第69話:無慈悲な追撃の果て
二人の足元で激しく舞い上がっていた砂煙が、冷たい風に流され、ゆっくりと消えていく。
先ほどまで闘技場を揺るがしていた激しい打撃音と荒々しい足音は、嘘のようにピタリと止んでいた。
周囲をぐるりと囲む観客席からも、一人の声すら聞こえない。
ただ、人々が息を呑む気配と、肌を刺すような重苦しい沈黙だけが、巨大な空間を支配していた。
固い地面には、タツヨが必死に踏ん張った際に削り取られた深い轍が何本も刻まれ、ここまでの死闘の激しさを物語っている。
乾いた砂には、オーガが吐き捨てた一筋の鮮血。
そこだけが、どす黒く不気味に染まっていた。
オーガの全身から放たれる殺気は、もはや目に見えない圧力となって周囲の空気を震わせている。
タツヨの肌を直接突き刺すような感覚。
喉の奥がヒリつくほどの重圧だった。
一秒が永遠にも感じられる静寂の中、タツヨの荒い呼吸だけが、やけに大きく響き続けていた。
オーガの膝が、わずかに沈む。
その瞬間――巨体が消えた。
次の瞬間には、すでにタツヨの眼前。
左右の拳が閃光のような速さで突き出された。
二メートルを超える巨躯からは到底信じられない俊敏さ。
一撃。
二撃。
三撃。
拳がタツヨの急所を正確に狙って飛んでくる。
タツヨは闘争本能の限界で地を蹴った。
右。
左。
細かくステップを踏み、拳の芯を外す。
だが、オーガの踏み込みは、それを上回った。
「くっ……!」
かわし切れない。
そう直感した瞬間、タツヨは両腕を顔の前へ叩き上げた。
ガードを固める。
「ドカッ! ドカッ! ドカッ!」
巨岩と鉄塊がぶつかったような衝突音が、連続して響いた。
オーガは止まらない。
ガードの上から拳を叩き込む。
一発。
また一発。
打撃を受けるたび、タツヨの身体が後方へ弾かれる。
両腕の骨が軋んだ。
足元では、砂塵が激しく舞い上がる。
それでもオーガは、タツヨを倒さなかった。
むしろ拳の威力を巧妙に落としていた。
意識を飛ばさない程度。
致命傷にはならない程度。
ただ痛みだけを残す。
タツヨが苦しみ続けるように、あえて加減している。
オーガの顔に、下卑た笑みが浮かんだ。
剥き出しの歯を覗かせ、タツヨの苦悶する表情を楽しむ。
肩。
脇腹。
太もも。
固いガードの隙間を縫い、拳が次々と突き刺さる。
逃げることも、反撃することも許さない。
なぶるような連打が、タツヨの体力を削り取っていく。
それでも――
タツヨの目だけは死んでいなかった。
一方的な攻撃が続く中、タツヨはオーガの動きを見ていた。
そして、見つけた。
ほんの一瞬。
オーガが余裕を見せたせいで、拳を引く動作がわずかに遅れた。
その刹那。
タツヨの身体が沈む。
深く。
一気に。
強靭な懐へ滑り込んだ。
オーガが次の拳を繰り出そうとした瞬間――
タツヨの右拳が走った。
かつてリュウジィとの戦いで見せた秘技。
「ファントムストレート!」
予備動作は、ほぼゼロ。
放たれた瞬間、拳が視界から消えたように見える。
オーガ自身の攻撃の勢いすら利用し、その拳が完璧なタイミングで突き刺さる。
「パーンッッッッ!!!」
拳が、オーガの顔面を捉えた。
巨体が吹き飛ぶ。
これまで、どんな攻撃を受けても微動だにしなかった身体が、初めて大きく後方へ弾かれた。
「うおおおっ!」
タツヨは止まらない。
痺れる右腕を無理やり動かし、追撃へ踏み込んだ。
今度こそ畳み込む。
そう思った瞬間――
空中のオーガが身体を捻った。
吹き飛ばされた勢いを殺さない。
巨体がコマのように回転する。
「なっ……!」
裏拳。
「ドゴォッ!」
丸太のような腕が、タツヨの左頬を真正面から打ち抜いた。
タツヨの視界が一瞬で弾ける。
身体が真横へ吹き飛んだ。
地面を数メートル滑り、砂煙を巻き上げる。
それでも倒れない。
意識が途切れそうになる寸前、タツヨは左手を地面へ叩きつけた。
身体を翻す。
片膝をつく。
視界が白く明滅する。
頬の奥から突き抜ける激痛。
口の端から鮮血が流れ落ちる。
それでもタツヨは、拳を握った。
立ち上がる。
構えを解かない。
オーガが、それを見て笑った。
「おい、タツヨ。前よりちょっとだけ成長したな。だけど物足りねえよ」
オーガが歩き出す。
一歩。
また一歩。
急ぐ必要などないと言わんばかりの、余裕に満ちた足取りだった。
タツヨは後退する。
荒い呼吸を繰り返しながら、必死に間合いを保つ。
だが、オーガは両腕をだらりと下げたまま、ゆっくりと近づいてくる。
戦う構えすら取らない。
