第71話:火花散る蹂躙
その場から、リュウジィの姿が消えた。
踏み込んだ瞬間、周囲の砂が爆ぜる。
文字通り「瞬間移動」としか形容できない極超音速の踏み込みで、リュウジィはオーガへ一直線に肉薄した。
あまりの神速に、世界の景色そのものが引き延ばされたように見える。
ファフニールから溢れ出した赤と金色の輝きが、幾条もの鋭い光となってリュウジィの軌跡を追い、夜空に鮮烈な線を刻みつけた。
だが、その神速の突進を、オーガの反射神経は完全に捉えていた。
予備動作は一切ない。
二メートルを超える巨躯からは信じられないほどの爆発的な初動で、オーガの右足が跳ね上がる。
重力すら無視したかのようなカウンターの蹴りが、リュウジィの顔面を粉砕せんと迫った。
リュウジィは、反射の領域すら超えた闘争本能で身体を滑らせる。
真横へ滑るような絶妙な体捌き。
鼻先をかすめる死の剛蹴を、紙一重でかわした。
避けると同時に、リュウジィの反撃の牙が剥き出しになる。
巨大な蹴り足の横を、流麗かつ鋭い五行拳で撃ち抜いた。
「劈拳!」
全身の体重を乗せた踏み込みと同時に放たれた鋭い掌が、音を置き去りにする勢いでオーガの足を捉えた。
バチィィィィッッッ!
大気を裂く乾いた衝撃音が闘技場のドームに反響する。
オーガの丸太のように太い脚が、横へ無造作に弾き飛ばされた。
しかし、歴戦の戦士であるオーガは、これほどの一撃を受けても止まらない。
蹴り足を払われ、強烈な遠心力で体勢を崩しながらも、凶悪な巨腕を振り下ろしてきた。
岩をも砕く丸太のような拳が、上空からリュウジィを地面ごと押し潰さんと迫る。
リュウジィは一歩も引かなかった。
逆に踏み込み、頭上から振り下ろされる巨獣の拳へ、自らの小さな拳を真っ向から突き出す。
唯一無二の力――研ぎ澄まされた内功が右拳の一点に極限まで集中する。
荒れ狂う炎が螺旋を描き、拳全体を獰猛に包み込んだ。
逃げ場なしの、正面衝突。
グワァッシャン!!
闘技場全体の基礎が軋み、地鳴りのような轟音が響き渡る。
互いの拳が激突した瞬間、桔梗色の火花が散り、凄まじい衝撃波が四方八方へ吹き荒れた。
二メートルを超えるオーガの巨体が、正面から叩き込まれた威力によって数歩後ろへ弾き返される。
対するリュウジィは、残酷なまでの体重差に押し潰されそうになりながらも、足裏で砂舞台を深く削り取りながら後方へ滑っていく。
十メートル近くも後退させられながら、それでもリュウジィは膝を折らない。
両足の五指で硬い地面を鷲掴みにし、鮮やかに踏み止まった。
弾かれた腕をぶらりと下げたままま、オーガは口端を歪め、不気味に笑った。
「タツヨより楽しめるそうじゃねえか? 小僧」
リュウジィは、その挑発を無言で切り捨てる。
再び地面を抉るように蹴り飛ばし、今度は狙いを絞らせない神速のジグザグ走行でオーガへ肉薄する。
舞い散る砂塵を鋭く切り裂き、左右へ激しくフェイントをかけながら、一瞬で懐へと間合いを詰めた。
オーガが殺意を込めた迎撃の蹴りを再び放つ。
リュウジィは飛来する巨足を、今度は掌底で完璧に捉えた。
「劈拳!」
パァァァァァンッ!
耳をつんざく鋭い衝撃音とともに、狙い澄ました掌がオーガの蹴り足の膝関節を正確に撃ち抜く。
わずかにオーガの巨体の重心が浮いた。
その刹那、リュウジィはさらに踏み込む。
ヒヒイロカネの特殊合金を仕込んだ靴の側面を凶器に変え、オーガの軸足である反対側の脛を、骨ごと抉り込むように激しく蹴り抜いた。
ガキッィィィィ!
