第45話 暁の発勁
まだ薄暗い早朝。
リュウジィは、静かな寝息を立てているフロドとプリカを横目に、二人を起こさないよう、音を殺して家を出た。
扉を閉める。
表へ出た瞬間、冷え切った朝の空気が肌を刺した。
白い息を吐きながら、昨夜の出来事を思い返す。
路地裏で襲ってきた、あの魔剣士。
一気に間合いを詰めて放った渾身の劈拳を、紙一重でかわした異様な身のこなし。
二本のダガーを不規則に振り回し、まるで腕が何本にも増えたかのように見せた幻惑の斬撃。
そして、こちらの防御を抜いて腹へと突き刺さった一撃。
あの瞬間の衝撃は、まだ身体の奥に残っている。
結果だけを見れば、奴の右手を潰すことはできた。
だが、決定打を与える前に逃げられた。
「……ふぅ」
短く息を吐き、リュウジィは庭の中央で足を止めた。
ゆっくりと腰を落とす。
前後に開いた足。
沈めた重心。
そして、両手を構える。
三体式。
静止した身体の奥で、内功をゆっくりと巡らせていく。
冷たい朝の空気が肺へ入り、吐き出した息が白く霧散する。
(昨日の奴……今まで戦ってきた連中とは、何かが違う)
力だけなら、俺の方が上だった。
速度も、単純な打撃力も負けてはいない。
それでも、あいつには俺の攻撃を殺すための技術があった。
かわし方。
受け方。
そして、逃げる判断。
(異世界に来て形意拳がチートみたいに通用して、ファフニールまで手に入れた。いつの間にか、俺は自分の強さを過信していたのかもしれない)
これまでなら、相手が自分より速ければ速いほど、強ければ強いほど、正面から叩き潰せばいいと思っていた。
だが、それでは足りない。
この世界には、俺の知らない技術がある。
俺の知らない強者がいる。
なら――。
(俺自身が、もっと強くならなきゃならない)
リュウジィは目を閉じた。
そして、ゆっくりと一歩を踏み出す。
劈拳。
切り裂くように腕を振り下ろす。
続いて崩拳。
身体の中心から生み出した力を、一点へと真っ直ぐに突き抜く。
鑽拳。
螺旋を描くように身体を捻り、力を上へと巻き上げる。
炮拳。
一気に爆ぜるように拳を叩き出す。
最後に横拳。
身体の回転を利用し、横から相手を薙ぎ払う。
一撃。
また一撃。
そのたびに足裏から伝わる力を確かめる。
腰が遅れていないか。
肩に余計な力が入っていないか。
拳へ力が伝わるまでに、どこかで勁が途切れていないか。
昨日の戦いを思い返しながら、自分の身体を一つずつ修正していく。
ブォッ。
拳が空気を切り裂く。
続いて、発勁。
バンッ!
乾いた音が早朝の庭に響き渡った。
リュウジィは止まらない。
五行拳から十二形拳へ。
龍。
虎。
猿。
馬。
それぞれの形を繰り返し、身体の奥に染みついた動きを一つずつ呼び起こしていく。
(忘れるな)
拳を振るいながら、胸の奥で自分に言い聞かせる。
(俺は、この世界の武術を何も知らない)
だからこそ、慢心してはいけない。
自分の知っている技術だけを信じて、知らないものを軽視すれば、昨日のような一撃をまた受ける。
(強さを、ただ上げればいいわけじゃない)
内功を高める。
だが、それだけでは駄目だ。
強くなった身体を、自分の意思通りに動かせなければ意味がない。
速さを上げても制御できなければ隙になる。
力を増しても、振り回されれば自分の身体を壊す。
だから――。
次に五行連環拳。
八式拳。
雑式捶。
最初は、あえて速度を落とす。
ゆっくりとした動きの中で、身体のどこが動き、どこが連動しているのかを確認していく。
足。
膝。
腰。
背中。
肩。
肘。
手首。
拳。
一つの動作が、決して一つの部位だけで完結しているわけではない。
身体全体を一本の線として繋げる。
そして――。
速度を上げる。
ドンッ!
拳が空気を爆ぜさせる。
ドンッ!
