第64話 アズマリアの騎士団長
地鳴りのような「リュウジィ」コールが、闘技場の重厚な石造りの壁を激しくビリビリと震わせていた。
勝利の興奮で顔を真っ赤に染め上げた観客たちが、身を乗り出すように立ち上がり、狂ったように拳を突き上げている。
その熱狂の渦の中心で、リュウジィは一歩、また一歩と、死闘の返り血の臭いがかすかに漂う花道を静かに、しかし悠然と歩み出した。
背後には、顔面を無残に粉砕され、もはやピクリとも動かないムサシの悲惨な肉塊が転がっている。
その圧倒的な敗北の光景が狂喜する観客たちの目に焼き付くたび、スタジアムを大きく揺らす歓声はさらに高く、激しく、残酷なまでの熱を帯びて果てしなく膨れ上がっていった。
喧騒を完全に遮断する重厚な鉄の扉を抜け、冷え切った薄暗い廊下を渡って静かな控室へと戻る。
ガチャリと扉を開けると、そこには待ちきれない様子のタツヨが立っていた。
「リュウジィ……! やりやがったな!」
タツヨは最高潮の興奮を隠しきれない様子で、力強く拳を握りしめた。
「お前、身体大丈夫か?」
その言葉を聞いた瞬間、世界の輪郭が歪み、目の前がプツリと完全に真っ暗になった。
次に意識が浮上したとき、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。
鼻を突く独特な薬草の苦い香りと、かすかに漂う回復魔法の神秘的な魔力の残滓。
どうやらここは、闘技場に併設された専属の治癒士が常駐する診療所に運び込まれたらしかった。
鉛のように重い身体に気力を振り絞って鞭を打ち、リュウジィはゆっくりと上体を起こした。
ギシリと古い木製のベッドが軋む音が、静まり返った室内に虚しく響く。
全身の関節が錆びついた機械のような激しい痛みを訴えるのに顔をしかめながら、なんとかベッドの端に足を下ろした。
冷たい床の感触が、辛うじて自分がまだこの世界で生きていることを実感させてくれる。
そんなリュウジィのボロボロの様子を見かねて、傍らに控えていた老いた治癒士が優しく声をかけた。
「明日一日休めば何とかなるじゃろ」
そこへ、ドタバタと慌ただしい足音と共に、タツヨが診療所の扉を勢いよく開けて飛び込んできた。
ベッドに腰掛けたままのリュウジィの青白い顔色を見るなり、タツヨは心配のあまり治癒士の胸元へと詰め寄った。
「おやっさん、こいつ大丈夫かよ!」
治癒士はふんと鼻を鳴らし、机の上の散らかった薬瓶を手際よく整理しながら平然と言ってのけた。
「案ずるな。外傷はあらかた塞いだ。今はひどく消耗しとるだけじゃ。一晩眠れば、明日には動けるようになるわい」
その専門家の確かな言葉を聞いて心の底から安心した俺は、限界を超えていた脳を襲う急激な眠気に身を委ねた。
もはや抗う気力すら残されておらず、俺は再び深い眠りの底へと落ちていった。
――場面は変わり、夜のとばりが下りたアズマリア王都の、人の気配のない薄暗い路地裏。
湿った夜気が肌にまとわりつく細い迷宮のような道を、一人の男が警戒するように足早に通り抜けていく。
その後ろを、気配を完全に消し去った一人の歴戦の剣士が音もなく密かに追っていた。
だが、不意に前を歩いていた男がピタリと足を止めた。
振り返ることもなく、男は闇に向かって冷ややかな声を告げた。
「私に何か用ですか? 尾行が下手くそですね」
隠れる意味が完全になくなった剣士は、湿った石壁の深い陰からゆっくりと姿を現した。
左の目尻から頬にかけて不気味に刻まれた古い傷跡を隠すこともなく露わにし、凍てつくような鋭い視線で男の背中を射抜く。
それは王国の守護者、騎士団長バルトロメウスその人であった。
「骸衆の頭領、クルシオだろ? お前は」
「さて、誰のことですか? 人違いじゃないですかね?」
「大人しく、着いてくればそれでよし」
「嫌だと言ったら、どうします?」
「斬る! 他の骸衆も全てな!」
そう低い声で吐き捨てるや否や、バルトロメウスは腰に下げた相棒の長剣を、冷徹な金属音と共に引き抜いた。
