第72話 人対魔獣
魔獣化したオーガが、地を抉り、砂を爆ぜさせながらリュウジィに肉薄する。
その巨躯から繰り出されるのは、物理法則を無視したかのような爆発的な加速だった。
反応の遅れを本能で悟ったリュウジィは、回避不能と見るや、咄嗟に両腕を顔の前でクロスさせ、受動的な鉄壁へと切り替える。
直後、正面から重戦車が全速力で衝突したかのような、桁外れの質量と衝撃が叩きつけられた。
ガードした腕の骨が悲鳴を上げ、内臓の位置がずれるほどの衝撃が全身を貫いていく。
一気に後方へ弾き飛ばされたリュウジィ。
だが、オーガはその着地衝撃すら推進力に変え、弾き飛ばされた標的をさらに凌駕する速度で距離をゼロへと縮める。
剥き出しの殺意を乗せた巨大な拳が、容赦なくリュウジィの顔面めがけて突き出された。
空中で一切の逃げ場がない絶望的なタイミング。
しかし、リュウジィは限界を超えて引き上げた内功の身体強化を総動員し、強引に肉体を捻り曲げる。
致死の急所への直撃だけは避けるため、無理やり身をかわした。
オーガの拳が、リュウジィの鼻先を紙一重の差で掠めて通り過ぎる。
空振った一撃の余波が、闘技場の砂地へ凄まじい勢いで叩きつけられた。
轟音と共に砂の柱が天へ向かって噴き上がり、一瞬にして周囲を濃密な砂塵が包み込む。
だが、回避のために空中で無理な体勢を取ったリュウジィに、美しい受身など取れるはずもない。
荒ぶる慣性を殺せぬまま、その背中は闘技場の外周を囲む強固な壁へと激突した。
衝撃で脳裏に無数の火花が散る。
だが、悪鬼と化したオーガの追撃の手は微塵も緩まない。
立ちこめる砂煙を両断し、巨大な黒い影と化したオーガが、狂気的な速度で再び突進してくる。
激突のコンマ数秒前。
リュウジィは壁に背中を預けたまま、肉体に残る爆発的な熱量を両脚へと収束させた。
次の瞬間、片足で壁を強く蹴り、その反動を利用して身体を横へ弾き飛ばした。
背中で砂埃を噛み締めながら地面を転がり、必死の形相でオーガの致命的な突進の射線上から逃れた。
直後、リュウジィを仕留め損ねたオーガの巨躯が、勢いを殺しきれぬまま闘技場の壁へと正面から突き刺さった。
ドガァァァァッン!!
鼓膜を突き破るような爆音と共に、要塞の壁すら耐え抜く強固な石造りが無残に粉砕される。
無数の巨大な瓦礫が雨あられと降り注ぎ、凄まじい衝撃波が闘技場全体を大きく揺らした。
リュウジィは肺の底に残る澱んだ空気を吐き出しながら、麻痺しかけた足を気力で無理やり叱咤して立ち上がる。
崩落する壁から巻き上がる濃い土煙を背負い、砂を蹴立てて一気にオーガから間合いを取った。
肩を激しく上下させ、乱れ切った呼吸を必死に整えながら、前方で禍々しく蠢く巨大な影を鋭く睨みつける。
(この世界に来て、人間以外と戦うのは食用のキングオーグ以来だ。……まだ、身体は動く)
壁を粉砕したオーガが、もうもうと立ちこめる土煙の中から、ゆっくりとリュウジィの方へ首を巡らせる。
その双眸には理性のかけらもなく、ただ眼前の獲物を完膚なきまでに屠るための、濁った凶暴な光だけが爛々と宿っていた。
(頼むぜ、ファフニール)
リュウジィは相棒の名を胸の奥で呼び覚まし、今度は自ら踏み込みの足音を轟かせて地面を蹴った。
砂塵を爆ぜさせ、低く鋭い滑空のような踏み込みでオーガの懐へと一気に飛び込む。
オーガも即座にその気配を捉え、丸太のように太い腕を凶器の如く振り抜き、バズーカ砲の直撃を思わせる豪腕を叩きつけてきた。
逃げも隠れもしない。
リュウジィは右拳にファフニールの高熱の炎を極限まで纏わせ、真正面からその暴虐の拳へと叩きつけた。
ドッカーン!!!
