第6話 静かな異変
静まり返った店内で、俺は自分
の掌を見つめていた。
若返った手。
細く、張りのある指。
その掌が、まだ熱を持っている。
心臓の音がやけに大きい。
ドクン、ドクン、と耳の奥まで
響いてくる。
正直、引いていた。
さっきまで目の前にいた男が、今は壁際で動かない。
その光景が、何度も頭の中で再生される。
ずっと趣味で頭の中で繰り返してきただけの動きだ。
前の世界じゃ、一度も使ったことのない代物だった。
それなのに。
この体とスキルの補正が加わっただけで、あんなにも簡単に人間をぶっ飛ばす武器になる。
自分の拳が、自分のものではなくなったような気さえした。
(これが……力か)
拳をゆっくり握る。
指の関節が軋む。
その感触を確かめるように、何度か開いては閉じた。
……いや。
浸ってる場合じゃない。
視線を上げる。
そこには、さっきまで食事をしていた店の面影がほとんど残っていなかった。
倒れた椅子。
散乱した食器。
傷ついた壁。
床には料理や酒がぶちまけられている。
一瞬にして、頭の中が冷えた。
「……悪い、親父さん。店をめちゃくちゃにしちゃった。怪我はないか?」
俺は構えを解いた。
さっきまで張り詰めていた身体から、少しずつ力を抜く。
そして、倒れた親父さんのもとへ駆け寄った。
とにかく、この状況がまずい。
そのことしか頭になかった。
「……何言ってんだよ。お前、娘と俺を守ってくれたんだろ。店なんて板を打ち付ければすぐ直る。……それよりお前、一体何者だ? まるで、どっかの軍神が乗り移ったみたいだったぞ」
親父さんは腹を押さえながらも、俺を責める様子はなかった。
むしろ、その目には驚きと戸惑いが入り混じっている。
「そんなこと言われても、必死だっただけだ。……それより俺、絶対まずいことをしたよな。これから親父さんと店が面倒なことにならないか? あいつら絶対仕返しに来るだろ」
殴った瞬間の感触が、まだ拳に残っている。
あれだけの騎士を、一撃で吹き飛ばした。
いくら正当防衛だったとしても、相手は騎士団だ。
嫌な予感しかしない。
「いや、そうとも限らんぞ」
親父さんはゆっくりと身体を起こした。
痛そうに顔をしかめながらも、
俺の肩をぽんと叩く。
「騎士団の連中はプライドの塊だ。今日のことは『酔っ払いの揉め事で怪我をした』とでも処理するはずだ。
あいつらだって解雇は怖いはずだからな。
「それに、もし店に嫌がらせで何度も来るようなら、村人も騒ぐしな。週に一度来る配達人の『サガーワ』に王都宛の手紙を出せば、国直属の『調査兵団』がやって来る。
あいつらもそれは避けたいはずだ」
親父さんの説明を聞きながら、
俺はようやく少しだけ肩の力を
抜いた。
なるほど。
この世界にも、それなりの面倒事を抑える仕組みはあるらしい。
「調査兵団……。一番おっかねぇ連中だ」
親父さんが妙に真剣な顔で言うものだから、俺も思わず頷いてしまう。
(……どこも似たようなもんだな。それにしてもサガーワって?佐川急便のパクリか?……ショクアンと言いふざけてる、この世界)
……なんというか。
異世界に来たという実感が、いまひとつ湧かない。
少しだけ肩の荷が下りた気がした。
その時だった。
横から、すっと温かい手拭いが差し出された。
ミーナだった。
さっきまでの恐怖がまだ残っているのだろう。
その手は、ほんの少し震えていた。
彼女は俺の顔を見る。
それから、視線をゆっくりと右拳へ落とした。
赤く染まった拳。
そこに付着した血を見つめたまま、ミーナは小さく息を呑んだ。
「……あの、これ。使って。血が付いてる……汚いですよ」
「あ、どうも」
受け取ろうとした俺の手を、ミーナはそのまま包み込んだ。
そして、手拭いで丁寧に拭き始める。
血の跡を、一つずつ。
まるで傷ついたものを扱うように、そっと。
さっきまで騎士を殴り飛ばしていた拳なのに。
今は、少女の手の中で妙に大人しくしている。
なんか照れくさいな、と思った。
「ありがとうございました。私……怖くて。リュウジィさんが前に立ってくれた時、本当に……神様に見えました」
