第51話 宴の牙、静寂の劈拳
タツヨ・ジョージは、鼻で笑いながらゆっくりと足を止めた。
闇の中から現れたマリスを、値踏みするように一瞥する。
「双牙のマリス、だっけか? そんな物騒なもん拳にくっつけて……。ボクシングってのを履き違えてんじゃねえのか、お前」
「ボクシング?なんですか?それは。」
タツヨが胸の前で腕をクロスすると、両手首に着けているブレスレットが、一瞬にしてメタリックブルーのガントレットへとその姿を変えた。
「死ね、タツヨォ!」
マリスが叫び、地を蹴った。
拳の先から突き出した二本の刃が、月光を反射して鋭く閃く。
その一撃は人間の急所を容易に抉り、文字通り「牙」となって襲いかかる。
だが、タツヨの瞳には、その動きはあまりにも「大振り」に映っていた。
「……遅えよ」
ジャブ! ビシッ!
タツヨが放った閃光の左が、踏み込もうとしたマリスの顔面を正面から捉えた。
凄まじい衝撃に、マリスの身体が真後ろへと弾かれる。
「ぐっ……!」
「一発で終わらせたら、可哀想だからな。圧倒的な力ってのを見せてやるよ」
「くそがぁ!」
ジャブ! ジャブ! ジャブ!
ビシッ! ビシッ! ビシッ!
マリスが反撃に転じる隙すら与えず、メタリックブルーの拳が正確にマリスの顔面を打ち抜いていく。
マリスの顔は、見る見るうちに鮮血で赤く染まっていった。
「なんだよ、手加減してる左で楽勝だな。ほら少しの間撃たねえから、こいよ」
そう言うとタツヨは両腕をだらりと下げた。完全に無防備な姿で、マリスを挑発する。
「舐めるなァァ!」
逆上したマリスが、死に物狂いで二本の刃を振り回す。
左右から、あるいは上下から、空気を切り裂く鋭い攻撃がタツヨの急所へ何度も繰り出された。
だが、タツヨの身体はまるで幽霊のように揺らぎ、そのすべてを紙一重で回避していく。
スウェー、ウィービング。
最小限の動きでマリスの全力の連撃を空転させ、タツヨは欠伸でもしそうな顔でそれを見つめていた。
「何が三英傑候補だよ。当たんねえぞ」
冷ややかな嘲笑が、マリスの理性を完全に吹き飛ばした。
「殺す! ぶち殺してやるッ!」
マリスが大きく腕を振りかぶり、全体重を乗せた捨て身の突きを放つ。
それは、防御を一切捨てた、文字通り「刺し違える」覚悟の突進だった。
だが、タツヨは動じない。
突っ込んでくるマリスの顔面へ、最短距離を通る電光石火の左を突き出した。
バキィィンッ!
マリスの刃が届くよりわずかに早く、タツヨの左ストレートがカウンターで炸裂した。
鼻骨が砕け、自らの突進速度がそのまま衝撃となって跳ね返り、マリスの身体はまるで砲弾のように真後ろへと吹き飛ぶ。
石壁に背中から叩きつけられたマリスは、そのままズルズルと地面に崩れ落ちた。
「あ……がっ……」
白目を剥き、痙攣を繰り返すマリス。
もはや立ち上がる力どころか、意識を保つことすらできていなかった。
タツヨと別れた俺は、王宮の巨大な二枚扉の前に立っていた。
衛兵によって重い扉が開かれると、まばゆい光と喧騒が俺を包み込む。
煌びやかな衣装を纏った貴族たちが集まる大広間。俺が中へ踏み出した瞬間、ざわめきが潮が引くように静まり返った。
貴族の傍らに控える剣闘士たちは、不自然に視線を逸らし、俺と目が合うのを病的に避けている。
だが、その奇妙な沈黙の中で、ただ一人。
柱の影に立つ男だけが、微動だにせずこちらを睨みつけていた。
逃げも隠れもせず、獲物を定めるような冷徹な眼光。
俺は男から視線を外し、一段高い玉座に座る第一王女ヒルデガルドの前へと進み出た。
「よく来てくれました、リュウジィ。今宵の宴、あなたの参列を歓迎します」
王女が静かに口を開く。この状況で、どうやって大臣の陰謀を彼女に伝えるか。俺は言葉を選びながら、王女の瞳をじっと見つめた。
広間の熱気が一段と高まった。
この前と同じく、貴族たちが連れてきたお抱えの剣士たちを戦わせる余興が始まった。黄金の箱から番号が書かれた札を引き、当たった者同士が舞台に上がって戦う。
次々と番号が読み上げられ、貴族お抱えの剣士たちが舞台に上がっていく。剣戟の音が広間に響くたび、着飾った貴族たちが酒杯を片手に歓声を上げる。
だが、俺の視線はずっと、柱の影に立つあの男に釘付けになっていた。