激突の瞬間、闘技場に響いたのは鈍い打撃音ではなく、爆薬が炸裂したような凄まじい破裂音だった。
(大丈夫だ、通じる)
確かな手応えを拳に噛み締めたのも束の間、オーガは怒涛の咆哮と共にさらに狂暴さを増し、肉眼では残像しか追えないほどの高速連打へと移行した。
一撃一撃が壁を粉砕するほどの破壊力を秘めた拳が、雨あられとリュウジィを襲う。
リュウジィは高熱の炎を纏わせた両の掌を、鉄の盾として、あるいは鋭い刃として振るい続ける。
迫りくる漆黒の拳の軌道を極限の集中力で見極め、力を一点に凝縮させて次々と横から叩き落としていく。
バチッ!バチッ!バチッ!バチッ!バチッ!バチッ!!
肉と肉が激突するたびに、激しいスパークと灼熱の火花が周囲に飛び散る。
まるで高圧電流がショートし続けるかのような、鋭く重い連続打撃音が闘技場の空気を切り裂いた。
だが、絶え間なく続く力と力の激突は、やがて残酷なまでの差となって現れ始める。
身体強化によって限界まで肉体を底上げしているとはいえ、リュウジィの器はどこまでいっても人間のそれだ。
底知れぬスタミナと怪力を誇る魔獣オーガの猛攻を前に、リュウジィの呼吸は確実に浅くなり、わずかながらも致命的な反応の遅れが生じ始める。
その刹那の隙を、獣の直感を持つオーガは見逃さなかった。
左右のラッシュから一転、大きな溜めを作ったオーガの右拳が、リュウジィの完璧な防御を暴力的にこじ開け、その無防備な腹部へと深く吸い込まれた。
ドムッ、と内臓を抉るような重苦しい衝撃がリュウジィを襲う。
身体強化による防御を易々と突き破り、腹の奥へと衝撃が叩き込まれた。
「が……はっ!」
肺に残っていた酸素をすべて強制的に吐き出され、リュウジィの身体は文字通りくの字に激しく折れ曲がる。
そのまま地面との摩擦すら無視するような速度で、彼は闘技場の反対側へと無残に吹き飛ばされた。
激しくたたらを踏みながら、どうにか踏みとどまろうと足を踏ん張るリュウジィ。
だが、オーガの追撃はその抵抗を許さない。
オーガは地を這うような超低空の加速で肉薄すると、その巨体を一気に跳躍させた。
空中で放たれたのは、野獣のそれとは思えないほど洗練された、あまりにも鋭利な軌道の回し蹴りだった。
真横へ水平に振り抜かれると見せかけた太い脚が、重力に逆らうように空中で急激に軌道を捻る。
そして、上空から頭蓋を砕かんとする落差で、リュウジィの脳天へと襲いかかった。
死にもの狂いで掲げたガードごと、その強烈な撃ち下ろしの足技がリュウジィの頭上を捉える。
圧倒的な質量から繰り出される衝撃に抗う術もなく、リュウジィの身体は再び弾け飛んだ。
先ほど自ら叩きつけられた壁とは反対側。
闘技場の頑強な外周壁へと、その背中から激しく突き刺さった。
轟音を立てて崩れ落ちる巨石の山。
リュウジィは粉砕された石の礫に埋もれるようにして、そのまま瓦礫の底へと深く沈んでいった。
完全な静寂が、闘技場を支配する。
だが、その瓦礫の奥底で、風前の灯火となった小さな熱が、再び静かに、しかし凄まじい闘志の炎を帯びようとしていることを、まだ誰も知らない。
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