さらに一撃。
静。
動。
そして、また静。
一撃ごとに内功を拳の先端へ集中させ、撃ち抜いた瞬間に力を散らす。
その感覚を何度も何度も身体へ刻み込む。
やがて、呼吸が深くなる。
額から汗が流れ落ちる。
それでも止まらない。
昨日、腹を打ち抜かれた瞬間の感覚が、何度も脳裏に蘇る。
(あの攻撃を、次は食らわない)
拳が走る。
掌が舞う。
肘が空気を裂く。
発勁。
発勁。
さらに発勁。
一点に留まっていた力が、やがて濁流のように全身へ広がっていく。
拳。
掌。
肘。
それらが途切れることなく連続して虚空を打ち抜いていく。
静まり返っていた早朝の空気が、激しい打撃音と巻き起こる風の音に支配されていった。
(……これだ)
一瞬、身体の芯が一本に繋がる。
(この感覚を忘れるな)
朝日が完全に昇りきる頃。
リュウジィの全身からは激しい熱気が立ち上り、周囲に漂っていた朝霧さえも、その熱に押し流されるように白く散っていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
王宮の奥深く。
一般の者が足を踏み入れることすら許されない一室で、一人の男が豪奢な椅子に腰を下ろしていた。
赤と金を基調とした装飾。
壁に掛けられた巨大な王家の紋章。
その威圧的な空間の中で、この国の実権を握る大臣――ピエール・サバンは、目の前に跪く男を冷たく見下ろしていた。
昨夜、リュウジィと刃を交えた魔剣士。
そして――骸衆の長、クルシオ。
「調査と言ったはずだが」
ピエールが静かに口を開く。
「戦ったのか?」
クルシオは跪いたまま、肩をすくめた。
「向こうが引いてくれなかったんですよ。こちらは、引いてくれと頼んだんですがね」
「右手はどうした」
「ご覧の通りです」
クルシオが包帯の巻かれた右手を軽く持ち上げる。
「治癒師に治してもらいました。魔術士上がりの、腕のいい奴でしてね。動かす分には問題ありません」
「そうか」
ピエールはしばらく黙っていた。
そして、わずかに目を細める。
「骸衆の長として、お前はどう見る?」
「ただの旅人ではありません」
クルシオの声から、先ほどまでの軽さが消える。
「まあ、並の強さではありませんね。それに……少し気になることが」
「なんだ」
「キングスフォーンで、リリス王女の暗殺を阻止した男ではないかと」
ピエールの眉がわずかに動いた。
「……ほう」
「報告では、その男も変わった漆黒の服を着ていたそうです」
「同一人物だと?」
「恐らくは」
クルシオは即答した。
「服装だけで断定するのは危険ですが、あの身のこなし。そして、あれほどの武術を使う人間が偶然この街に現れたと考える方が不自然でしょう」
ピエールは椅子の肘掛けを指先でゆっくりと叩いた。
「ならば――ネズミか」
「そう考えて間違いないかと」
「して、どうする?」
クルシオの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「殺すことはできます」
そこで一度、言葉を切る。
「ですが、こちらも相当な犠牲を払うことになるでしょう」
「お前がそこまで言うか」
「ええ。昨夜の男は、簡単に始末できる相手ではありません」
クルシオは包帯の巻かれた右手を見つめる。
「だからこそ――もっと安全で、面白い方法があります」
「聞こう」
「奴はヒルデガルド王女のお抱え剣闘士。そして、闘技場でもかなりの人気を得ています」
ピエールが僅かに笑う。
「それで?」
「闘技場で、三英傑と戦わせるんですよ」
クルシオの瞳が細くなる。
「公開試合なら、奴も逃げることはできない。観客の前で戦わせれば、こちらが直接手を下す必要もない」
「なるほど」
「もし三英傑が奴を倒せば、それで終わりです」
クルシオはそこで、さらに声を落とした。
「ですが――もし、奴が三英傑すら倒したなら」
その言葉に、ピエールの口元がゆっくりと吊り上がる。
「オーガ、か」
「ええ」
クルシオは深々と頭を下げた。
「三英傑を倒した男とオーガの戦いなら、観客も大いに沸くでしょう」
ピエールはしばらく黙っていた。
やがて、堪えきれなくなったように笑い声を漏らす。
「……くくっ」
その笑みが、次第に大きくなる。
「ワッハッハッハッハッ! それは面白い!」
広い部屋に、乾いた笑声が響き渡った。
「さすがじゃのう、クルシオよ」
「ありがとうございます」
「ただ殺すだけではつまらん。どうせなら、民衆にも楽しませてやろうではないか」
「その通りです」
クルシオは立ち上がる。
「早速、闘技場の管理官へ伝えさせましょう」
そして、薄い笑みを浮かべた。
「次の国営興行にふさわしい――金になる生贄の用意ができた、と」
そう言い残すと、クルシオは音もなく身を翻した。
足音すら残さない。
その身体は、部屋の隅に落ちた影へ吸い込まれるようにして消えていった。
後には、ピエールだけが残される。
大臣は誰もいなくなった扉を眺めながら、再び口元を歪めた。
次の闘技場で。
一人の剣闘士の命を賭けた、巨大な見世物が始まろうとしていた。
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