第63話 屠殺の二刀流 vs 深紅の波動
闘技場全体を包み込んでいた地響きのような大歓声が、一瞬にして嘘のように消え去った。
数万人の視線が集まる中、審判が緊張に引きつった右手を静かに、しかし一分の迷いもなく力強く振り下ろす。
「……始めッ!!」
その張り詰めた合図の瞬間、狂気と血に彩られた殺戮の宴の幕が切って落とされた。
一瞬の隙もなく抜き放たれた村雨ブレードが、凍てつくような青白い輝きを放つ。
そこから放たれる底知れぬ殺気が、リュウジィの研ぎ澄まされた直感を暴力的に叩いた。
この刃に不用意な接近を許せば、次の瞬間には我が身が細切れの肉片に変わる――本能がそう絶叫していた。
リュウジィは足の親指に全神経を集中させ、闘技場の乾いた砂をしっかりと掴む。
自分の鼓動と、砂を踏みしめる微かな音さえ響き渡りそうな張り詰めた静寂。
その中で、ジリジリと、しかし一歩も引かない確かな意志を持って、狂戦士ムサシの死の間合いへと足を踏み入れていった。
「――ッ!」
その瞬間。
ムサシの身体が音もなくぶれた。
視界の端を青白い閃光が走る。
右腕から放たれた強烈な袈裟斬りが、リュウジィの左肩口を正確に狙って迫った。
あまりの神速に、大気を引き裂く轟音さえ遅れて耳朶を打つ。
リュウジィは脊髄反射の極みで、内功の爆発的なエネルギーを両脚へ集中させた。
瞬時にムサシの懐へ。
死角となる左斜め前方へと鋭く踏み込み、その致命的な一撃を紙一重で躱す。
だが、最初の袈裟斬りを放った勢いは、寸分たりとも殺されていなかった。
今度はムサシの左手に握られた、もう一本の村雨ブレードが予測不能の死角から迫る。
足元からすべてを切り裂くような軌道で、リュウジィの胴体を狙って容赦なく斬り上げてきた。
ヒュンッ!!
鼻先をかすめた刃の冷気が皮膚を裂く。
反射的に上体を大きく後ろへ反らせ、どうにか間合いを切って躱しきった。
側頭部を、一筋の冷や汗がタラリと伝い落ちる。
今度は完全に主導権を握ったムサシが、怒涛の踏み込みを見せた。
あらゆる死角、あらゆる角度から、無数の斬撃が飛来する。
リュウジィは荒れ狂う刃の嵐から逃れるように後退し、必死に身をかわした。
だが、追撃の鋭さに耐えきれず、硬い地面へ無様に転がりながら、再び決死の距離を取る。
一息つく間もない。
再びムサシが爆発的に踏み込んだ。
右手の村雨ブレードが、冷酷な袈裟斬りを振り下ろす。
その刹那の隙を逃さず、リュウジィは前へ踏み込んだ。
狂気のブレードを握るムサシの手首を、下から突き上げる前手で力強く跳ね上げる。
続く左手のブレードによる追撃を封じながら、相手の体勢を強引に崩しにかかった。
「砲拳!」
ズドォッ!!
狂気に満ちたムサシのがら空きとなった右側腹部に、大地を穿つような下からの強烈な突きが炸裂した。
凄まじい衝撃に、ムサシの身体が激しく弾き飛ぶ。
闘技場の砂を削りながら後方へと滑っていったムサシは、もうもうと舞い上がる砂煙の中から、すぐさま体勢を立て直した。
跳ね上げた前手を守るファフニールの黒い袖口から、熱を帯びた鮮烈な血が一筋、タラリと流れ落ちる。
ムサシは闘技場の砂に吹き飛ばされるその瞬間、崩れかけた体勢のまま左手のブレードで、リュウジィの手首を斬りつけていたのだ。
ファフニールの衣装自体には傷一つついていない。
だが、ムサシの斬撃が持つ圧倒的な殺傷エネルギーは衝撃として伝わり、リュウジィの肉体へ確実にダメージを与えていた。
(大丈夫。動く)
痺れる腕の痛みを気力でねじ伏せ、リュウジィは歯を食いしばる。
今度はムサシが、両手に握りしめた二本のブレードを不気味に回転させながら、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。
呪われた二刀が、怨念のうめき声を上げるように激しく唸った。
上段。
下段。
そして横薙ぎ。
あらゆる空間を封鎖するような、逃げ場のない神速の斬撃が次々と飛んでくる。
リュウジィは得体の知れない殺気を放つムサシを中心に、危うい円を描くような高速軌道で走り抜けた。
一瞬たりとも気を抜けない猛攻を、紙一重で躱し続ける。
その極限の攻防の最中。
ムサシの左手首が横から不意を突き、リュウジィの首筋を薙ぎ払おうとした。
リュウジィはその好機を逃さない。
目の前に差し出されたムサシの左手首を、両手でガシッと力強く掴み取る。
拘束した腕を軸に、一気に懐へ引き込む。
完全にがら空きとなった胴体へ、すべてを叩き込むストレートの崩拳を放とうとした。
まさに、その瞬間だった。
背筋を凍らせる悪寒が走る。
ムサシの右手に握られたもう一本のブレードが、下から天井へ向けるような軌道で、リュウジィの首を刎ね飛ばすべく斬り上げてきた。
(ヤバい、躱せない!)
反射神経の限界を超え、リュウジィは咄嗟に左腕を盾のように突き出した。
その死の斬撃を、骨が鳴るほどの力で無理やり受け止める。
キイィィィィッッ!!
