第6話 静かな異変
静まり返った店内で、俺は自分の掌を見つめていた。若返った手が、熱を持っている。
心臓の音が早い。正直、引いていた。ずっと趣味で頭の中で繰り返してきただけの動きだ。
前の世界じゃ一度も使ったことのない代物だ。それが、この体とスキルの補正が加わっただけで、あんなに簡単に人間をぶっ飛ばす武器になるなんて。
(これが……力か)
……いや、浸ってる場合じゃない。めちゃくちゃに壊れた店内の惨状を見て、一気に頭が冷えた。
「……悪い、親父さん。店をめちゃくちゃにしちゃった。怪我はないか?」
俺は構えを解き、親父さんに駆け寄った。とにかく、この状況がまずいということしか頭になかった。
「……何言ってんだよ。お前、娘と俺を守ってくれたんだろ。店なんて板を打ち付ければすぐ直る。……それよりお前、一体何者だ? まるで、どっかの軍神が乗り移ったみたいだったぞ」
「そんなこと言われても、必死だっただけだ。……それより俺、絶対まずいことをしたよな。これから親父さんと店が面倒なことにならないか? あいつら絶対仕返しに来るだろ」
「いや、そうとも限らんぞ」
親父さんは這い上がり、俺の肩を叩いた。
「騎士団の連中はプライドの塊だ。今日のことは『酔っ払いの揉め事で怪我をした』とでも処理するはずだ。
あいつらだって解雇は怖いはずだからな。それに、もし店に嫌がらせで何度も来るようなら、村人も騒ぐしな。週に一度来る配達人の『サガーワ』に王都宛の手紙を出せば、国直属の『調査兵団』がやって来る。
あいつらもそれは避けたいはずだ
「調査兵団……。一番おっかねぇ連中だ」
(……どこも似たようなもんだな。それにしてもサガーワって?佐川急便のパクリか?……ふろむ・えーと言いふざけてる、この世界)
少しだけ肩の荷が下りた気がした。その時、横からスッと温かい手拭いが差し出された。
娘のミーナだ。彼女はまだ少し震える手で、俺の右拳を指差した。
「……あの、これ。使って。血が付いてる……汚いですよ」
「あ、どうも」
彼女は、俺の手を包むようにして、手拭いで丁寧に拭き始めた。一本一本まで、丁寧に。なんか照れくさいな、と思った。
「ありがとうございました。私……怖くて。リュウジィさんが前に立ってくれた時、本当に……神様に見えました」
「……大げさだよ。ただ運が良かっただけだ」
俺が返すと、彼女はふふっ、と少しだけ年相応の幼い笑顔を見せた。その笑顔が、さっきまでの殺伐とした空気を、すっと溶かしていった。
「お父さん。リュウジィさん、まだお腹空いてますよね? 私、もう一杯用意してくる。今度は……邪魔されないように」
ミーナが厨房へ消えていく。親父さんの名前はドナド、46歳。奇遇にも転生前の俺と同じ年齢だ。俺が19歳の体で、この男と同い年か。なんとも妙な話だと思った。
食後、親父さんの配慮に甘え、俺は二階の空き部屋を使わせてもらうことにした。
一人になると、さっき騎士を殴り飛ばした時の、あの妙な感触が頭を離れない。俺は暗い部屋の真ん中に立ち、ただ静かに、自分の掌を握り直してみた。
(神様に見えた、か。)
(……さっきの感触。あれは一体何だったんだ)
俺は立ち上がり、呼吸を整えた。深く、長く。それだけだ。
前の世界でも同じことをやっていた。寝る前に、なんとなく。
健康にいいと聞いたから続けていた、それだけの話だ。
だが、何かが違った。
息を吸うたびに、体がわずかに重くなる。地面に引っ張られるような感覚。足の裏が、床に根を張っていくような。
(……なんだ、これ)
試しに拳を握った。さっきまでと同じ手のはずなのに、握った瞬間、何かが詰まっている感じがした。中身が、増えたような。
そのまま壁に向かって、ゆっくりと突き出してみた。
音がした。
拳が止まる前に、空気が鳴った。
(……俺、何もしてないぞ。ただ息を吸って、突いただけだ)
体が、さっきより速い。さっきより重い。息を吸うたびに、それが増していく。
うまく言葉にならない。ただ、怖いとは思わなかった。
リュウジィはまだ、はっきりとは気づいていない。この世界では魔術士は自分自身に身体強化の魔法はかけられない。その「身体強化」を、この呼吸法が、彼独自のエネルギーの循環として成立させていることに。
(この感覚……。三日もやれば、体になじむかな)
俺はスッと、構えを取った。足の裏が床に吸い付くような、妙に安定した感覚。体の軸が、ぴたりと定まる。
(三日後の闘技場。相手は誰だろうと、やってやるよ)
俺は深い呼吸を続けながら、夜明けまで拳を突き出す動作を繰り返した。
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