第66話:最終決戦の黎明
アズマリアの朝は、かつてない熱気に包まれていた。
断崖の上に築かれた赤い瓦屋根の街並みは、夜明け前から動き出した群衆で埋め尽くされている。石灰岩の白い坂道を、王都中から集まった貴族の馬車と、一攫千金を夢見る労働者たちの足音が激しく叩いていた。
人々の視線は、街の象徴である巨大コロッセオへと注がれていた。
崖の縁にそびえ立つその威容は、海からの強い風を受けながら、龍の彫刻が施された極彩色の石柱を朝日に輝かせている。
大通りには、今日行われる「最終決戦」の組み合わせを記した木札が至る所に掲げられ、それを取り囲む野次馬たちの怒号に近い歓声が響いていた。
「タツヨがオーガと再戦だぞ!」
「死神リュウジィがどこまでやるか、見ものだな!」
屋台からは肉を焼く煙が立ち上り、酒場は朝から開け放たれ、勝利を確信する者たちの賭け金が飛び交う。
最終日を迎えた砂舞台を前に、街全体が巨大な生き物のように脈動していた。
コロッセオの深部にある控え室は、表の喧騒が嘘のように冷え切っていた。
石造りの壁は厚く、観客たちの地鳴りのような歓声も、ここでは低い振動として伝わってくるだけだ。
部屋の中央には、重厚な革張りの椅子が二脚、向かい合わせに置かれている。
リュウジィは深く腰を下ろしていた。
わずかに身じろぎするたび、闇に沈んだ布地に金色の筋が血管のように浮かび上がり、再び消えていく。
その向かいでは、タツヨがガントレットを装着した両拳を、何度も握り込んでは開いていた。
ボクサー特有の鋭い視線が、一点を見つめて動かない。
コロッセオの二階。
一般客の立ち入りが禁じられた回廊の隅で、ピエールは苛立ちを隠そうともせず、何度も足を踏み鳴らしていた。
湿った石壁に、ピエールの荒い鼻息が響く。
目の前に立つ黒装束の骸衆の男は、彫像のように動かない。
その沈黙が、ピエールの神経をさらに逆撫でしていた。
ピエールは男の顔を覗き込むようにして、怒鳴り声を上げる。
「クルシオはどうした! いないのか?」
問い詰められた黒装束の男が、感情の欠落した声で答えた。
「私にもわかりません。それどころか、他の者も数人、姿を消しました」
その言葉を聞いた瞬間、ピエールの顔が怒りでどす黒く変色した。
見開かれた目には血走った筋が浮かび、震える指先で男の胸元を指し示す。
「いないだと? 探せ! 今すぐ探してこい!」
裏返った叫び声が、無機質な回廊を突き抜けて響き渡った。
ピエールは逃げ場のない焦燥に突き動かされるように、何度も激しく床を蹴りつける。
再び、静まり返った闘技場の控え室。
リュウジィは椅子の背にもたれたまま、天井の一点を見つめていた。
その隣では、タツヨが依然として自分の拳の感触を確かめ続けている。
二人を包む空気は、驚くほど静かに凪いでいた。
鉄格子の向こうから、係員の抑揚のない声が届く。
「タツヨ様。お時間です。入場口へ」
タツヨの動きがピタリと止まった。
強く握り込んでいた拳をゆっくりと開き、一度だけ深く息を吐く。
まるで肺の奥に残った空気を、すべて吐き出すように。
椅子から立ち上がると、タツヨは部屋を出る直前、ふと振り返った。
リュウジィに向ける視線は鋭い。
だが、その奥にはどこか温かさがあった。
メタリックブルーに輝くガントレットの拳を、リュウジィへと突き出す。
そして、不敵な笑みを浮かべた。
「バリバリ撃ちまくって、ボコボコに凹まして来るからよ」
リュウジィは天井へ向けていた視線をゆっくりと下ろし、背もたれから身体を離した。
タツヨの突き出した拳を真っ直ぐに見据え、静かに応える。
「ああ! 今日の夜は、また美味い物食べよう」
その言葉を聞き、タツヨは満足そうに短く鼻を鳴らした。
そして、静寂に包まれた部屋を後にする。
独り残された控え室で、リュウジィは再び椅子に身を沈めた。
だが、先ほどまでの静けさは嘘のようだった。
胸の奥をざわつかせる嫌な予感が、冷たい石壁の冷気よりも速く全身を駆け巡り、嫌な汗が背中を伝っていく。
リュウジィはいてもたってもいられず立ち上がった。
音を立てないようにドアを開け、監視の目を盗みながら、影に紛れるように薄暗い廊下を進む。
まだ試合は始まっていない。
地鳴りのような大歓声が漏れ聞こえてくる通路を抜け、リュウジィはタツヨの背中を追って闘技場の搬入口へと急いだ。
闘技場の中央。
強い日差しが照りつける剥き出しの砂舞台の上に、タツヨはポツンと立っていた。
すり鉢状の巨大な観客席から降り注ぐ何万もの視線と、熱病のような歓声が全身を激しく叩く。
だが、タツヨの意識はすでに外の喧騒を完全に遮断していた。
両腕のガントレットは、すでに戦闘用の第二形態へと変貌を遂げている。
滑らかだった装甲は内側からバチバチと弾け、凶悪なまでのトゲが節々の隙間から無数に突き出していた。
砂舞台の反対側から、地響きのような圧倒的な足音と共に、その巨躯が現れる。
身長二メートルに達するオーガ。
青銅色の肌は朝の光を鈍く反射し、全身には、まるで頑丈な鎧を纏っているかのような、不自然なまでの筋肉が隆起していた。
上半身は裸。
下半身には迷彩柄を模した無骨なズボンを穿き、金色のウェーブがかった長い髪を後頭部で厳つく結び上げている。
そびえ立つ断崖のような圧迫感を放ちながら、オーガが不敵に口を開いた。
「久しぶりだな、タツヨ! 今度はちゃんと殺されに来たか?」
オーガの低い嘲笑を受け流し、タツヨは負けじと不敵に笑い返した。
「今日はお前の最強伝説の命日だ」
東の国の厳かな儀礼に則り、純白の白装束を纏った審判が、両者の殺気が渦巻く中央へと割って入る。
その衣服は、高く昇った太陽の光を受け、発光するかのように眩しかった。
審判は、儀式を司る巫子のように片手を高く掲げる。
コロッセオ全体が黄金色の陽光に照らされる。
その手が一気に振り下ろされた瞬間、場内に鋭い開始の笛の音が突き刺さった。
「始めッ!」
直後、アズマリアの青空を震わせる衝撃的な大喝采が炸裂した。
東の国特有の、腹の底を激しく揺さぶるような唸り声が群衆から上がり、万雷の拍手が海の波となって砂舞台へ一気に押し寄せる。
激しく立ち上る砂塵が、猛り狂う観客たちの熱狂に巻かれて龍のように渦巻いた。
その混沌の中心で。
タツヨとオーガは、同時に地を蹴り飛ばした。
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