華美な装飾を極限まで省いた、汚れなき実戦本位の殺戮の代物。
長年握り込まれた柄の黒革は、持ち主が幾度となく潜り抜けてきた修羅場の体温を吸い込み、底知れぬ黒光りを放つほどに手に馴染みきっていた。
その恐るべき使い込まれた剣先が、闇夜の中で鋭くクルシオの眉間を指し示す。
その一瞬の隙を突いて、それまで物陰に完璧に潜んでいた三人の剣士が音もなく飛び出してきた。
彼らが纏うのは、王宮守護の任に相応しい証である、細かな精巧な彫金が施された青銅製の美しい鎧。
彼らは路地の逃げ道を完全に断つように包囲陣を敷き、冷気を宿した切っ先をクルシオへと一斉に突きつけた。
「なるほど、ヒルデガルド王女が動いたというわけですか」
パッ、とまるで手品師の悪夢のような手並みで、クルシオの両手に不気味に長い暗殺用のダガーが瞬時に現れ、握り締められた。
そしてクルシオが手にしたダガーを持った手が残像を生み出し、幻影のように一本、二本、三本と恐ろしい勢いで分裂して増えていく。
「死にたくない雑魚は引っ込んでてください」
侮蔑の言葉と共に、クルシオは獣のような跳躍でバルトロメウスへと猛然と襲いかかった。
しかし、歴戦の猛者であるバルトロメウスはその鋭い軌道を外さず、迫り来るクルシオのダガーの猛攻を長剣の峰で的確に弾き飛ばしていく。
ガキィィン! キィン! ガシュッ! ギィィィン!
怒涛の金属音が闇を切り裂く。
バルトロメウスも、ただ守るだけではない。
ダガーの目にも留まらぬ連撃を完全に弾き飛ばすと、隙を見逃さず、間髪入れずに鋭い踏み込みからクルシオの胴体を一刀両断すべく斬りつけた。
だが、クルシオは人間離れした身のこなしで真上に高く跳び上がり、その必殺の軌道を軽々と躱した。
「こんなことも出来るんですよ。サンダーウェーブ」
空中からダガーの切っ先を向け、そこから放たれた紫色の暴威を振るう稲妻が、轟音と共にバルトロメウスへと容赦なく降り注ぐ。
だが、バルトロメウスは一歩も引かず、微動だにしない。
押し寄せる逆巻く電光の奔流を真っ向から剣で切り伏せ、撃ち返した。
夜の路地裏が激しい衝撃波と共に真っ白な閃光に染まったが、騎士団長の仁王立ちの構えには揺らぎなど一切存在しなかった。
「ふん! この程度の魔法、戦場でいくらでも経験してるわ!」
今度は形勢逆転とばかりに、バルトロメウスが固いアスファルトの地を蹴り飛ばし、宙を舞うクルシオの高さまで一気に跳び上がる。
「剣技! アーマーバスター!!!」
全身の体重と闘気を乗せて空中で放たれたそれは、文字通り、いかなる鋼鉄の鎧すら粉砕する破滅の一撃だった。
クルシオは咄嗟に二本のダガーを十字に交差させて致命傷を防ごうとしたが、バルトロメウスの放つ圧倒的な剣圧は、その防御の構えをまるで紙屑のように易々と蹴散らした。
ガキィッッッン!!!
鼓膜を破るような激しい金属の悲鳴と共にダガーが粉々に砕け散り、逃げ遅れたクルシオの右腕が鮮血を盛大に撒き散らしながら、闇夜の空中へと舞い上がった。
「ぐ、ああぁぁぁぁっ!」
耐えがたい激痛に絶叫しながら、路地の硬い石畳に叩きつけられたクルシオ。
その致命的な動揺をベテランの騎士は見逃さない。
周囲を完璧に固めていた三人の精鋭騎士が、電光石火の速さで一斉に踏み込んだ。
ドシュッ!
耳障りな鈍い肉を抉る音と共に、冷酷な青銅の切っ先が、残されたクルシオの両手足を次々と容赦なく貫き、冷たい石畳の地面へと完全に縫い付けた。
「ぎぃ、ぁ……あ……!」
もはや指一本すら動かすことのできない絶望的な敗北の状況の中、バルトロメウスが返り血の滴る剣を無造作に一振りして血糊を払い、冷徹な死神の如く見下ろすように歩み寄った。
「暗殺一族か何か知らんが、所詮はコソコソした戦い方しか出来ないお前らに、俺が負けるわけないだろ。安心しろ。今は殺しはしない。聞きたいことがあるからな」
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