第67話:不沈の巨躯が初めて揺れた衝撃と予兆
上空には、一寸の曇りもない、逃げ場すらないほど突き抜けた青空が広がっていた。
その圧倒的で無機質な明るさが、これから砂舞台で繰り広げられる血で血を洗う戦いの凄惨さを、かえって残酷なまでに際立たせている。
タツヨとオーガの死闘が、ついに火を吹いた。
タツヨは軽やかに、そして矢のように素早くステップを踏みながら、圧倒的な巨躯を誇るオーガとの死の間合いを少しずつ詰めていく。
リズミカルに砂を蹴る乾いた音。
左右へ鋭く動くタツヨの身のこなしが、オーガの殺気立った視線を揺さぶっていた。
対するオーガは、猛獣のように低く腰を落とし、丸太のように太い腕をいつでも振り抜けるように構えている。
その視線は、ただひたすらタツヨだけを射抜いていた。
二人が肉薄するたび、その間の空気が張り詰めていく。
タツヨの電光石火のジャブが、オーガの堅牢な巨体を捉えた。
「ドスッ、ドカッ!」
風を切り裂く鋭い左拳が、オーガの分厚い腹部と強靭な下半身へ次々と突き刺さる。
タツヨは左拳だけで、一瞬の隙すら与えず、間断なく打撃を叩き込んでいく。
「シュッ、ボゴッ、ドスッ!」
大気を切り裂く拳の風切り音と、極限まで鍛え抜かれた肉を打つ鈍い衝撃音が重なった。
執拗な猛打を浴び続け、さすがのオーガの巨躯もわずかに後退する。
だが、第二形態へと変化したトゲまみれの禍々しいガントレットでどれほど抉っても、オーガの青銅色の身体からは一滴の血も流れなかった。
「ガシュッ、ガチッ!」
凶悪なトゲがぶ厚い皮膚を突き破り、確実に肉の奥へ食い込んでいるはずだった。
それでも、赤い血が噴き出す気配すらない。
どれほど鋭利なトゲに身体を抉られても、オーガは流血することなく、まるで痛覚そのものを持たないかのように、その場に立ち塞がり続けている。
それでもタツヨは表情一つ変えず、機関銃のようにジャブを打ち続けた。
「ビシッ!ビシッ!ビシッ!ビシッ!ビシッ!
」
決して、タツヨの拳が効いていないわけではない。
一撃一撃は重い。
その爆発的な衝撃に、オーガの巨躯は確実に震えている。
ただ、それでも倒れない。
致命傷にならないというだけの、化け物じみた耐久力だった。
タツヨは一切表情を崩さず、止まることのない左拳をさらに加速させた。
その時だった。
不意に、空間を裂くような唸りを上げ、オーガの巨腕が動いた。
バズーカ砲の直撃を思わせる豪腕のパンチが、一直線にタツヨの顔面を砕くべく飛んでくる。
「ゴォォォォンッ!」
タツヨは神業的な動体視力で、その拳を紙一重でかわした。
オーガの拳が虚空を切り裂いた瞬間、凄まじい風圧が爆発したかのような衝撃波となって周囲を襲う。
視界がグラリと揺らぎ、巻き上がった暴力的な爆風が、タツヨの耳元で鼓膜を破らんばかりの轟音を立てた。
あんな一撃をまともに受ければ終わる。
死の気配が、背筋を撫でた。
タツヨは即座に地面を強く蹴った。
大きくバックステップし、オーガの絶対的なリーチの外へ距離を取る。
高鳴る心臓が早鐘のように胸を打ち、冷や汗が一筋、こめかみから頬を伝い落ちた。
タツヨは荒い息を整えながら、オーガの規格外の破壊力を改めて思い知らされる。
仕切り直そうとした、その刹那。
今度はオーガがそれを許さなかった。
巨体からは到底信じられないほどの瞬発力で、一気に距離を詰めてくる。
足元の地面を爆発させるように踏み込み、間髪入れず、オーガは予備動作すら感じさせないノーモーションのパンチを繰り出した。
しかし、その絶体絶命の瞬間。
タツヨは現世で鍛え上げた格闘技術を証明するかのように、鋭い飛び込みからスーパーマンパンチを放った。
「ドガァッッッッ!」
周囲の観客の鼓膜を震わせる凄まじい破裂音が、闘技場に轟き渡る。
真正面から拳を顔面に捉えられたオーガの巨体が、大きく弾き飛ばされた。
「ズザザザザザザザッ!」
オーガは硬い地面を両足で削りながら、後方へと滑るように後退する。
タツヨはその千載一遇の隙を見逃さなかった。
着地した瞬間、爆発的な加速で再びオーガへ肉薄する。
この勝機を逃すまいと、全身の体重を一点に乗せた渾身の右ストレートを、相手の顔面めがけて振り抜いた。
だが、その直後だった。
完全に体勢を崩していたはずのオーガが、信じられない動きを見せる。
