第60話 神様の宝くじ
完全に静まり返った闘技場の中心で、カイロスは純白のローブを冷たい風にはためかせながら、砂煙の向こうから投げかけられたリュウジィの問いに、どこか余裕を感じさせる口調で答えた。
「転生者というより、転生させた側の人間……といったところですかね」
「なに?」
あまりにも予想外の答えに、リュウジィは思わず声を上げた。
「でも、転生して良かったでしょう? 借金を抱えたまま燻っていた人生から、この世界では趣味でやっていた形意拳を思う存分に使える。店も経営して、仲間にも恵まれた。むしろ感謝してほしいくらいです」
無機質な光を反射するベネチアンマスクの奥から発せられるその声は、どこまでも穏やかだった。
だが、その言葉は容赦なくリュウジィの心を突いていた。
(確かにそうだ。理由を聞いたところで、現世に帰りたいかと言われたら……答えはノーだ)
「お前の言う通りだ。現世に比べれば、今の人生は最高だよ。だけど……なぜ俺を転生させた?」
リュウジィが低く問い返すと、カイロスはくすりと笑った。
「理由なんて必要ありますか? まあ、あなたの世界で言うなら……『神様の宝くじ』に当たったとでも思ってください」
一度、言葉を切る。
「――記憶と引き換えの代償にね」
カイロスは、残酷な真実をまるで天気の話でもするかのように淡々と口にした。
「今回は監視の意味も含めて来ました。転生させた人間が、この世界に災いをもたらしていないか確認するためです」
そして、わずかに首を傾ける。
「ところで、どうしたんですか? 形意拳は打撃系武術の最高峰とも言われているのでしょう? ……そんなものですか」
どこまでも穏やかな口調のまま、カイロスはあからさまな挑発を口にする。
リュウジィは、痺れを逃がすように震える自分の腕を見やった。
(蹴りを受けた腕がまだ痺れている。だけど……行くしかない)
乱れた呼吸を無理やり整え、練り上げた内功による身体強化をさらに限界まで高めていく。
それに呼応するように、全身と一体化したファフニールの力が肉体の隅々まで浸透していった。
(勁力を少し落として、細かく撃ってみるか)
一撃の破壊力だけに頼るのではない。
手数と圧倒的な速度で、相手を崩す。
「行くぜ!」
リュウジィが闘技場の床を深くえぐるように蹴り、一気に死の間合いへと踏み込んだ。
「劈拳!」
目にも留まらぬ速さで放たれる怒涛の二連撃。
だが、死角なしに放ったはずの二発目。
その手首を、カイロスのしなやかな手が待ち構えていたかのように正確に捉えた。
リュウジィは即座に、掴まれた腕をテジマルのように激しく跳ね上げ、強引に拘束を振り払う。
その遠心力を利用し、追撃の突きを叩き込もうとした。
その刹那だった。
跳ね上げた手首を、今度は逆に完璧に掴まれる。
同時に、鋭い足払いが下段へと放たれた。
視界が激しく反転する。
リュウジィの身体は空中で一回転し、硬い地面へと激しく叩きつけられた。
さらに、背中が砂塵の床を打つのとほぼ同時。
がら空きとなった胸部へ、冷酷な掌打が容赦なく突き刺さる。
「ぐはぁっ!」
肺の奥底から空気が強制的に押し出され、視界に強烈な火花が散った。
カイロスの追撃を免れるように、リュウジィは本能のまま横へと転がる。
ザラついた砂が口の中に入り込む。
ふらつく足で立ち上がり、痛む身体を引きずるように距離を取った。
(……っ、ダメージがデカい)
胸部全体を圧迫する鈍い痛み。
呼吸が制御を失い、激しく乱れる。
一方のカイロスは、受けたダメージなどまるでどこ吹く風とばかりに、変わらぬ陽炎のような動きを続けていた。
(どうする……どうしたらいい!)
攻略の糸口が見えない。
底知れぬ焦燥感に、リュウジィの思考が激しく空転していく。
その極限の瞬間。
脳内の深い場所から、ファフニールの重厚な念話が直接響き渡った。
『落ち着け。力はこちらが上だ』
リュウジィの意識が、その声に引き戻される。
『奴の着ているのはホワイトフェンリルのローブ……返し技に特化した代物だ』
そして、低く告げた。
『我に委ねろ。――攻め潰す』
その声と同時に。
まるで身体そのものが一つの巨大な心臓へと変貌したかのような、強烈な鼓動が肉体の芯から響き渡った。
ドクン。
ドクン。
ドクン!