その姿が、逆に不気味だった。
タツヨが息を呑んだ。
その瞬間――
オーガの右足が跳ね上がった。
予備動作はない。
腰も沈めない。
ノーモーション。
回し蹴りが、死角から最短距離で飛んできた。
「ドーンッッッ!」
「ガハッ……!」
タツヨは咄嗟に肘を絞り込んだ。
ガードが間に合う。
だが、止めきれない。
桁違いの衝撃が身体を突き抜け、タツヨの身体が再び弾き飛ばされた。
オーガが追う。
タツヨが空中にいる。
その着地を待つ必要すらない。
オーガは大地を蹴った。
「終わりだ」
巨大な拳が、上空から振り下ろされる。
「ドォォンッ!」
タツヨの身体が地面へ叩き落とされた。
砂塵が爆発する。
地面が陥没する。
衝撃でタツヨの身体が跳ね上がった。
そこへ――
オーガの脚が迫る。
「まだだ」
無防備に浮いたタツヨの胴体へ、重い蹴りが叩き込まれた。
「ドゴォォォンッ!」
タツヨの身体が弾丸のように吹き飛ぶ。
闘技場を囲む分厚い石壁へ一直線に飛んでいく。
そして――
「ドゴォォォォンッ!」
激突。
石壁が砕け散った。
無数の瓦礫が崩れ落ち、土煙がタツヨの身体を飲み込んでいく。
オーガは歩いた。
瓦礫へ向かって。
その足取りに焦りはない。
トドメを刺す。
ただ、それだけだった。
瓦礫の隙間から、かすかな息遣いが聞こえる。
タツヨは、まだ生きている。
オーガが拳を握った。
ゆっくりと振り上げる。
「終わりだ」
拳が頂点まで上がった。
そして――
振り下ろされる。
その瞬間だった。
ドンッ!
土煙が弾けた。
オーガの拳と瓦礫の間に――
一人の男が立っていた。
「……そこまでだ」
リュウジィ。
いつからそこにいたのか。
観客の誰一人として、その動きを捉えられなかった。
オーガの巨拳が、リュウジィの頭上へ迫る。
だが――
リュウジィは逃げない。
右足を踏み込む。
腰を落とす。
そして、掌を突き上げた。
「パァァァァンッ!」
掌と拳が激突した。
衝撃波が爆発する。
周囲の土煙が一瞬で吹き飛び、足元の砂が円を描いて舞い上がった。
そして――
ズズズッ!
オーガの巨体が、押された。
一歩。
さらに、もう一歩。
あのオーガが。
正面から押し返された。
観客席が静まり返る。
誰もが目の前の光景を理解できず、息を呑んだ。
リュウジィの掌。
その一枚だけで、オーガの必殺の拳を止めている。
「……何だ、てめえ」
オーガの顔から笑みが消えた。
リュウジィはゆっくりと掌を引く。
その目は、オーガから一瞬たりとも離れない。
「もう勝負はついてるだろ」
その声は静かだった。
だが、闘技場の隅々まで届いた。
次の瞬間――
「リュウジィだ!」
誰かが叫んだ。
「リュウジィだ! リュウジィ!」
「本物かよ!」
「死神リュウジィだ!」
一気に歓声が爆発した。
地鳴りのような声が闘技場を揺らす。
オーガが顔を歪めた。
「おい! 小僧! 邪魔してんじゃねえ」
殺気が膨れ上がる。
それでもリュウジィは動かない。
「てめえもヤッちまうぞ! ああ?」
オーガが牙を剥く。
リュウジィは構えを解かなかった。
「やってみろよ! オーガ!」
その瞬間――
リュウジィの身を包むファフニールのチャイナ服が、不気味な光を放った。
漆黒の布地が、ゆっくりと色を変えていく。
黒から――
深紅へ。
鮮烈な赤が、リュウジィの全身を包み込んだ。
「……!」
観客席から、さらに大きなどよめきが起こる。
オーガの目が細くなった。
そして、口元がゆっくりと吊り上がる。
「……なるほど。お前が最近、闘技場の死神とか言われてるリュウジィか?」
オーガは握っていた拳を、ゆっくりと下ろした。
「なら、楽しみは後に取っておくか」
そう言うと、オーガは踵を返した。
「またな、小僧」
巨大な背中が遠ざかっていく。
やがて、その姿は砂煙の向こうへ消えていった。
その直後。
「早くしろ!」
待機していた三人のヒーラーが、瓦礫へ駆け込んだ。
「心拍が弱っている!」
魔法の力で重い石材を次々と退かしていく。
そして――
瓦礫の下から、タツヨが姿を現した。
血と土煙にまみれ、意識はない。
ヒーラーたちは急いで担架へ乗せる。
「医療区画へ運ぶぞ!」
担架が走り出す。
その姿を見た瞬間、リュウジィも駆け出していた。
「死ぬなよタツヨ!」
遠ざかる担架へ向かって叫ぶ。
「一緒に俺の国に帰る約束したじゃんかよ!」
その声が、熱狂の残る闘技場に響き渡った。
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