第47話 予期せぬ覚醒
アーティファクト(Artifact)とは、古代文明や神々が作り出した強力な魔導具や宝具である。
地鳴りのような歓声が、厚い石壁を震わせながら伝わってくる。
数万人の観客が放つ熱狂は、遠い雷鳴のように響き、控え室にいるリュウジィの腹の底まで揺さぶっていた。
「……時間か」
短く呟き、リュウジィは力強く立ち上がった。
視線を落とす。
身に纏っているのは、漆黒のベロア調のチャイナ服。
一見すれば、ただの衣服にしか見えない。
だが、これは普通の服ではない。
南の国サウスチェケラッチョの武器屋で、リュウジィ自身が主として認められたことで手に入れたアーティファクト――ファフニール。
かつて、その力によって千五百人もの命を奪ったとされる、恐るべき宝具だ。
装備者の思い通りに形状を変える性質を持ち、今はリュウジィの身体を包むチャイナ服へと姿を変えている。
動いたり、光の加減が変わったりするたび、漆黒の布地に金色の筋が浮かび上がる。
さらにファフニールには、装備者の身体能力を強化する力がある。
リュウジィ自身の内功による身体強化。
そして、ファフニールによる身体強化。
二つの力を重ね掛けできることが、今のリュウジィの大きな武器だった。
リュウジィは軽く肩を回した。
身体に異常はない。
ファフニールには浄化の効果もある。
寝る時、風呂に入る時、そして女を抱く時以外は脱ぐことができない代わりに、汚れが付着することはない。
温度を調整する効果もあるため、暑さや寒さを気にする必要もなかった。
まさに、身を守る鎧として申し分のないアーティファクトだ。
だが――。
今日の相手に対しては、それだけに頼るつもりはない。
リュウジィは拳を握り締めた。
先日の魔剣士との戦いで、思い知らされた。
自分はまだ強くなれる。
いや、強くならなければならない。
内功による身体強化。
ファフニールによる身体強化。
その二つを重ね合わせた肉体で、今日の相手を迎え撃つ。
「……行くか」
重厚な扉が開く。
リュウジィは、闘技場へと続く通路へ足を踏み出した。
一歩。
また一歩。
進むほどに、外から押し寄せる歓声が大きくなる。
通路の先に見える光が、徐々に広がっていく。
そして――。
目の前に、巨大な円形闘技場が姿を現した。
まばゆい陽光が、広大な砂地を照らしている。
足元の砂は、幾多の激闘によって踏み固められ、硬く締まっていた。
その硬質な大地の上で、一人の男が軽快なステップを刻んでいる。
タツヨ・ジョージ。
三英傑の一人。
先日、実際にこの目で見た男だ。
だが、今日はあの時とは違う。
両手には、鈍いメタリックブルーの輝きを放つガントレット。
アトラスの双拳。
それもまた、この世界に数少ない伝説のアーティファクトの一つだった。
タツヨが軽く拳を振る。
風を切る音が響く。
速い。
その拳の軌道を、目で完全に追うことができない。
リュウジィは、危険な間合いの直前でピタリと足を止めた。
観客席の一角では、フロドとプリカが固唾を呑んで二人を見守っている。
タツヨはステップを止めない。
そして、楽しげに目を細めた。
「そう急ぐなよ」
鼻で短く息を吐く。
「急いでやったって、良いことなんてねえだろ?」
軽く肩を揺らしながら、さらに続ける。
「ゆっくり行こうぜ。たっぷり楽しませてくれよ、小僧」
リュウジィは、圧倒的な存在感を放つタツヨを見つめたまま、静かに肺腑の空気を吐き出した。
「……悪いけど、あんまり長引かせるつもりはないんだ」
二人の間に、張り詰めた空気が満ちる。
そこへ、審判を務める屈強な男が鋭く割って入った。
左右の選手を厳しく確認し、天へ向けて右腕を高く突き上げる。
闘技場を埋め尽くしていた怒号のような大歓声が、その瞬間、嘘のように静まり返った。
数万人の観客が固唾を呑む。
「――始めッ!」
審判の腕が鋭く振り下ろされた。
瞬間。
リュウジィは素早く半身に構えた。
両手の高さは、急所を守るみぞおちの辺り。
両腕を中心線へ寄せ、掌はまるで大きな球を抱えるように柔らかく開いている。
力んではいない。
だが、全身には一切の隙がなかった。
パッ!
