第70話:深紅の咆哮
白一色の殺風景な治療室に、回復魔法特有の淡い光が痛々しいほどに満ちていた。
無機質な担架に寝かされたタツヨの瀕死の体は、幾重もの魔法の光に包まれている。その傍らでは三人のヒーラーが険しい表情で眉間に深い皺を刻み、張り詰めた極限の集中力を保ったまま、掌をかざし続けていた。
リュウジィはその緊迫した様子を、すぐ背後で息を呑むことすら忘れ、食い入るように見つめている。
意識を失ったままのタツヨの顔は、失血とショックでするどく青白く染まり、見ていられないほど痛々しかった。
「おい、助かるのかよ!」
リュウジィの焦燥に満ちた声が、静まり返った部屋に鋭く響き渡る。
しかし、ヒーラーたちは一言も返答せず、命を繋ぐ魔法の維持だけに全神経を注いでいる。
その返事のない冷たい沈黙が、かえってリュウジィの胸中に渦巻く焦燥と恐怖を、狂おしいほどに煽り立てた。
「なあ、大丈夫なのかよ! おい!」
リュウジィは、今にも目の前のヒーラーの肩を掴み上げてしまいそうな勢いで、ぐっと身を乗り出した。
その瞬間、治療の中央にいた年配のヒーラーが、額ににじみ出た大量の汗を拭うこともせず、冷たく低い声で言い放った。
「……静かにしろ。魔法が乱れる。命は繋ぎ止めているが、これ以上の保証はできん」
「そんな……っ!」
「あとはこの男の生命力次第だ。外で待っていろ」
ヒーラーはリュウジィの顔を一瞥することすらせず、追い払うように冷たくそう言い放った。
治療室から半ば放り出されるように追い出されたリュウジィは、怒りに任せた荒い足取りで自分の控室へと戻った。
重い扉を背後から蹴り飛ばすように勢いよく閉めると、行き場のない激しい怒りと悔しさが、一気に頭のてっぺんまで噴き出した。
「クソッ、ふざけんなよ……!」
リュウジィは震える拳を握り締め、頑丈な石の壁を力任せに何度も殴りつけた。
骨が砕けそうな痛烈な痛みなど、今の彼の荒れ狂う心には微塵も届かない。
脳裏から焼き付いて離れないのは、無残に壁へと叩きつけられて折れたタツヨの姿と、その痛みをあざ笑うかのように、ゴミを見る目で眺めていたオーガの下卑た薄笑いだけだった。
「オーガァァァッ……! あいつ、絶対に許さねえぞ……!」
喉の奥から絞り出された剥き出しの殺意が、呪詛のような言葉と共に溢れ出す。
恐怖と怒りで激しく震える拳をさらに強く、爪が食い込むほどに握りしめ、リュウジィは自分の歯が欠けるほどの勢いで奥歯をキリキリと噛み締めた。
「次だ、次は俺があの面を叩き潰してやる……!」
その憤怒が頂点に達した瞬間だった。
闘技場を去る際に一度は不気味な漆黒へと戻っていたファフニールのチャイナ服が、次の試合を前にして、リュウジィの激昂する殺気に呼応するように、再び禍々しくも鮮やかな深紅へと劇的に変化した。
不意に、静寂を断ち切るように控室の重い扉が、ノックすらなしにガタリと開いた。
「リュウジィ、時間だ。出番だぞ」
無機質な運営の男の事務的な声が冷たく響く。
リュウジィは振り返りもせず、怒りで大きく波打つ肩を上下させながら、その場でカッと立ち上がった。
「……わかってるよ」
地の底を這うような、低く荒々しい声。
男の顔を見ることすらせず、リュウジィは怒りに燃える深紅のファフニールを激しく翻し、制御を失った怒りに身を任せたまま控室を飛び出した。
今まさに生死の境をさまようタツヨの無念を、ここで完全に晴らすかのように、その足取りは重く、そして狂気的なまでに激しかった。
薄暗く冷たい通路を抜け、いよいよ闘技場へと続く巨大なゲートをくぐる。
目の前の視界が一気に開けた瞬間、肌を焼くような観客の熱気と、鼓膜を劈く轟音のような大歓声が、リュウジィの全身を荒々しく包み込んだ。
「来たぞ! 死神リュウジィだ!!」
「今日もぶちのめしてくれよ!」
数万人の観客が一斉に立ち上がり、地鳴りのような割れんばかりの拍手と熱狂的な叫び声を浴びせかけてくる。
だが、その興奮の歓声は、リュウジィの姿を見た瞬間に凍りつき、困惑と底知れぬ驚愕のどよめきへと一変した。