硬質な衝撃音とともに、オーガの巨体が大きくぐらりと揺らぐ。
「小賢しいマネをしやがって、小僧!」
掠め取られた優位に苛立ちを露わにしたオーガが、視界を埋め尽くすほどの怒濤のパンチ連撃を叩きつける。
だが、リュウジィはその暴虐の嵐を正面から受け止める気など毛頭なかった。
流れるような円の軌道を描き、その破壊力を巧みに逸らしていく。
吸い付くような身のこなしで、オーガの連撃を紙一重ですべてかわした。
死地を潜り抜け、懐深くへ潜り込んだリュウジィは、一撃の破壊力を追求する勁力をあえて抑えた。
手数の多さと、攻撃を確実に当てることを最優先に切り替える。
奔流のような炎を纏った拳と掌。
そして、ヒヒイロカネの靴による鋭い蹴撃。
オーガを中心に動きまわりながら、それらが無駄のないコンパクトな軌道を描き、オーガの肉体の要所を次々と撃ち抜いていく。
急所である膝裏。
足首の関節。
さらに、強靭な筋肉が走る太腿。
ドカッ! バンッ! ドカッ! バンッ!
飛び散る火花と鮮血。
容赦なく叩き込まれる精密な連打によって、オーガの強靭な足元は確実に崩れていった。
「貴様ぁぁあ!」
自由を奪われ、思うように踏ん張れない下半身。
オーガは怒りに我を忘れ、咆哮を上げた。
その殺意剥き出しの怒号を、リュウジィは冷え切った、底知れぬ深淵のような瞳で見据える。
「――嬲り殺しにしてやるよ、オーガ」
逆上したオーガが、自我を忘れてありったけの生命力を込めた強打を繰り出す。
しかし、執拗な下段への攻めで機動力を根底から削り取られたその一撃は、もはやかつての鋭さを失っていた。
リュウジィは最小限の重心移動でそれをあしらう。
怒りに任せたオーガの拳は虚空を切り裂き、闘技場の硬質な床を激しく粉砕した。
凄まじい轟音とともに、もうもうと砂煙が舞い上がる。
大きく空振った反動と、痛めつけられた足元の不安定さが重なり、オーガの巨体がわずかに前のめりへ傾いた。
その、生死を分かつコンマ一秒の隙を、リュウジィは見逃さない。
地を這うような低い姿勢から、バネのように跳ね上がる反動を利用してオーガの懐へ深く飛び込む。
「鑽拳!」
螺旋を描く錐のような一撃。
灼熱の炎を纏った拳が、オーガの顔面を真っ向から正確に捉えた。
グシャッア!!
鼻梁が砕ける悍ましい鈍音が響く。
オーガの巨大な上半身だけが、衝撃によって激しく後方へ弾け飛んだ。
仰け反り、無防備に晒されたその巨大な胴体へ、リュウジィは追撃の暇すら与えない。
次に選んだのは左拳。
まるで意思を持つ火の玉のように膨れ上がった爆炎が、オーガの急所である鳩尾を容赦なく撃ち抜く。
ライバルの内臓を直接灼き壊す、致命の一撃――。
「崩拳!!」
ズドオーン!!