乾いた音が、静まり返った闘技場に鋭く響き渡った。
予備動作がほとんどない。
タツヨの左拳――ジャブが飛んできた。
リュウジィは咄嗟に首を捻り、致命的な軌道から頭部を外す。
だが――。
ガントレットの先端が頬を掠めた。
バチッ!
(速い……!)
完全にかわすのは難しい。
タツヨは止まらない。
パッ!
パパッ!
さらに拳が飛んでくる。
左。
左。
そして、また左。
まるで機関銃のような連打が、リュウジィの視界を埋め尽くしていく。
リュウジィは身体を僅かに沈め、首を振り、腕を使って拳の軌道を逸らしていく。
完全に避けるのではない。
紙一重で外す。
ほんの僅かに身体の位置をずらす。
それによって、拳の威力を殺していく。
だが、それでも――。
すべてを避けきることはできなかった。
頬が裂ける。
肩に鈍い衝撃が走る。
肋骨へ重い拳が触れる。
視界の端に火花が散った。
それでも、リュウジィの構えは崩れない。
内功による身体強化。
そして、ファフニールによる身体強化。
二つの力が重なっているからこそ、致命的なダメージだけは避けられている。
しかし――。
(このまま撃たれ続けたら、いつか崩される……!)
リュウジィは、ただ耐えているわけではなかった。
タツヨの足。
肩の動き。
呼吸。
拳を打ち終えた後の重心。
その一つ一つを観察していた。
「……ほう」
タツヨが呟いた。
「この速度で叩いても、軸がブレねえか」
その瞬間。
リュウジィは踏み込んだ。
爆発的な踏み込み。
一気に間合いを潰す。
だが――。
「おっと」
そこに、タツヨの姿はなかった。
リュウジィの掌が空を切る。
「どうした?」
背後すれすれから、タツヨの声が響いた。
軽快なステップ。
まるで、最初からそこにいなかったかのような身のこなしだった。
「形意拳は打突系の最高峰じゃないのか?」
リュウジィが振り返る。
「……何故、形意拳を知ってる?」
タツヨの口元が、不敵に吊り上がった。
「分かるだろ?」
一瞬だけ、その目から笑みが消える。
「俺も転生者だよ、リュウジィ」
「……!」
「同じ転生者同士、仲良くしたいところなんだけどな」
タツヨが拳を構える。
「そうもいかないみたいだ」
(やはり……)
リュウジィは、目の前の男を改めて見た。
生粋のボクサー。
そう思わせるほど、タツヨの動きは洗練されている。
純粋な速度なら、自分より上だ。
なら――。
タツヨが再び踏み込んだ。
鋭いジャブが飛んでくる。
一発。
二発。
三発――。
リュウジィは、それぞれの軌道を見切りながら後退する。
そして――。
四発目。
来た。
リュウジィの手が閃いた。
「――捕まえた!」
タツヨの左腕を、手首ごと掴み取る。
タツヨが腕を引き戻す。
その瞬間に生じた強烈な反発力。
リュウジィは、それを利用した。
自らの踏み込みと、タツヨが腕を引く力を同調させる。
一気に間合いをゼロへ。
(よし……!)
懐へ入った。
勝負は決まった。
――そう思った。
その刹那。
バーンッ!!
完全に虚を突かれた。
タツヨの右拳が、狙い澄ました軌道で顔面を捉えた。
「ぐぁっ……!」
凄まじい衝撃。
身体ごと宙へ舞う。
そのまま数メートル吹き飛び、砂地へ激しく叩きつけられた。
ズザザザザザッ!
だが、リュウジィは反射的に身体を起こした。
視界が揺れる。
頬が熱い。
口の中に血の味が広がる。
(ファフニールとの身体強化と内功がなかったら、頭ごと吹き飛ばされてた……)
だが――。
(やべえ。めちゃくちゃ効いてる……ッ!)
タツヨが笑う。
「俺が左だけだと思ってたのか?」
リュウジィは深く息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと吐き出す。
身体の奥で内功を巡らせる。
痺れの残る身体を、意志の力で立て直していく。
(こいつが俺を舐めてるうちに何とかしないと、勝機はない)
リュウジィの足が動いた。
践歩。
直線ではない。
左右へ複雑な軌道を描きながら、ジグザグに間合いを詰める。
ジャブが飛んできた。
かわす。
また飛んでくる。
今度は肩で受ける。
痛みなど構っていられない。
まるでラッセル車のように全身の体重を乗せ、前へ突っ込む。
タツヨの右拳が迎撃へ飛来した。
(来る……!)
リュウジィは逃げなかった。
鋭い右の軌道へ、真正面から踏み込む。
「劈拳――ッ!」
バチィィィィッ!!