「おい、見ろよ……あいつの服!」
「まだ試合前だぞ? もう真っ赤になってやがる……」
通常、激しい戦いの中で血潮に反応して昂ぶりを見せるはずのファフニールが、入場したこの瞬間ですでに禍々しいまでに深紅に染まりきっている。
その常軌を逸した異様な光景と、リュウジィの全身からとめどなく立ち昇る凄まじい殺気に、観客たちは圧倒され、言葉を失って息を呑んだ。
リュウジィはそんな周囲の怯えた視線を気にする素振りすら見せず、ただひたすらに内側からドロドロと沸き上がる怒りの炎を抱えたまま、目の前の血塗られた戦場へと一歩、また一歩と重い足を進めた。
闘技場の中央、その殺伐とした舞台の真ん中で静かに待ち受けていたのは、一人の孤高の女だった。
艶やかな漆黒の長い三つ編み髪に、まるで氷の彫刻のように冷たく輝く純白の軍礼服。
白く透き通るような肌と完璧に整った端正な顔立ちは、黒と白のあまりに強烈なコントラストを描き出し、これまでのどんな対戦相手とも一線を画す異質なオーラを放っている。
カミラ・ヴァン・クロム。
彼女がそこにただ佇んでいるだけで、数万人の熱狂に包まれていたはずの会場は、水を打ったような不気味な静寂に包まれた。
カミラは背丈ほどもある長大なグレイブを無造作に肩に預け、激情の炎を隠そうともせずに歩み寄るリュウジィを、底冷えするような冷徹な瞳で見据えている。
深紅に燃え盛る殺意と、純白の冷徹な静寂。
完全に二極にある二つの色が、闘技場の中心で静かに、だが激しく衝突し合った。
カミラは肩に預けていたグレイブを滑らかな動作で下ろし、リュウジィは殺意に歪んだ拳を固め、一気に地を蹴る態勢へと移行する。
『始めッ!!』
運営の鋭い合図とともに、血塗られた闘いの火蓋が容赦なく切って落とされた。
リュウジィが地面を抉るような爆発的な踏み込みを見せた、その瞬間。
それまで完璧に静止していたカミラが、風よりも速く動いた。
彼女が手にした長大なグレイブ――東方の恐るべき「薙刀」にも似たその呪われし武器は、単なる硬質な鋼の塊などではなかった。
それは古代の失われた叡智と魔力が込められた、危険なアーティファクトだった。
カミラが全身の力で振るった一撃は、硬質な武器という概念すら軽々と覆し、まるで獲物を執念深く狙う凶悪な大蛇のようにしなやかな軌道を描いて、突進するリュウジィを強烈に迎え撃つ。
「……ッ!」
リュウジィは本能的な反射神経で斜め前方へと素早く身体をスライドさせ、その死を誘う一撃を紙一重で躱し去った。
だが、本来なら通り過ぎるはずの刃が、まるで生き物のように不気味にうねり、空中で直角に近い軌道へと折れ曲がる。
それはまるで逃げる標的をどこまでも追いかける追尾機能を備えた誘導ミサイルのように、リュウジィの死角を正確に捉え、執拗にその背中へと追いすがってきた。
もはや逃げ場は一切ない。
リュウジィは瞬時に全身の筋肉を捻り、業火の炎を纏わせた掌を容赦なく繰り出した。
「邪魔だッ!!」
激しい怒りの炎を全身に纏った掌が、真横からカミラのしなやかな刃を真っ向から強烈に叩き伏せる。
ガキッィィィィン!
鼓膜を劈く硬質な金属音が闘技場全体に鋭く鳴り響き、激しく飛び散った無数の火花が、二人の間で鮮烈に弾け飛んだ。
力任せに弾かれたその刃を元の位置に戻す隙すら与えず、カミラは即座に容赦ない追撃へ移る。
その手の中でグレイブの柄を恐るべき速さで回転させ、強烈な遠心力を乗せたポールの末端が、地を這うような死角の軌道からリュウジィの顎を強引に跳ね上げるべく急浮上した。
リュウジィは首を僅かに後ろへ反らせ、これを辛うじて回避する。
目前をかすめて空を切ったポールの恐ろしい風圧を肌でヒリヒリと感じながら、彼はそのままの勢いで最短距離を駆け抜け、カミラの懐へと一気に深く踏み込んだ。
「崩拳ッ!!」
踏み込みの推進力をすべて乗せて放たれた、魂の込められた渾身の一撃。
カミラは咄嗟にグレイブのポールを地面に対して垂直に立て、強固な盾とするようにして、リュウジィの放った拳の直撃を受け止めた。
バッチィィィィ!
