第5話 親父さんの食堂とオークの煮込み
第五話 「拳の意味」
親父さんの店に着いた。
古びた木造の建物。
入口には、長い年月を耐えてきたことが一目で分かる、ボロい暖簾が掛かっている。
親父さんは何も言わず、その暖簾を掲げた。
そして、まるで毎日繰り返してきた動作であるかのように、看板へ明かりを灯す。
小さな灯りが、夕暮れの薄暗がりの中にぽつりと浮かんだ。
(夕方から営業か。これが親父さんの食堂なんだ……)
さっきまで職安で味わっていた重苦しさが、ほんの少しだけ薄れた気がした。
ここには、ちゃんと人の生活がある。
誰かが働いて。
誰かが飯を食って。
一日を終えていく。
それだけの、ごく当たり前の日常。
「今日は手伝わなくていいよ。そこに座ってな。今、旨いのを作るからよ」
親父さんの言葉に甘えて、カウンターの端に腰を下ろす。
椅子に身体を預けると、ようやく自分が思っていた以上に疲れていたことに気づいた。
異世界に来てから、まだそれほど時間は経っていない。
それなのに、職安でスキルを判定され、武道家が最悪の職業だと知らされ、その直後には闘技場への出場まで決めてしまった。
頭の中が、まだ整理できていない。
そんな俺の前に、一人の娘が現れた。
黒髪。
派手さはない。
むしろ地味な印象の娘だった。
だが、その瞳だけは妙に綺麗だった。
どこか人を惹きつける、不思議な目をしている。
親父さんの娘さんらしい。
しばらくして、彼女が俺の目の前に一皿の料理を置いた。
湯気が立ち上る。
鼻腔をくすぐる匂いに、俺の腹が正直に反応した。
「どうぞ。お熱いうちに」
「……あ、ありがとうございます。いただきます」
箸を手に取る。
皿の上には、茶色くてドロドロした物体。
見た目だけなら、正直かなり怪しい。
だが、匂いは悪くない。
むしろ腹が減っている今の俺には、たまらない匂いだった。
「オークの煮込みじゃよ」
親父さんの声を聞きながら、さっそく口に運ぶ。
舌に乗った瞬間、肉の脂がじわりと広がった。
味は薄味だが、脂のパンチが凄い。
上品とは言い難い。
だが、妙に旨い。
前世で食べた『野郎ラーメン』のようなジャンクさがある。
ハズレ職探しで擦り切れた胃袋に、オークの脂がじわりと染み渡っていく。
思わず肩の力が抜けた。
異世界に来て初めて、まともに「生きている」と感じた瞬間だった。
――ガシャァァァン!
だが、その至福の時間を乱暴な
音が切り裂いた。
肩が跳ねる。
店内にいた全員の視線が、音のした方へ向いた。
蹴破られるようにして開いた扉。
その向こうから、騎士団の紋章をつけた四人の男たちが踏み込んできた。
店内の空気が、一瞬で変わった。
さっきまで漂っていた料理の匂い。
暖かな灯り。
静かな店内。
それらすべてが、突然、場違いなものになった。
「一番いい席を空けろ。それと、とびきりの酒と女を用意しな!」
男たちは当然のように店内を見回す。
まるで、ここが自分たちの店であるかのようだった。
「いらっしゃいませ。うちはただの食堂でして、女の用意はちょっと」
親父さんは営業スマイルを作って前に出た。
その笑顔の奥に、わずかな緊張が浮かんでいる。
それでも客商売の人間として、笑顔を崩さない。
だが――。
男の無造作な蹴りが、親父さんの腹にめり込んだ。
「ぐはっ……!」
親父さんの身体がくの字に折れた。
椅子が倒れる。
俺の箸が、手の中で止まった。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
次の瞬間。
「親父さん!」
俺はすぐさま立ち上がり、倒れ込んだ親父さんに駆け寄ろうとした。
だが、足を踏み出したところで
止まる。
店を荒らし回る男たち。
親父さんを見下ろす騎士。
その光景を見ているうちに、腹の底から何かが込み上げてきた。
熱い。
頭が熱い。
拳が熱い。
理屈ではない。
怒りだった。
「……親父さんから離れろ。お前等何してんだ、いい加減にしろ」
気づけば俺は、騎士たちの前に立ちはだかっていた。
自分でも驚くほど自然に。
怖くないわけじゃない。
相手は武装した騎士だ。
剣を持っている。
こちらは素手。
それでも、身体が勝手に前へ出ていた。
「なんだと、小僧……」
男の顔が歪む。
本当にやるのか。
相手は武装した騎士だ。
実戦なんて一度もない。
通用するかはわからなかった。
それでも、俺はゆっくりと息を吸った。
肺に入った空気が、身体の奥まで落ちていく。
吐く。
もう一度、吸う。
その瞬間だった。
全身が熱くなる感覚があった。
まるで、身体の奥底に眠っていた何かが目を覚ますようだった。
「死ね、このガキが!」
リーダー格の男が、剣を抜こうと肩を上げる。
その動きを見た瞬間だった。
(……あれ? 全部、視えるぞ)
男の肩。
肘。
手首。
剣へ繋がる身体の動き。
まるで、一つ一つの動作が目の前に浮かび上がってくる。
次に何が起こるのか。
身体が先に理解していた。
気づいた時には、右拳が吸い込まれるように、男の無防備な鳩尾へ突き出されていた。
形意拳――崩拳!