死角から、予備動作のまったく見えない鋭い回し蹴りが、閃光のように飛んできた。
丸太のように太く強靭な脚が、逃げ場のないタツヨの横腹を襲う。
「ッ!?」
タツヨはとっさに両腕を固くクロスさせ、その重い一撃を必死にガードした。
「ゴウッッ!」
凄まじい質量を伴った破壊力が、全身を叩きつける。
ガードした両腕ごと身体が浮き上がり、タツヨの小柄な身体は、まるで枯れ葉のように後方へ吹き飛ばされた。
「ズザッ、ズザザザザッ……!」
着地した勢いのまま、足の裏で必死に砂を噛みしめる。
地面を深く削りながら、タツヨはどうにか踏みとどまった。
衝撃で両腕の感覚が激しく痺れ、耐えがたい痛みが走る。
それでも、タツヨは膝を折らなかった。
地面に崩れ落ちることもなかった。
血走った視線を一度たりとも相手から外さず、もうもうと立ち込める砂煙の向こうに仁王立ちするオーガを鋭く睨みつける。
やがて、砂煙がゆっくりと晴れていく。
そこには、口元から一筋の鮮血を流したオーガの姿があった。
あれほど無数のトゲで全身を攻撃されても、一滴も流れなかった血。
それが今、タツヨの放った渾身の拳による衝撃で、初めてその屈強な顔を汚していた。
オーガは鬱陶しそうに手の甲で血を拭い去る。
そして、かえって狂気を帯びた笑みを浮かべた。
「今のは効いたぜ、タツヨ」
底冷えするような低い声が、闘技場に響き渡る。
オーガの濁った瞳には、底知れぬ闘争心がギラギラと宿っていた。
対するタツヨは、激しい痺れの残る両腕を静かに構え直し、決して怯むことなく視線を返す。
「じゃあ、もっと殴ってやるよ。骨が粉々になるまでな」
短く吐き捨てると、タツヨは再び地面を爆ぜるように蹴った。
鋭いダッキングでオーガの長く伸びた腕を潜り抜け、その懐へ一気に深く潜り込む。
無防備な腹部へ、容赦ない左右のボディブローを叩き込んだ。
「ドスッ、ドカッ、ドスッ!」
重い拳が打ち込まれるたび、オーガの巨躯が大きく震える。
執拗に中段を狙う打撃のラッシュ。
ついにオーガの重心が、わずかに沈み込んだ。
その隙を、タツヨは見逃さない。
顔の位置が下がったオーガの顎めがけ、全身のバネを使った鋭い左アッパーを突き上げる。
「ボゴォッ!」
重い衝撃が、オーガの顎を容赦なく跳ね上げた。
巨躯が大きくのけ反り、完全に無防備となった胴体がタツヨの眼前に晒される。
タツヨは勝負を決めるべく、次の一撃を叩き込もうと一歩を踏み出した。
だが、その刹那だった。
顎を跳ね上げられ、バランスを崩してのけ反っていた。
そんな、あり得ない体勢からだった。
オーガの必殺の拳が、タツヨの死角である下方から飛び出してきた。
「ッ!?」
タツヨは本能的な反射神経で瞬間的にガードを固めた。
だが、オーガの拳はその構えを怪力で突き破り、無情にもタツヨの顔面を捉えた。
「バチィッッッッ!」
生々しい肉を強打する衝撃音が空気をつんざく。
タツヨの身体が、まるで小石のように後方へ弾き飛ばされた。
砂埃を巻き上げながら数メートル後退する。
それでも、タツヨは足を地面に深くめり込ませるようにして、執念で踏みとどまった。
装甲と両腕でガードしたことが、最後のクッションとなった。
致命傷を負うことも、意識を完全に断たれることも、辛うじて免れていた。
それでも、脳髄を激しく揺さぶられるような衝撃に、タツヨの視界が一瞬真っ白に歪む。
大きく荒い呼吸を繰り返しながら、ふらつく身体を叱咤する。
そして低く身を構え直し、再びオーガを正面から見据えた。
対するオーガは、のけ反っていた巨体をゆっくりと元の位置へ戻していく。
その凶悪な顔には、さらに深い笑みが刻まれていた。
「随分殴ってくれたな。……そろそろ俺の番でいいよな」
大地の底を這うような低い声。
オーガは、そのそびえ立つ巨躯を先ほどよりもさらに深く、大地へと沈ませた。
獣のような双眸に宿る圧倒的な殺気が、物理的な圧迫感となってタツヨの肌をヒリヒリと刺す。
怪物の底知れない「遊び」が、完全に終わった。
そのことを告げる恐ろしい一言が、コロッセオを包む空気の中へ、重く、冷たく溶けていった。
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