常人なら耐えられないほどの凄まじい熱量が、血管という血管を暴力的に駆け巡る。
全身を包んでいた漆黒の闘気が、次第に深紅へと変わっていった。
その人間離れした圧倒的な波動に、静まり返っていた観客席から再び大きなどよめきが沸き起こる。
リュウジィが、再び地を爆発的に蹴った。
その突撃の軌跡は、もはや人間の動体視力を超えている。
赤と金色の残像だけを闘技場に残し、リュウジィの身体が疾走した。
「おおおおおっ!」
魂を震わせる咆哮とともに、すべてを焼き尽くすような闘気を拳に集中させる。
「鑽拳!!」
下から大地を穿つように突き上げる螺旋の拳が、カイロスへと容赦なく襲いかかった。
だが、カイロスはその超常的な威力すら、柳の枝のようにしなやかに身体をくねらせて受け流した。
完璧な柔の動き。
すべての力が逃がされる。
そして、再びリュウジィの足が払われた。
またしても視界が反転する。
空中で一回転させられるリュウジィ。
だが、今の彼は先ほどまでとは違った。
研ぎ澄まされた戦闘本能が、完全に覚醒している。
逆さになった視界の先。
追撃を仕掛けようとするカイロスの動きを、その両目が捉えた。
(今だ……!)
空中で体勢を崩しながらも、全身全霊の力を右拳の一点へと集中させる。
これ以上ない最短距離。
最短の軌道。
「崩拳!!」
ドゴォォォォンッッ!
大気そのものを震わせる凄まじい衝撃音。
リュウジィの拳が、真っ向からカイロスの懐へと突き刺さった。
いかに卓越した返し技の使い手であっても、空中から突然放たれた予測不能の一撃までは捌ききれない。
純白のローブを纏ったカイロスの身体が、紙屑のように後方へと弾き飛ばされた。
砂煙を巻き上げながら一直線に吹き飛び、そのまま闘技場の壁際まで押し込まれる。
リュウジィは地面に激しく転がりながらも、すぐさま立ち上がった。
そして、一瞬の息もつかせぬ速度で壁際のカイロスへと追撃を仕掛ける。
「虎形拳!!」
業火のような闘気を両掌に纏い、猛虎の牙を思わせる連撃がカイロスへと襲いかかる。
カイロスは、先ほどの崩拳をまともに受けた腹部を片手で押さえながら、すんでのところで攻撃をかわした。
ズドォォォォンッ!!
空振ったリュウジィの両掌が、闘技場の分厚い石壁を捉える。
耳を塞ぎたくなるような轟音。
石壁が蜘蛛の巣状にひび割れ、原形を留めないほど粉砕された。
それでもリュウジィは攻撃の手を緩めない。
砕けた石の破片が乱れ飛ぶ中、すぐさま身を翻し、さらなる追撃の崩拳を叩き込む。
バチィィィッ!
カイロスは瞬時に両掌を十字に重ね、その一撃を受け止めた。
だが、殺人的な衝撃を殺しきれない。
勢いに押され、自ら後方へと大きく跳んだ。
その身体は、闘技場の中央付近まで弾き飛ばされる。
リュウジィが、今度こそ畳み掛けようと鋭く一歩を踏み出した。
まさに、その時だった。
「はい、降参! 負けました!」
突如としてカイロスが両手を真っ直ぐ高く掲げ、あっけらかんと大声で叫んだ。
あまりにも唐突な幕引き。
怒号と狂乱の歓声に包まれていた観客席が、一瞬にして水を打ったように静まり返る。
誰もが呆気に取られた表情のまま、闘技場の中心を見つめていた。
「どうやら、あなたの力に悪意はないようですね」
カイロスは、いつもと変わらぬ穏やかな口調で続ける。
「神様の宝くじを、大切にしてください」
そして、付け加えた。
「タツヨさんにも伝えてください。神の意にそぐわない行動をした場合は……ごっつ盛り人生に戻しますよ」
最後に、軽く手を振る。
「それでは。またお会いしましょう」
カイロスは一方的に言いたいことだけを告げると、背を向けた。
「ちょっと待てよ! 勝負、ついてねえだろ!」
逃がすまいとリュウジィが声を張り上げる。
しかし、カイロスは振り返りもしない。
そのまま悠然とした足取りで、何事もなかったかのように闘技場を去っていった。
「……勝者、リュウジィ!!」
呆然とする空間に、ようやく審判の乾いた声が響き渡った。
だが、四方から沸き起こる歓声も、今のリュウジィの耳には届いていなかった。
リュウジィは、深紅の異様な熱が急速に引いていく自分の拳を、ただじっと見つめる。
勝った。
確かに、勝者は自分だ。
それなのに。
胸の奥には、言葉にできないモヤモヤとした感情が残っていた。
(ごっつ盛り人生、か……)
カイロスが残した、あのふざけた言葉を思い返す。
そして、ゆっくりと拳を握りしめた。
(勝負はまだついてねえ)
未だに痺れの残る両腕に、さらに力を込める。
(次は必ず、あのヘラヘラした仮面を真っ向からブチ割ってやる)
誰かに勝手に決められた不条理な運命なんて、知ったことか。
俺の人生は、俺の意志で決める。
現世で味わったやり場のない失敗を、もう二度と繰り返さない。
そんな意地を胸の奥に深く刻み込み、リュウジィは熱く昂った呼吸をゆっくりと吐き出した。
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