エイデン。
その男の名が呼ばれた瞬間、それまでの空気は一変した。
エイデンが舞台に上がると、腰から二つの武器を引き抜く。それは、鋭い棘のついた鉄球が鎖で繋がれた、二刀流のモーニングスターだった。重量のある鉄球を、まるでヌンチャクのように自在に操る不気味な構え。
エイデンは舞台の上から、真っ直ぐに俺を射抜くような視線を向けてくる。
確信した。あの黄金の箱の中身は、最初から仕組まれている。次に呼ばれるのは、俺だ。
大臣の息がかかった刺客、エイデン。この豪華な宴の裏で、抜き差しならない戦いの幕が上がろうとしていた。
「――続いての対戦者は、リュウジィ! 舞台へ!」
俺は静かに舞台へと上がった。
観衆の視線が突き刺さる中、俺とエイデンは至近距離で対峙する。
「始めまして。エイデンと言います。一応三英傑候補と言われてます」
男は慇懃な態度で名乗ったが、その瞳には冷酷な光が宿っている。
「あっそ! 来なよ」
俺が素っ気なく応じ、構えを解かずに誘うと、エイデンの表情が歪んだ。
「舐めるな! 小僧」
直後、空気を切り裂く轟音とともに、エイデンのモーニングスターが猛然と襲いかかってきた。
だが、俺は一歩も引かなかった。
鉄球が鼻先を掠める直前、上半身をわずかに後ろへ反らす。
ブンッ!
凶悪な風切り音が耳元を通り過ぎるが、俺の表情には微塵の動揺もない。
続けざまに放たれた左の鉄球も、最小限の膝の屈伸と上体の逸らしだけで、まるで見えているかのように軽々と避けていく。
足元は一歩も動いていない。荒れ狂うモーニングスターの嵐の中で、俺だけが静寂の中にいるかのように、淡々とその猛攻を無力化していた。
「……お前、この前のタツヨと俺の戦い見てなかったのか?」
俺は上体を戻しながら、冷ややかな視線をエイデンにぶつけた。
「タツヨのジャブに比べたら遅すぎるよ。そのトゲトゲ」
その言葉は、必死に武器を振り回すエイデンのプライドを、正面から叩き潰した。
「クソガ、アァァァァッ!」
エイデンが激高し、二つのモーニングスターを同時に振りかぶる。
防御を捨てた、狂乱の一撃が放たれようとした、その刹那。
――視界から、俺が消えた。
爆発的な踏み込み。
物理法則を無視したかのような、まさに瞬間移動と見紛う超速。エイデンが何が起きたか理解するより早く、俺の身体はすでに懐へと深く入り込んでいた。
極限まで練り上げられた勁力が、右掌へと集束する。
「――劈拳」
ドォォォォォンッ!
大気を切り裂くような轟音とともに、渾身の掌打がエイデンの溝落ちへと炸裂した。
「が、はっ……!」
悍ましい衝撃波がエイデンの背中へと突き抜け、纏っていた鎧が粉砕される。白目を剥いたエイデンの巨体は、一瞬にしてくの字に折れ曲がり、舞台の床を舐めるように真後ろへと吹き飛んでいった。
ズドォォォンッ!!
石造りの壁を背中で粉砕し、エイデンは土煙の中に沈んだ。動く気配はない。一撃。文字通りの一撃で、三英傑候補と謳われた男が沈んだ。
その瞬間、大広間を支配したのは、時間が止まったような「静寂」だった。
さっきまで酒を煽り、下卑た歓声を上げていた貴族たちの手が止まっている。手に持っていた銀杯を床に落とし、間抜けに口を開けたまま固まっている者もいた。
リュウジィのあまりの強さ。誰もが、目の前の男が自分たちとは住む世界が違う怪物であることを、本能で理解させられていた。
だが、その静寂の中で、たった一点。刺すような殺意を放つ視線があった。
玉座の傍らに立つ大臣だ。自らが用意した刺客が無残に転がった光景に、その顔は怒りで青黒く染まっている。握り締められた拳は小刻みに震え、蛇のような執念深い眼光が、舞台の上の俺を射殺さんばかりに睨みつけていた。
俺は大臣の殺気など路傍の石のように無視し、そのまま真っ直ぐに玉座へと歩を進めた。
王女ヒルデガルド。彼女の正面、跪くこともなく、俺は足を止めた。周囲の貴族たちが息を呑むのがわかる。
「……王女」
俺の声が、静寂に包まれた広間に凛と通った。
「貴女に、話があります」
揺らぐことのない真っ直ぐな視線を、ヒルデガルドの瞳に突き立てる。この茶番のような宴の裏で蠢く、真の闇。それを暴く時が来た。




