第48話:深紅の竜
静まり返っていた闘技場が、一瞬の静寂を置いて暴力的なまでに弾けた。
「な、なんだありゃあ! 服が……赤く染まってやがるぞ!」
観客席のあちこちから、度肝を抜かれた観客たちの悲鳴に近い驚愕の声が上がる。
それまで漆黒だったリュウジィの衣装が、まるで生き物のように蠢き、底知れぬ深淵の血を吸い上げたかのような鮮烈な深紅へと劇的な変貌を遂げていたのだ。
「おい見ろ! タツヨのガントレットもだ! トゲが生えてやがる……! 本気かよ!」
対するタツヨの異変もまた、群衆の度肝を抜いていた。
放たれるメタリックブルーの冷たい輝きはそのままに、殺意をそのまま物理的に具現化したような無数の鋭い棘が、ガントレット全体から突き出している。
興奮の極みに達した実況の絶叫が、魔導増幅器を通じて轟音のように場内へ響き渡る。
「リュウジィ、それが本来の姿か。
俺の破壊のガントレットの力も見せてやるぜ」
闘気が頂点に達したタツヨが、さっきまでとは比べ物にならない速度で猛烈な連打を繰り出してきた。
(嘘だろ? 見えるぞ……ッ!)
全身の神経を極限まで研ぎ澄まし、紙一重で身をひるがえしながら無数の拳を躱す。
そして迫るタツヨの手首を、掌で正確に叩いて軌道を逸らしていく。
バッ! バッ! バッ! バッ! バッ! バッ!
空気を切り裂く凄まじい風圧が、周囲を薙ぎ払う。
ブォーッ!
タツヨが放った、天空の雲さえ突き抜けそうな凄まじい軌道のアッパーカット。
リュウジィは背骨をしならせるように限界まで仰け反り、その死線を間一髪で躱し切った。
(流石に今のパンチは直撃したらヤバい……。しかし、この感覚はなんだ? ファフニールが深紅に変わってから、嘘のように身体が軽い。そして内側からマグマのように身体が熱い……ッ!)
「どうしたリュウジィ、逃げてばっかじゃつまんねえぞ」
余裕の笑みを浮かべるタツヨを前に、リュウジィの瞳が闘志の炎で燃え盛る。
(試してみるか。行くぜ――!)
バンッ!!
爆発的な足の踏み込みと共に、一気にタツヨの懐へと距離を詰める。
自分でも信じられないほどの神速の突進だった。
突然の間合いの詰まりに焦りを見せたタツヨが、迎撃とばかりに大振りのパンチを振るってきた。
リュウジィはその危険な軌道を右手で力任せに跳ね上げる。
完全にガラ空きとなった致命の急所――空いた左拳で『膻中』を真っ向から撃ち抜いた!
――『砲拳』!!
凄まじい衝撃をまともに受けたタツヨは、地面をコマのように二回転ほど転がりながら盛大に吹き飛んだ。
(驚いた……。撃ち抜いた瞬間の拳が、まるで本物の火の玉みたいに熱を帯びていたぞ……。だが、今の吹っ飛び方、自分からあえて後ろに飛んで衝撃を逃がしたか? やっぱり強いな、三英傑は……ッ!)
タツヨが激しく鮮血を咳き込みながらも、底知れぬ執念で再び立ち上がる。
「まだ全部出してねえよ。行くぜ」
今度は一転してベタ足で地面を捉え、鉄壁のガードを高く掲げる。
巧みに頭を振りながら、じりじりとプレッシャーをかけて距離を詰めてくる。
殺意が完全に凝縮された間合いに入った、その瞬間――。
人間の動体視力では認識不可能な、モーションが完全にゼロのパンチが突如として放たれた。
今度は回避する暇もない。
リュウジィは両腕をクロスさせ、十字の硬いガードで受ける。
だが、恐るべき衝撃がガード越しに全身へ突き抜け、その身体ごと後方へ激しく弾き飛ばされた。
ズザザザザザザザッ!!
「どうだリュウジィ。俺のファントムストレートは」
痺れる腕を抱えるリュウジィの脳裏に、再びファフニールの傲岸不遜な声が直接響き渡る。
『お前いつまでそんなのに苦戦してるんだよ。使いこなせ、我の力を』
(そうだな、考えても仕方ない……。余計な思考は捨てろ。集中しろ。全ての力を解放しろ――ッ!)
