第68話:闘技場の支配者
二人の足元で激しく舞い上がっていた砂煙が、冷たい風に流され、ゆっくりと消えていく。
先ほどまで闘技場を揺るがしていた激しい打撃音と荒々しい足音は、嘘のようにピタリと止んでいた。
周囲をぐるりと囲む観客席からは、一人の声も聞こえない。
ただ、人々が息を呑む気配と、肌を刺すような重苦しい沈黙だけが、巨大な空間を支配していた。
固い地面には、タツヨが必死に踏ん張った際に削り取った深い轍が何本も刻まれている。
ここまでの死闘の激しさを、雄弁に物語っていた。
オーガが吐き捨てた一筋の鮮血が乾いた砂に吸い込まれ、そこだけがどす黒く変色している。
オーガの全身から放たれる殺気は、もはや目に見えない圧力となって周囲の空気を震わせていた。
タツヨの肌を直接突き刺すその感覚は、喉の奥がヒリヒリと渇くほどの、確かな実体を持った重苦しい圧迫感だった。
一秒が永遠のように長く感じられる極限の静寂。
その中で、タツヨの荒い呼吸だけが、やけに大きく響き続けていた。
オーガが、わずかに分厚い膝を沈めた。
その瞬間。
巨体が、視界から消えた。
次の瞬間には、すでにタツヨの眼前まで肉薄していた。
左右の強靭な拳が、閃光のような速度で突き出される。
二メートルを超える巨躯からは到底信じられない俊敏さ。
一撃一撃が、タツヨの急所を正確に狙っていた。
タツヨは闘争本能のまま地を蹴り、左右へ細かくステップを踏む。
オーガの拳の軌道を、必死に外そうとした。
だが、オーガの踏み込みの爆発力は、タツヨの回避速度を上回っていた。
このままでは、かわし切れない。
そう直感したタツヨは、咄嗟に両腕を顔の前へ揃え、硬いガードを固めた。
「ドカッ! ドカッ! ドカッ!」
生々しい肉を打つ音ではない。
まるで巨岩と鉄塊が激突したような硬質な衝突音が、連続して耳をつんざく。
オーガは、タツヨが必死にガードを固めていることなど意にも介さず、その腕の上から怪力の拳を叩き込み続けた。
一発加わるたび、タツヨの身体が後方へ弾かれる。
防御に使っている両腕の骨が、悲鳴を上げて軋んだ。
完全に防戦一方へ追い詰められたタツヨの足元では、圧倒的な衝撃に耐えかねた砂塵が激しく舞い上がる。
だが、その猛烈な連撃の途中で、オーガの拳の性質が変化した。
一撃で息の根を止めるような破壊的な威力ではない。
あえて威力を加減し、タツヨの意識が飛ばない程度の痛烈な打撃を、執拗に繰り返している。
それは、確実に肉体と精神へダメージを蓄積させ、じわじわといたぶっていく悪夢のような攻撃だった。
オーガは、その巨漢の顔に下卑た笑みを浮かべていた。
剥き出しの歯をニヤリと覗かせ、口角を歪めながら、タツヨが苦悶の表情を浮かべる様子を至近距離で観察している。
オーガは固いガードのわずかな隙間を正確に縫い、タツヨの無防備な肩や脇腹、そして太ももを痛めつけていく。
逃げることも、反撃することも許さない。
なぶり殺しにするような小刻みな連打が、タツヨの残された体力を容赦なく削り取っていった。
一方的な地獄の連打が続く中。
タツヨは、その極限の状況で一瞬の隙を見逃さなかった。
いたぶりを楽しむ余裕。
そのわずかな油断によって、オーガの次の拳の引き戻しがほんの少しだけ遅れた。
その刹那。
タツヨは全身のバネを限界まで沈み込ませるようなステップへと変え、その巨体の懐へ一気に滑り込んだ。
オーガが次の追撃を繰り出そうと身構えた、その瞬間。
タツヨは、その動きに完璧に合わせるように、かつてリュウジィ戦で見せた秘技――。
「ファントムストレート!」
打撃の予備動作を完全に消し去る。
放たれた瞬間、人間の視界から消えたかのように錯覚させる、不可視の右ストレート。
オーガが放った攻撃の勢いすら利用し、完璧なタイミングで突き刺さるカウンターだった。
下品にニヤついていたオーガの顔面を、その見えない拳が真っ向から捉えた。
「パーンッッッッ!!!」
空気が裂け、何かが破裂したような凄まじい音が闘技場全体に轟き渡る。
直撃を受けたオーガの巨体が、たまらず後方へ大きく弾き飛ばされた。
タツヨの反撃は、そこで止まらない。
渾身のカウンターを叩き込んだ右腕には、神経を麻痺させるような痺れが残っていた。
それでも、その限界の痛みを気迫だけでねじ伏せ、一気に畳みかけようと再び前へ踏み出す。
しかし。
追撃の拳を叩き込もうとした、その刹那だった。
後方へ吹き飛んでいたはずのオーガが、人間の身体の構造を無視したかのような不自然な動きで、空中で重心を切り替えた。
弾き飛ばされた勢いを殺すことなく、しなやかに全身を使う。
巨大な身体が、コマのように鋭く回転した。
タツヨの視界が揺らぐ。
オーガが放ったのは、破壊的な遠心力を乗せた必殺の裏拳だった。
丸太のように太い腕が唸りを上げて空気を切り裂き、タツヨの顔面へ猛烈な勢いで迫る。
予測を完全に超えた軌道。
攻守を一瞬で逆転させる、怪物じみた身のこなしだった。
回避することも、完全な防御を間に合わせることも、もはや不可能だった。
オーガの鋼鉄のような拳が、タツヨの左頬を真正面から捉えた。
「ドゴォッ!」
骨格をひしゃげさせるような強烈な衝撃が脳髄を駆け抜ける。
タツヨの身体は、真横へ猛烈な勢いで吹き飛ばされた。
闘技場の固い地面を数メートルにわたって滑り、激しい砂埃を巻き上げる。
だが。
完全に意識を断たれ、倒れ込む直前。
タツヨは震える左手で地面を叩きつけ、その反動を利用して強引に身を翻した。
片膝をつき、砂を鷲掴みにするようにして必死に体勢を立て直す。
頬の奥から突き抜ける耐えがたい激痛。
白くチカチカと明滅する視界。
それでもタツヨは、執念だけで意識を繋ぎ止めた。
血走った目をカッと見開き、即座に顔を上げる。
口の端から鮮血が垂れていた。
それを拭う暇すらない。
タツヨは再び拳を固め、目の前の怪物を迎え撃つための構えを解かなかった。
「おい、タツヨ。前よりちょっとだけ成長したな」
オーガは、不気味に歪んだ笑みを浮かべた。
「だけど、物足りねえよ」
圧倒的な余裕を感じさせる足取りで、オーガは再び恐るべき間合いをじりじりと詰め始めた。
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