肉体の内部から直接、内臓を粉砕するような衝撃が突き抜けた。
二メートルを超えるオーガの巨体が、まるで紙屑のように五メートル以上もの彼方へ盛大に吹き飛ばされる。
観客席の誰もが、これで完全なる決着がついたと確信した。
だが、無残に吹き飛ばされた暗がりの先で、オーガは大量の血反吐を泥土へ吐き出しながら、凄まじい執念でその巨体を震わせた。
鑽拳と崩拳をまともに受け、いかに頑強な肉体を持つオーガであっても、本来ならその場で絶命するか、意識を失って二度と立ち上がれないほどの致命傷だった。
しかし、オーガは粉砕されかけた脛の骨を気力だけで無理やり支え、血に染まった砂の地面を両手で鷲掴みにする。
そして、這いずるようにして再び立ち上がった。
その顔面は鮮血で真っ赤に染まり、陥没した鼻と裂けた唇の間から、狂気に満ちた白い歯が剥き出しになっている。
血走った眼光は、全身を襲う致命的なダメージなど意に介さぬかのように、さらに凶悪な殺意を滾らせていた。
「おのれ、小僧ぉぉおぉぉお!!」
オーガが、天を裂くような絶叫を張り上げる。
その狂乱の瞬間。
怪物の巨体に、信じがたい異変が訪れた。
これまで青銅色だった強靭な肌が、内側から染み出すように不気味な漆黒へと変色していく。
ミシミシと全身の骨格が軋む。
破壊と再構築を繰り返すかのような異様な音が響き渡る。
悪夢のような頭部からは、岩盤さえも穿つ禍々しい漆黒の角が突き出した。
裂けた大口からは鋭利な魔獣の牙が剥き出しとなり、血走っていた眼球は、深淵のような魔力を湛えた禍々しい紫色へと毒々しく染め上げられていく。
そこに仁王立つ姿は、もはや人の血脈を引く誇り高き戦士ではない。
古の禁忌の伝承にのみ語り継がれる、世界の破壊そのものを現世に具現化したかのような、凄絶な魔獣の姿だった。
――これまで熱狂に沸いていた観客席が、凍りついたように一斉に静まり返った。
誰もが恐怖に息を呑む。
「おい……なんだ、あれは……」
「まさか、本当に『本物』だったのか……?」
先ほどまで勝敗に熱狂していた野次馬たちの顔から、血の気が引いていく。
単なる一角の大男の力自慢だと思い込んでいた「オーガ」という異名。
それが比喩でも二つ名でもなく、この世界が忌み嫌う魔物の血脈そのものを指していたのだと理解した瞬間、闘技場を支配していた熱狂は、純粋な恐怖へと塗り替えられた。
底知れぬ怪物と対峙するリュウジィの頬を、一筋の冷たい汗が伝い落ちる。
目の前の真の魔獣が放つプレッシャーは、先ほどまでとは比較にならない。
周囲の大気が悲鳴を上げるように震え、肌を直接突き刺すような禍々しい殺気が、津波のように膨れ上がっていく。
(……化け物め。ようやく本性を現したか)
リュウジィは雑念をすべて切り捨て、静かに、しかし力強く呼吸を整える。
丹田の奥底に眠る内功の熱源を極限まで圧縮し、全身を巡る経絡の隅々へ一気に解き放った。
究極の身体強化の術理が骨格の隅々まで締め上げ、筋繊維の一本一本に爆発的な剛性を与えていく。
さらに、その気迫に呼応するかのように、身に纏うファフニールが猛烈な高まりを見せた。
リュウジィの肉体を幾重にも包み込むその「深紅」の衣が、主の放つ膨大な内功の奔流を余すところなく受け止め、金赤の眩い輝きを全身へしなやかに、そして力強く循環させていく。
内側から湧き上がる「身体強化」の理と、外側を守護する「ファフニール」の特殊な特性。
二つの異なる灼熱の熱源が完全に同期し、火花を散らしながら一つへと重なっていく。
「もっとだ……もっと来い、ファフニール!」
轟くリュウジィの咆哮に応えるように、全身の毛穴から溢れ出す炎のオーラが、異常な高熱と光を放ち始めた。
神域へと踏み込む、極限を超えた戦闘次元。
リュウジィの肉体は今や、目の前のすべてを呑み込む魔獣を、真っ向から焼き尽くすための最強の武装へと昇華されていた。
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