極限まで高めた俺自身の肉体強化と、ファフニールがもたらす神話級の身体強化。
その二つを完全に重ね合わせた瞬間、世界の色が変わった。
リュウジィの視界が、一気にクリアに開ける。
「いけえ――ッ!」
爆風をまといながら、再び間合いを一気に詰めて突っ込む。
タツヨの放った必殺のパンチが、顔の横の空間を凄まじい風圧とともに通り過ぎていく。
それが、スローモーションのようにはっきりと見えた。
リュウジィは『践歩』の技術を応用し、斜めに身体を滑らせる。
そして、ねじ込むようなシュート回転気味の拳で、相手の顔面を完璧に撃ち抜いた!
――『横拳』!!
強烈な旋回遠心力を乗せた一撃に、タツヨの身体が大きく宙を舞う。
今度こそ逃がさない。
闘技場の空間を引き裂くような赤い閃光の残像が、疾風の如く駆け抜ける。
吹き飛んで態勢の崩れたタツヨの軌道へと完璧に先回りし、そして――。
――『崩拳』!!
今度ははっきりと見えた。
我が拳を包み込む、猛り狂う純色の炎が。
ズドオォォォォッン――!!
太陽の如き炎を纏った拳がタツヨの肉体を捉えた瞬間、円形闘技場全体を根底から揺さぶるような凄まじい爆音が轟いた。
衝撃に耐えきれず弾き飛ばされたタツヨの身体が、闘技場を取り囲む巨大な石造りの頑丈な外壁へと直撃する。
メキメキメキッ! バガァァァン!!
常軌を逸した衝撃に耐えきれず、分厚い石壁がまるでガラス細工のように蜘蛛の巣状に砕け散った。
タツヨの身体は砕けた無数の石材とともに壁の向こう側へと深く沈み込み、崩れ落ちた瓦礫の山の下へと埋もれて、完全に動かなくなった。
圧倒的な静寂が闘技場のすべてを支配する。
その中心で、勝者の証であるかのようにリュウジィの肉体からもうもうと立ち上っていた凄まじい熱気が、ふっと嘘のように途絶えた。
それと同時に、鮮血のように燃え盛っていた深紅のチャイナ服が、寄せる波が引いていくかのように、みるみるその鮮烈な色を失っていく。
ジワリ、ジワリと、元の漆黒へと戻りゆく布地。
(……元の色に戻ったのか。あの全身を駆け巡っていた凄まじい熱も、まるで背中に羽が生えたような、あの異様なまでに軽い感触も……すべて消えたか)
「勝者、リュウジィィィィッ!!」
審判の絶叫が、あまりの衝撃に止まっていた周囲の時間を、ようやく力強く動かした。
地鳴りのような割れんばかりの歓声が、ついに観客席から爆発的に沸き起こる。
その喧騒の中、客席の最前列から小さな影が猛然と飛び出して来た。
「リュウジィお兄ちゃん! リュウジィお兄ちゃん!」
他でもないプリカの声だった。
制止しようとする警備の網を紙一重ですり抜け、まだもうもうと砂塵の舞う舞台へと迷いなく駆け寄ってくる。
ただひたすらに夢中で名前を呼びながら、泥と砂にまみれた足元まで真っ直ぐに走ってくる。
その愛らしい背中を必死に追うように、フロドもまた肩で荒い息を切らしながら懸命に駆け寄って来る。
「兄さん! すげえよ! 本当に勝っちゃった!」
二人の懸命な姿を認めた瞬間、それまで戦闘鬼神の如く冷徹だったリュウジィの強張っていた表情が、一気に春の雪解けの如く弾けるような満面の笑みに変わった。
「よっしゃあ! 勝ったぞ!」
駆け寄って来た二人の幼き家族を包み込むように、リュウジィは力いっぱい拳を天に向けて突き出した。
漆黒の衣装に包まれたその頼もしい背中は、もはや一介の異世界の拳士のそれではない。
背後に広がる崩壊した瓦礫の山と、割れんばかりの歓喜に狂う大群衆。
その世界の中心に、確かに三人の家族の温かい姿があった。