拳と掌が真正面から衝突した。
凄まじい衝撃と共に、二人の身体が激しく弾き飛ばされる。
ズザザザザザザザッ!!
砂塵が舞い上がった。
タツヨは砂を踏みしめながら立ち止まる。
そして――笑った。
「そうこなくっちゃな」
タツヨの殺気が、さらに濃くなる。
「行くぜ、リュウジィ!」
再び踏み込んできた。
その踏み込みの瞬間を、リュウジィは捉えた。
掌を返す。
「鑽拳――!!」
全身のバネを使い、螺旋状に身体を旋転させながら、下から上へと拳を突き上げる。
敵の懐を抉るような一撃。
だが――。
寸前のところで、タツヨが鮮やかに身体を捻った。
鑽拳が空を切る。
その瞬間。
鋭い左拳が、リュウジィの無防備なボディへ突き刺さった。
ドウッ!
「うぐっ……!」
拳が腹の奥へ沈み込む。
身体がくの字に折れた。
「終わりだ、リュウジィ」
タツヨの右拳が振り抜かれる。
リュウジィは――逃げなかった。
「うおぉぉぉ――ッ!!」
あえて、その攻撃へ身体を晒す。
身体を半回転。
後手を頬へ添え、頭部から肩にかけてのラインを一直線にする。
全身を一つの塊にする。
頭部と肩。
そして、全身の重量。
それらを一つにまとめ――。
「靠――ッ!!」
ドッカァァァァン!!
爆発的な踏み込み。
内功による身体強化。
ファフニールによる身体強化。
そして、形意拳の全身を一つにまとめる力。
そのすべてを一点に集約した渾身の体当たりが、タツヨの強靭な身体を真正面から吹き飛ばした。
タツヨの身体が宙を舞う。
観客席から、地鳴りのような大歓声が巻き起こった。
(今度こそ……!)
勝機。
そう判断したリュウジィは、すぐさま追撃へ移ろうとした。
だが――。
「……っ」
足が止まった。
先ほど受けたボディのダメージが、まだ残っている。
まともに動けない。
その間に、タツヨがゆっくりと立ち上がった。
口元を手の甲で拭う。
そして、不敵に笑った。
「……流石に効いたぜ」
その笑みから、先ほどまでの余裕が消えている。
「なら――俺も本気を出すよ」
タツヨが両腕を広げる。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁっ――!」
咆哮が闘技場を震わせた。
その瞬間だった。
アトラスの双拳が、不気味に震え始める。
ガチッ。
ガチガチッ。
金属が噛み合うような音が響く。
次の瞬間――。
ガントレットの表面から、無数の凶悪なトゲがせり出した。
形状そのものが禍々しく変貌していく。
まるで、武器そのものが意思を持っているかのように。
「……なんだ?」
リュウジィが目を細める。
その直後だった。
ドクン。
「……!」
自分の心臓ではない。
胸の奥から、何かが響いている。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
次第に、その鼓動は大きくなっていく。
頭の中へ直接響いてくるような、不気味な音。
(なんだよ、これ……っ?)
身体が熱い。
いや――熱いだけではない。
身体の奥で、何かが目を覚まそうとしている。
その時。
頭の中へ、声が響いた。
(お前、成長が遅いよ)
「……!」
聞き覚えのある声。
だが――。
今までとは明らかに違う。
そこには、はっきりとした意思があった。
(やっと第二段階になれるな)
「ファフニール……?」
リュウジィは息を呑んだ。
「お前なのか……っ!?」
返事はない。
代わりに――。
身体の奥から、眩い黄金の光が噴き出した。
黄金の光は蛇のようにリュウジィの身体へ絡みつき、激しく渦を巻いていく。
「ぐっ……!」
皮膚が裂けるような激しい熱。
身体中を走る鋭い痛み。
内功とは違う。
自分自身の力とは明らかに異なる。
巨大な何かが、身体の中で目を覚ましていく。
そして――。
漆黒だったチャイナ服の色が、ゆっくりと変わり始めた。
黒が、赤へ。
漆黒のベロア調だった衣服が、鮮烈な深紅へと染まっていく。
その表面を、金色の筋が蛇のように走る。
闘技場を埋め尽くしていた歓声が、次第にざわめきへと変わっていく。
誰もが、目の前で起きている異変を理解できずにいた。
ただ一人――。
リュウジィだけが、その変化を肌で感じていた。
(……ファフニール)
目の前のタツヨを見据える。
身体の奥で、何かが目を覚ました。
そして――。
ファフニールの第二段階が、今、始まった。
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