甲高い金属摩擦音が耳を突き刺した。
刃がぶつかった反動を利用し、リュウジィは大きく真横へ跳ぶ。
強引に死の間合いから脱出した。
斬撃を受け止めた左腕のファフニールの袖口から、鮮やかな赤い血がぽたぽたと静かに流れ落ちていく。
リュウジィは肺の奥に残った空気をすべて吐き出した。
深く、そして長く呼吸を整える。
そして。
全身に巡る内功による肉体強化の制限を、一気に完全解放した。
「かああああああああっ!!」
これまで闇夜のように漆黒だったファフニールのチャイナ服が、内側から噴き出す圧倒的なエネルギーによって激しく染め上げられていく。
漆黒は消え去った。
すべてを焼き尽くすような、燃える深紅のチャイナ服へと劇的な変貌を遂げる。
スタジアムの観客席から、地響きのような歓声が響き渡った。
そして、それに応じるかのように。
対峙するムサシの異形にも、恐るべき変化が訪れた。
それまで青白く禍々しく輝いていた二本のブレードが、吸い込まれるように完全な漆黒へ染まっていく。
さらに。
ムサシの両目から、生気がすっかり失われた。
瞳は光を失い、真っ白な白目へと変貌していた。
(行くぜ)
覚悟を決めたリュウジィは、先ほどまでとは次元の違う速度で大地を蹴り飛ばした。
一気に勝負を決めるべく、間合いを極限まで詰める。
白目と化した狂気の人形、ムサシ。
その機動力もまた、先ほどより一段と跳ね上がっていた。
だが。
深紅の闘気へと進化した今のリュウジィには、そのすべての刃の軌跡がはっきりと見えていた。
殺意の斬撃を最小限の動きで紙一重に躱す。
そして、生まれたわずかな隙を絶対に逃さない。
硬質化させたヒイロカネを仕込んだ靴の先端で、ムサシの無防備な脛を鋭く削るように蹴り抜いた。
そのままの勢いで。
骨ごとグシャリと踏み折る。
ザシュッッッ!
肉が裂け、骨が砕ける生々しい破壊音が闘技場に響き渡った。
しかし、常軌を逸したムサシは折れ曲がった脚の痛みなど意に介さない。
完全にバランスを崩しながらも、底知れぬ執念で漆黒のブレードをリュウジィへと斬りつけてくる。
リュウジィはためらうことなく、さらにムサシの懐へ深く踏み込んだ。
その顔面をめがけて。
下から上へとえぐるように突き上げる、怒涛の螺旋の拳を叩き出す。
全身に纏った内功の気が、激しい炎の渦となって噴き上がる。
突き出した拳が周囲の空気を猛烈に削りながら、凄まじい回転を遂げた。
「鑽拳!!」
バチィッッッッ!!!
耳をつんざく爆裂音がスタジアムを揺らす。
燃え盛る炎を纏った鉄拳が、ムサシの顔面を完璧に捉えた。
ムサシの肉体は砲弾のような速度で後方へと吹き飛び、闘技場の頑丈な石壁へものすごい勢いで叩きつけられる。
背中に致命的な衝撃を受けたムサシは、跳ね返る力すら残されていなかった。
そのまま前のめりに、ぐにゃりと倒れ伏す。
だが。
呪いに憑かれたムサシは、それほどの致命傷を受けてなお、操り人形のようにガクガクと身体を震わせながら立ち上がった。
顔面の右側は、先ほどの鑽拳の凄まじい破壊力に耐えきれず、無残に砕けていた。
頬骨は大きく陥没し、裂けた皮膚から大量の鮮血が流れ出す。
顔の半分は、血で真っ赤に染まっていた。
白目と化した瞳の周囲からも血がツーっと垂れ落ち、まるで血の涙を流しているかのような異様な姿を作り出している。
すでに折れ曲がった脚の痛みも。
顔面を砕かれた激痛すらも。
すべて脳から抜け落ちてしまったかのようだった。
肉体は限界を遥かに突破し、無残によろめいている。
それでもなお。
ムサシは二本のブレードをめちゃくちゃに振り回しながら、リュウジィへと這うように近づいてくる。
その足取りに、もはや先ほどまでの速度はない。
ただ狂気だけに突き動かされ、バタバタと暴れている痛々しい亡者のようだった。
リュウジィは静かに歩み寄る。
圧倒的な威圧感を放ちながら。
燃え盛る炎を両の掌に纏い、崩れかけたムサシの胸元へ最後の一撃を叩き込んだ。
「劈拳!」
バンッ!
空気を激しく爆ぜさせるような乾いた破裂音。
ムサシの身体はコマのように激しく回転しながら大きく吹き飛び、硬い砂の地面へと転がった。
そして。
ついに一切、動かなくなった。
しんと水を打ったように静まり返った巨大な闘技場。
勝負を決した瞬間、圧倒的な空白が生まれる。
完全に沈黙した敗者の姿を、審判が息を呑みながら確認する。
そして。
勝利を告げるように、右腕を天高く振り上げた。
「勝者……リュウジィッ!!」
その瞬間。
大地の底から湧き上がるような歓声が、闘技場全体を揺らした。
「うおおおおおおおおっ!」
「リュウジィ! リュウジィ!!」
「あのムサシを……あの怪物を自分の手で沈めやがった!」
興奮の極みに達した観客たちは総立ちになった。
空に向かって拳を突き上げ、喉が引き裂けるほどの絶叫を上げる。
数万人の足踏みによって生まれた地響きが闘技場全体を揺らし、熱狂という名の巨大な嵐が観客席を飲み込んだ。
全身に深紅の波動を纏ったまま。
リュウジィは静かに両の拳を下ろした。
四方八方から降り注ぐ熱狂をその身に浴びながら、彼はただ、目の前で二度と動かなくなったかつての強敵を、複雑な瞳で見つめ続けていた。
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