこまでも穏やかで、人を食ったような声でそう告げた。

 リュウジィは反射的に身構えたが、足元の水面が揺れるばかりで、拳に力が入らない。


「じゃあここはどこなんだ!」


「選択の間と言うか、場所と言うか……そんな場所ですよ」

 

カイロスは肘をつき、指先でマスクの縁をなぞった。その仕草からは、リュウジィの焦りを楽しんでいるような余裕さえ感じられる。


「ところで、この異世界に来て十分人生楽しんだでしょう。借金まみれのあっちに比べれば、店も仲間も手に入って、好きな武術も振るえて。もう、終わりにしますか?」

 

あまりに淡々と、事務的に告げられた「終わり」という言葉に、リュウジィの喉が鳴った。


「終わりなのか?」

「だから選択の場所と言ったじゃないですか。貴方次第ですが、どうします? 勿論、代償は払ってもらいますがね」

 

カイロスは立ち上がることもなく、ただ揺らゆらと陽炎のようにそこに居座っている。


「選べるのか? 代償ってなんだ」

「それは答えられません。どうしますか? チャンスを掴みますか? 物語を終わりにしますか?」


カイロスの問いに、リュウジィは迷わず叫んでいた。


「こんなところで終わりに出来ねえよ! 代償払うよ。ただし、その代償がこの世界の仲間の命なら、このまま終わらせてくれ」


剥き出しの言葉を投げつけられたカイロスは、クスクスと肩を揺らした。

「そんな命なんて物騒な事言いませんよ。わかりました」

「……代償ってなんだ!」

 

食い下がるリュウジィに対し、カイロスは事もなげに言った。


「代償は、貴方の記憶です。そうですね、ごっつ盛りと富士そばの記憶をもらいます」


「はぁ! お前絶対ふざけてるだろ?」


あまりに拍子抜けな内容にリュウジィが声を荒らげるが、カイロスの纏う空気は少しも変わらない。


「それでは、貴方の物語を再開しましょう。またお会いしましょう、リュウジィさん」


カイロスが指を鳴らした瞬間、凪いでいた水面が激しく波打ち、リュウジィの体は再び深淵へと吸い込まれていった。

 ――。

頭の中に、脳漿を直接かき回されるような甲高い警笛の音が響き渡った。

「が……はっ!」

 肺に酸素が無理やり流れ込み、リュウジィは意識を強引に覚醒させた。

 視界は埃っぽく、背中に触れるのは水面ではなく硬く鋭い岩の感触。崩れ落ちた闘技場の瓦礫に半ば埋もれるようにして、リュウジィは横たわっていた。

 全身を襲う凄まじい痛みと、鼻を突く瓦礫の粉塵が、現実へと引き戻す。

 

その瞬間、身体中の全細胞が、一つの巨大な心臓になったかのような強烈な衝撃が走った。血管の中を煮え滾るような熱量が駆け巡り、意識が、神経が、爆発的なエネルギーに塗り替えられていく。


 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。

 

凄まじい拍動が全身を貫くと同時に、あれほど重かった身体の痛みが、嘘のように消え去った。

 その直後、混濁した意識の中に、重厚なファフニールの怒号が響き渡った。


『おい! 死んだのかよ? 寝てんのかよ? 貴様、この程度で負けるのかよ!』


 その声が、冷え切っていたリュウジィの闘志に火をつけた。

 震える膝に力を込め、喉の奥に溜まった砂を吐き出す。


「死んでねえよ、負けてねえよ!!!」


 腹の底から絞り出した咆哮が、静まり返った闘技場に木霊した。

 砕けそうだった疲労も、意識を奪おうとしていたダメージも、強大な熱量に焼き尽くされ、霧散していく。代わりに湧き上がってきたのは、これまでに感じたことのないほど、血管の隅々まで漲る圧倒的な力。


リュウジィは、自らを覆っていた重い瓦礫を跳ね除けるようにして、力強く起き上がった。一歩踏みしめるごとに、地面から力が吸い上げられ、全身の筋肉がしなやかに脈動を始めた。

 

静まり返った闘技場に、一瞬の空白が生まれる。


次の瞬間、死地から悠然と立ち上がった男の姿を捉えた観客席が、驚愕に包まれた。


「おい、見ろ! 立ち上がったぞ!」

「嘘だろ、あの惨状からどうやって……!」


驚愕は瞬く間に大歓声へと変わる。勝敗が決したと確信し、冷めかけていた群衆は、信じられないものを見る目でリュウジィを凝視し、熱狂の渦へと叩き落とされた。

 その熱狂の中、リュウジィが纏うファフニールが変貌を遂げる。

 深紅の体躯に、黒い爪痕のような筋が幾重にも刻まれ、赤と黒が入り混じる不敵な双色の竜へと変貌した。


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