第73話 安価な代償と双色の覚醒
鼓膜を痛烈に揺らしていたはずの爆音も、肌を焦がすような凄まじい熱気も、すべてが嘘のように消え去っていた。
リュウジィは、肌を刺す冷たい感触に、おそるおそる目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、どこまでも果てしなく広がる、深い藍色の空。そして、自分の体が横たわっている、薄く水が張られた巨大な鏡のような場所だった。
起き上がろうと震える手を水面につくと、ピチャリ、と小さな波紋が、静まり返った空間へと広がっていく。
「ここは……」
息を呑みながら立ち上がり、おぼつかない足取りで辺りを見回す。
上下の境界線さえ曖昧なほど透き通った、静止した水の世界。さっきまで死闘を繰り広げていた闘技場の喧騒は、もうどこにも跡形もなかった。
波紋がすっと消え失せ、再び静寂に包まれた空間に、リュウジィの戸惑う独り言だけが空虚に響く。
「俺、死んだのか? これがあの世か」
信じられない思いで自分の手を見つめるが、血の匂いも、あれほど激しい戦いで全身を引き裂かれた痛みも一切感じない。
あまりに現実味のない静寂が、かえって自身の死の予感を色濃く脳裏に焼き付けていく。
その時、何もないはずの水面に、場違いな一脚の椅子が音もなく姿を現した。
そこには、純白のローブを纏い、顔の半分を無機質なベネチアンマスクで隠したカイロス・バトラーが、自然に脚を組んで優雅に腰掛けていた。
「数日ぶりですね、リュウジィさん。死んでませんよ、まだね」
カイロスは、そのどこまでも穏やかで、しかしどこか人の神経を逆撫でするような声を響かせた。
リュウジィは反射的に身構えようと全身に力を込めたが、足元の水面が揺らめくだけで、拳にはまったく力が入らない。
「ここはどこなんだ! 何でお前がいるんだ!」
「選択の間と言うか、場所と言うか……まあ、そういう場所ですよ」
カイロスは片肘をつき、細い指先でマスクの縁をなぞった。
その余裕綽々な仕草からは、追い詰められて焦るリュウジィの反応を心底楽しんでいるような気配さえ漂ってくる。
「ところで、この異世界に来て十分人生楽しんだでしょう。借金まみれのあっちに比べれば、店も仲間も手に入って、好きな武術も振るえて。もう、終わりにしますか?」
あまりに淡々と、まるで事務的な手続きでもするかのように告げられた「終わり」という冷酷な響きに、リュウジィの喉が恐怖で引き攣る。
「終わりなのか?」
「だから選択の場所と言ったじゃないですか。貴方次第ですが、どうします? 勿論、代償は払ってもらいますがね」
カイロスは腰を上げる気配すらない。
ただ、揺らめく陽炎のような不気味な気配を纏ったまま、そこに居座り続け、冷めた視線を向けている。
「選べるのか? 代償ってなんだ」
「情報は与えられません。どうしますか? チャンスを掴みますか? 物語を終わりにしますか?」
カイロスの問いかけを聞いた瞬間、リュウジィの中で迷いは霧散し、熱い感情が胸を突き破った。
「こんなところで終わりに出来ねえよ! 代償払うよ。ただし、その代償がこの世界の仲間の命なら、このまま終わらせてくれ」
絞り出すような剥き出しの言葉を投げつけられたカイロスは、ふっと愉しそうに肩を揺らした。
「そんな命なんて物騒な事言いませんよ。わかりました」
「……代償ってなんだ!」
必死に食い下がるリュウジィに対し、カイロスは拍子抜けするほどあっさりと告げた。
「代償は、貴方の記憶です。そうですね、ごつ盛りと富士そばの記憶をもらいます」
「はぁ! お前絶対ふざけてるだろ?」
あまりに拍子抜けする内容に、リュウジィは思わず声を荒らげて怒りを露わにするが、カイロスの纏う不気味な余裕は少しも変わらない。
「それでは、貴方の物語を再開しましょう。またお会いしましょう、リュウジィさん」
カイロスが軽やかに指を鳴らした瞬間、それまで凪いでいた水面が激しく波打ち、リュウジィの体は底知れぬ深淵へと猛烈な勢いで吸い込まれていった。
――。
頭の芯を、脳漿を直接かき回されるような甲高い警笛の音が激しく撃ち抜いた。
「が……はっ!」
肺の中に酸素が無理やり押し流され、リュウジィは意識を強引に現実へと引き戻される。
視界は埃っぽく、背中に触れるのは水面の冷たさではなく、硬く鋭い岩肌の感触だった。
崩れ落ちた闘技場の瓦礫に半ば埋もれるようにして、リュウジィは地に這う姿勢で横たわっていた。
全身を襲う凄まじい激痛と、鼻腔を突く瓦礫の粉塵が、ここが生還をかけた戦場であることをまざまざと叩きつける。
その瞬間、身体中の全細胞が、一つの巨大な心臓になったかのような強烈な衝撃が走った。
血管の中をマグマのように煮え滾る熱量が猛烈な勢いで駆け巡り、意識の糸も、麻痺していた神経も、爆発的なエネルギーへと塗り替えられていく。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
胸を打つ凄まじい拍動が全身を貫くと同時に、あれほど重く体を縛り付けていた痛みが、嘘のように綺麗に消え去った。
その直後、混濁した意識の底から、底抜けに重厚なファフニールの怒号が脳内に響き渡った。
『おい! 死んだのかよ? 寝てんのかよ? 貴様、この程度で負けるのかよ!』
その叱咤激励のような荒々しい声が、冷えかけていたリュウジィの胸の奥底に、再び消えない闘志の火を激しく灯した。
震える膝に渾身の力を込め、喉の奥に溜まった血と砂を勢いよく吐き出す。
「死んでねえよ、負けてねえよ!!!」
腹の底から絞り出した咆哮が、静まり返った闘技場の空気を激しく揺らして木霊した。
砕けそうだった疲労も、意識を暗闇へ沈めようとしていた致命的なダメージも、身体を巡る強大な熱量に焼き尽くされ、霧散していく。
代わりに体中に湧き上がってきたのは、これまでに感じたこともないほど、血管の隅々まで漲る圧倒的な力だった。
リュウジィは、自らの体を覆っていた重い瓦礫を両手で力強く跳ね除けるようにして、その場に凄まじい勢いで立ち上がった。
一歩地面を踏みしめるごとに、大地から底知れぬ力が吸い上げられ、全身の筋肉がしなやかに脈動を始める。
静まり返った闘技場に、たった一瞬の空白が生まれた。
次の瞬間、死地から信じられないほどの生命力で悠然と立ち上がった男の姿を捉えた観客席は、言葉を失うほどの圧倒的な驚愕に包まれた。
「おい、見ろ! 立ち上がったぞ!」
「嘘だろ、あの惨状からどうやって……!」
どよめきは瞬く間に割れんばかりの大歓声へと変わる。
すでに勝敗は決したと油断し、冷めかけていた群衆は、信じられないものを見る目でリュウジィを凝視し、再び猛烈な熱狂の渦へと叩き落とされた。
その熱狂のただ中、リュウジィの背後で纏うファフニールの気配が、さらなる変貌を遂げる。
深紅の体躯に、裂傷の如き黒い爪痕の筋が幾重にも刻まれ、赤と黒が狂気的に入り混じる、不敵な双色の竜へと姿を変えた。
お読みいただき、本当ありがとうございます。もし気に入っていただけましたら、作品のブックマークや、下の星(☆☆☆☆☆)で応援をお願いします!次の更新の大きなエネルギーになります!




