第61話:一等当選とショクアンの記憶
熱狂の渦に包まれた闘技場を後にし、リュウジィは中心街の夜の喧騒から少し離れた場所にある、隠れ家のような一軒の店を訪れていた。
使い込まれた木製の扉をそっと開ければ、そこには、さっきまでの砂埃と絶叫が嘘のように消えた、静かで落ち着いた空間が広がっていた。
柔らかな琥珀色の灯りがテーブルを照らし、店内には香ばしく焼かれた肉と、食欲をそそるスパイスの香りが満ちている。
この店は、気の利くタツヨがあらかじめ手配してくれていた場所だった。
今や闘技大会の優勝候補として注目を集めるタツヨとリュウジィが、普通の食堂で食事をしようものなら、あっという間に人だかりができてしまう。
今日の戦いを振り返りながら、落ち着いて話をするには、こうした人目を避けられる場所が必要だった。
丁寧な物腰の給仕に案内され、リュウジィは店の一番奥にある静かな個室へ入った。
清潔なリネンが敷かれたテーブルの上には、磨き上げられたカトラリーが並んでいる。
上質な椅子に腰を下ろし、リュウジィは張り詰めていた緊張を解くように、深く息を吐いた。
やがて、大きな鉄板皿が次々とテーブルへ運ばれてくる。
ジュージューと音を立てる厚切り肉。
色鮮やかな温野菜。
二人はグラスを交わし、ゆっくりと食事を始めた。
静かな個室に、ナイフとフォークが皿に触れる音が響く。
そして、今日の戦いを振り返るように、二人は少しずつ本音を語り始めた。
「本当かよ! あの白野郎がそんなこと言ったのか」
俺がカイロスとのやり取りを話すと、タツヨは手にしていたフォークをピタリと止め、大きな声を上げた。
「神様の宝くじを大切にしろって言われたよ」
俺が苦笑交じりにそう答えると、タツヨは不敵にニヤリと笑い、分厚く切られた肉を豪快に口へ放り込んだ。
「確かに神様の宝くじには当たってるな」
肉を飲み込み、タツヨは少し遠くを見るような目をした。
「日本チャンピオンになって、六度目の防衛戦まで勝ち抜いた。次に勝てば世界挑戦が決まる試合で負けて、それからもボクシングから離れられず、負けが続く噛ませ犬ボクサーとして燻ってた頃に比べたら、今の人生は間違いなく一等当選だな」
そして、口元をわずかに緩める。
「ラーメン二郎がないのがキツイけどな」
タツヨは愉快そうに笑いながら、グラスのワインを喉へ流し込んだ。
その目には、遠い日本で過ごした苦い日々を、どこか懐かしむような色が浮かんでいた。
「身体の具合はどうだ?」
友を気遣うタツヨの問いに、俺は自分の右腕を軽く動かしながら答えた。
「紹介してくれたヒーラーに診てもらったら、すぐ治ったよ。回復魔法をかけてもらったのは、この世界に来て二回目だけど……やっぱり魔法って凄いな」
「俺も転生して来た時にそう思ったよ」
タツヨは苦笑する。
「俺の場合、転生したのがここ、アズマリアで良かったけどな。俺も武道家スキルなんだけど、他所の国じゃ完全なハズレスキル扱いなんだろ?」
タツヨがバツの悪そうに肩をすくめると、俺も自分の境遇を思い出して思わず笑った。
「そうそう。俺なんて最初、ショクアンってところでボロカス言われたよ」
「何がショクアンだよ。職安だろ? みたいな」
「笑わせんなよ」
タツヨが吹き出す。
「ここは闘技大会が盛んだから、そこまで酷いことは言われなかったけどな。でも窓口で、『できる仕事は力仕事と闘技場の剣闘士くらいですね』って淡々と言われたよ」
タツヨは空になったグラスを軽くテーブルへ置き、窓の外の夜空を眺めた。
日本という同じ国から、この異世界へ放り出された二人。
そして異世界の「ショクアン」という理不尽な窓口で、似たような扱いを受けていた。
その妙な共通点に、二人は言葉にせずとも、どこかで深い連帯感を覚えていた。
――だが、二人のそんな穏やかな時間とは遠く離れた、アズマリア王宮の暗がりで。
世界を揺るがす、もう一つの運命の歯車が静かに動き始めようとしていた。
アズマリア王国、厳粛な王宮の最奥。
高い天井から吊るされた無数のクリスタルのシャンデリアが、広大な謁見の間を冷たく照らしている。
その中央。
若き王女ヒルデガルドの玉座の前に、一人の男が深く跪いていた。
周囲の絢爛な装飾すら霞むほどの、圧倒的な存在感。
王国最強の騎士団長。
バルトロメウス。
彼が身に纏う胸当てには、数多の死線を潜り抜けてきた証である無数の傷が刻まれていた。
丁寧に磨かれてはいる。
だが、新品の鎧には決してない、実戦を潜り抜けた鉄だけが持つ重く鈍い光沢が残っていた。
腰に下げた長剣もまた、華美な装飾とは無縁の実戦本位の武器だった。
長年握り続けられた柄の革は黒ずみ、持ち主の手に完全に馴染んでいる。
微動だにしないその背中からは、生半可な者を近づけない、歴戦の戦士だけが持つ乾いた闘気が静かに漂っていた。
「バルトロメウス。命じます」
玉座に座るヒルデガルドが、静かに口を開いた。
「大臣ピエールサバンの陰謀を白日の下にさらさねばなりません」
その声音には、王女としての強い決意が宿っていた。
「大臣が密かに雇っている暗殺一族、『骸衆』。その者たちの中から、誰でも構いません。生け捕りにしてこちらへ連れて来るか、あるいは捕らえ、拷問してでも大臣との関係を吐かせなさい」
ヒルデガルドの峻烈な命令を、バルトロメウスは表情一つ変えずに受け止めた。
左目の目尻から頬にかけて刻まれた古い傷跡が、揺れる灯りの中でわずかに動く。
「……御意」
バルトロメウスが低く答えた。
「このバルトロメウス、命に代えましても」
それは、大地を這うような深く低い声だった。
謁見の間を退出したバルトロメウスは、静まり返った石造りの回廊を歩いていく。
その足音は、一定の拍子を刻んでいた。
迷いという感情の欠片すら感じさせない歩みだった。
少し離れた控えの間で待機していた若い騎士が、団長の醸し出すただならぬ空気に、思わず息を呑む。
若い騎士が身に纏う純白の鎧は、王宮を守る騎士に相応しい美しい彫金が施された、真新しいものだった。
腰に下げた剣も、血の匂いを知らない儀礼用のような輝きを放っている。
だが、その整った装備さえも。
目前を歩く老騎士が纏う本物の「実戦」の空気の前では、どこか頼りなく見えた。
若い騎士は冷や汗を浮かべながら、急いでその背中を追いかけた。
「何かありましたか? バルトロメウス様」
声をかけられても、バルトロメウスは歩みを止めなかった。
ただ真っ直ぐ前を見据えたまま、短く答える。
「骸衆を狩るぞ」
あまりにも短い言葉だった。
だが、その一言には、一切の情けがなかった。
今から狩られる者たちの運命は、すでに決まった。
そんな冷酷な響きを残しながら、老騎士の足音は静まり返った夜の回廊の奥へと消えていった。
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