常軌を逸した激しい衝撃が走り、カミラの白い両足が闘技場の硬い砂地を深く削り取った。
あまりの凄まじい衝撃の浸透力に耐えきれず、白銀の礼服を激しく翻しながら、彼女の身体は後方へと大きく弾き飛ばされた。
激しく弾き飛ばされたカミラとの間にわずかな距離が空いたのは、ほんの一瞬の出来事だった。
次の瞬間、リュウジィの姿が視界から完全に掻き消える。
観客の目には、それが人間の動体視力を超えた瞬間移動にしか見えないほどの神速の踏み込みだった。
カミラがまだ態勢を立て直す間すら与えず、リュウジィはその目の前にまで恐るべき速さで肉薄していた。
殺気で爛々と見開かれた鋭い眼光が、冷徹に次のターゲットを射抜く。
「今の俺には、お前は敵じゃない」
冷酷な宣告と共に、リュウジィの右腕が不気味なうねりを上げて振るわれる。
「横拳ッ!!」
外回転の凶悪な遠心力を乗せた掌が、激しい螺旋を描く業火の炎を纏いながら放たれた。
それは相手のどんな防御も愚弄するかのように、カミラの完全に無防備な腹部を正確無比に、そしてこの上なく無慈悲に撃ち抜いた。
グワァッッッン!!
内臓の配置を激しく揺さぶる凄まじい破壊の衝撃音が、スタジアム全体を激しく震わせる。
カミラは腹部を貫くような衝撃を受け、まるで折れた木の葉のように虚空へと舞い上がった。
そのまま凄まじい勢いで闘技場の外壁へと激突し、乾いた爆音と共に硬質な壁面に深い亀裂を走らせる。
まるで跳ね返るようにして固い地面へと力なく叩きつけられたカミラは、前のめりに倒れたまま、もはやピクリとも動かなくなった。
一瞬前までのあの圧倒的な威圧感はどこへやら、ただ不気味な静寂だけが、生気を失ったその場を支配した。
「……な、なんだってんだよ……!」
「嘘だろ!? あのカミラが、たった二撃で……!」
直後、先ほどまで静まり返っていたスタジアムが、爆発したような狂気の熱狂に包まれる。
「リュウジィィィィ!! お前、最強かよ!!」
「死神! 死神リュウジィ!!」
地鳴りのような熱狂の歓声が、怒りに燃えるリュウジィの背中に容赦なく突き刺さる。
無敵の強者の信じがたい敗北と、そこから現れたさらなる恐怖の怪物の出現。
観客たちは狂ったように拳を突き上げ、その恐ろしい名前をいつまでも叫び続けていた。
だが。
最高潮に達したその熱狂の歓声を一瞬で切り裂くように、天の果てから「それ」は文字通り降ってきた。
ドォォォォォン!!
闘技場の中心に、数トンはあろうかという巨体が上空から直撃したかのような凄まじい衝撃が走る。
もうもうと激しく巻き上がる土煙の中、リュウジィと、その足元で倒れたままのカミラをまるで隔てるようにして、一人の規格外の巨躯がそこにそびえ立っていた。
「……ッ!?」
リュウジィの瞳が、怒りと驚愕の色を伴ってさらに鋭く見開かれる。
予期せぬ最悪の乱入者の登場に、スタジアムを支配していた空気は一瞬にして凍りつき、そして別の恐怖へと変わった。
「おい……まさか……あいつ!」
「信じられねえ、このタイミングで乱入かよ!」
「死神と最強の激突だぞ……! おい、歴史が変わるぞ!!」
土煙が風に流されてゆっくりと晴れていく。
そこに悠然と佇む「最強」の不気味な輪郭が露わになるにつれ、スタジアムは恐怖を超えた、異様なまでの熱狂と狂気のどよめきに完全に支配された。
オーガが闘技場に現れた。
「おい! 小僧、タツヨが弱すぎて退屈だったから、お前遊んでくれよ」
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