ズドォォォォン!
鉄槌が岩を砕いたような重低音が店内に響く。
拳が当たった瞬間。
俺の身体を、何か巨大なものが
駆け抜けた。
肩から肘へ。
肘から拳へ。
全身で生み出した力が、一点へ集中していく。
もの凄い力が拳を通り抜けるのがわかった。
男の巨体は後ろの壁まで吹き飛び、背中から激突する。
そのまま崩れ落ちた。
泡を吹いて白目を剥いている。
俺自身が、一番呆然としていた。
(……俺がやったのか?)
そんな疑問が頭をよぎる。
だが、考える暇はなかった。
「な、なんだと……!?隊長を一撃で……!?」
残りの二人が剣を抜いて襲いかかる。
金属音が鳴り響く。
俺の身体が反応した。
怖い。
なのに、足は止まらない。
俺は最短距離を加速し、スッと前に出た。
形意拳の歩法――跟歩。
身体の軸を崩さない。
余計な動きをしない。
ただ、必要な場所へ身体を運ぶ。
振り下ろされた剣を紙一重でかわす。
風圧が頬を撫でた。
そのまま相手の側面に潜り込み、深く沈み込みながら、
その腹へ掌打を叩き込んだ。
叩いた瞬間、俺の身体はバネのように限界まで縮みきっている。
「十二形拳――蛇形拳!(じゃけいけん)」
そこからだ。
とぐろを巻いた大蛇が弾けるように、縮めていた身体を一気に大きく開き放つ。
開放されたエネルギーのすべてを肩と背中に乗せ、相手の側面に強烈な体当たりをぶち当てた。
「がはっ!?」
騎士の身体が宙へ浮いた。
そのまま床を転がっていく。
間髪入れず、左の奴だ。
こちらへ向かってくる。
剣を握る手首をガシッと掴み、関節の曲がらない方向へクイッと冷酷に捻り上げて体勢を崩す。
男の顔が歪む。
その瞬間、空いたもう片方の手のひらで顔面を掴む。
そして――。
床へと猛烈に叩きつけた。
鈍い音が響く。
男はそのままピクピクと震えて動かなくなる。
店内に、奇妙な静寂が落ちた。
さっきまで暴れていた騎士たちが、もう誰も動かない。
俺は自分の手を見る。
震えている。
力を込めているわけでもないのに、指先が小刻みに震えていた。
「……ひっ、ひぃぃ……! 化け物か……!」
最後の一人は、もはや腰を抜かしていた。
剣を握った手も震えている。
俺はそいつを無機質に見下ろす。
「……二度と来るな」
「は、はいぃぃ!」
男は這うようにして逃げ出した。
やがて、外から遠ざかっていく足音だけが聞こえる。
店内に残されたのは、倒れた騎士たちと、荒らされた店。
そして、呆然と立ち尽くす俺だった。
さっきまで旨いと思っていたオークの煮込みの匂いが、まだ店内に残っている。
なのに、もう食欲なんてなかった。
(……クソ。とんでもないことをしてしまった。これじゃ、落ち着いて仕事探しどころじゃないだろ……)
俺は震える拳を、そっとズボンのポケットに隠した。
隠したところで、震えは止まらなかった。
拳を見られたくなかった。
自分自身からも、目を逸らしたかった。
今の俺が何をしたのか。
まだ、自分でも理解できていなかった。
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