ミーナの声は、まだ少し震えていた。
その言葉に、俺は思わず視線を逸らす。
「……大げさだよ。ただ運が良かっただけだ」
俺がそう返すと、ミーナは少しだけ目を丸くした。
そして、
ふふっ。
と、小さく笑った。
さっきまでの怯えた表情とは違う。
年相応の、幼さの残った笑顔だった。
その笑顔が、殺伐としていた店内の空気を、ほんの少しだけ溶かしていく。
「お父さん。リュウジィさん、まだお腹空いてますよね? 私、もう一杯用意してくる。今度は……邪魔されないように」
そう言って、ミーナは厨房へ消えていった。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐く。
親父さんの名前はドナド。
46歳。
奇遇にも、転生前の俺と同じ年齢だ。
俺が19歳の身体で、この男と同い年。
なんとも妙な話だと思った。
食事を終えると、親父さんの配慮に甘え、俺は二階の空き部屋を使わせてもらうことになった。
部屋に入り、扉を閉める。
静かだった。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいだ。
一人になると、どうしても思い出してしまう。
騎士を殴り飛ばした時の感触。
拳が相手に触れた瞬間。
身体の奥から何かが噴き出したような、あの感覚。
俺は暗い部屋の真ん中に立った。
そして、ただ静かに、自分の掌を握り直してみた。
(神様に見えた、か。)
さっきのミーナの言葉が、妙に頭に残っている。
神様。
そんな大層なものじゃない。
俺はただ、親父さんとミーナを守りたかっただけだ。
それなのに。
(……さっきの感触。あれは一体何だったんだ)
俺はゆっくりと立ち上がった。
足を肩幅に開く。
そして、呼吸を整えた。
深く。
長く。
それだけだ。
形意拳の道場で、練習前の準備運動の最後に必ずやらされる呼吸法。
何百回。
何千回。
いや。
二十五年間で、いったい何度繰り返したのか。
考えることすら馬鹿らしくなるほど、身体に染みついた呼吸だった。
だが。
何かが違った。
息を吸う。
その瞬間。
身体が、ほんのわずかに重くなる。
まるで地面に引っ張られているような感覚。
足の裏が床に沈み込み、そこから根が伸びていくような感覚だった。
(……なんだ、これ)
俺は眉を寄せた。
もう一度、息を吸う。
吐く。
身体の奥に、何かが集まっていく。
試しに拳を握った。
さっきまでと同じ手のはずなのに。
握った瞬間、何かが詰まっているような感覚があった。
中身が、増えたような。
そのまま壁に向かって、ゆっくりと拳を突き出してみる。
音がした。
拳が止まるより先に、空気が鳴った。
「……」
俺は拳を見つめた。
(……俺、何もしてないぞ。ただ息を吸って吐いて、突いただけだ)
なのに。
身体が、さっきより速い。
さっきより重い。
息を吸うたびに、その感覚が増していく。
うまく言葉にならない。
ただ。
怖いとは思わなかった。
むしろ、もっと知りたかった。
これは何なのか。
自分の身体に、何が起きているのか。
リュウジィはまだ、はっきりとは気づいていない。
この世界では、魔術士は自分自身に身体強化の魔法をかけられない。
その「身体強化」を、この呼吸法が、彼独自のエネルギーの循環として成立させていることに。
(この感覚……。三日もやれば、体になじむかな)
気づけば、口元がわずかに緩んでいた。
俺はスッと、構えを取った。
足の裏が床に吸い付くような、
妙に安定した感覚。
身体の軸が、ぴたりと定まる。
さっきまでとは違う。
まるで身体の中に、一本の芯が通ったようだった。
(三日後の闘技場。相手は誰だろうと、やってやるよ)
窓の外には、静かな夜が広がっていた。
俺は深く息を吸う。
そして、拳を突き出す。
一度。
また一度。
何度でも。
夜が明けるまで。
二十五年間、身体に刻み込んできた形意拳を。
今度は、この世界で通用する力へ変えるために。
拳を突き出すたび、空気が小さく震えた。
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