第42話 深まる疑念
きらびやかな夜会の喧騒を背後に置き、王宮の重苦しい石造りの空気から解放されると、吹き抜ける夜風が妙に肌寒く、火照った身体に冷たく感じられた。
一人になって静かな闇に包まれると、どうしても現世での記憶の断片と、自分の頭の中にぽっかりと空いた「失われた記憶」の空白について考えてしまう。
一体、何故俺は、この見知らぬ世界へ飛ばされてしまったのか?
実戦では役に立たないと、かつての現世では散々言われ、日陰者扱いされていた中国武術で、どうして俺は、ここまで規格外のチートじみた強さで闘えるのか?
振り返ってみれば、俺は現世で、自分のことを「武術家」だの「武道家」だのと思ったことは、一度すらなかった。
そもそも、世間に武術や武道のプロ競技なんてものは存在しない。
どんなに熱中して技をやり込んだとしても、俺のいた世界では、それはどこまでいっても、ただのアマチュアの趣味でしかなかったのだ。
たまに、ろくに日々の鍛錬すらしていないくせに、週にたった一度だけ道場に顔を出して習いに来ているだけの、自称・武術家気取りの連中が、したり顔で小難しい武術用語を並べ立てているのを見るたびに、胸の奥から激しい反発が込み上げてきた。
そして最後には、
「わかったから、取り敢えず三体式やれよ」
と、どうしようもない吐き気さえ覚えたものだった。
――だというのに。
そもそも何故、今の俺は、肝心な記憶の所々がごっそりと消え落ちているんだ?
俺はいったい……何者なんだ。
冷たい思考を振り払うように足を速め、ようやくたどり着いた家へ戻る。
散らかったテーブルの上には、昼間のうちに闘技場の賞金で山のように買い込ませた豪華なご馳走が、所狭しと並んでいた。
「……ごめん、遅くなったな」
誰にともなく呟きながら、俺は適当な椅子にどっかりと腰を下ろした。
そして、冷えた水をグラス一杯に注ぐと、一気に飲み干す。
フロドとプリカは、きっと俺の帰りを起きて待っていてくれたのだろう。
だが、心地よい疲労と満腹感に負けたのか、二人とも椅子に突っ伏したり、ベッドにバタリと倒れ込んだりして、すでに深い眠りに落ちていた。
スースーと穏やかな寝息を立てる二人の無防備な寝顔を、俺はしばらくじっと見つめる。
それから、静まり返った部屋で、一人、テーブルの上のご馳走を静かに口へ運んだ。
翌朝。
柔らかな朝日が窓から差し込む明るい食卓では、フロドとプリカの二人が、昨日までの静けさが嘘のように、競い合うようにして香ばしい肉の塊に食らいついていた。
俺がふと二人と目を合わせ、軽く頷く。
すると二人はさらに勢いを増し、山盛りの皿をあっという間に空にしていった。
そんな賑やかな様子を眺めながら、俺は温かいスープをゆっくりと口に運ぶ。
そして、ふと思いついた疑問を、何気ない口調で口にした。
「……なあ、フロド。食いながらでいいんだけど、ちょっと聞きたいことがあるんだ。この国の王様って、どんな人なの? 昨日の夜会にもいなかったけど」
「王様? ……優しい人だって街じゃ評判だったけど、もう半年くらい誰も姿を見てないんだよね。病気で寝込んでるって大臣様が発表してからは、ずっとだよ」
「へえ、半年か。……まあ、お偉いさんも大変だな」
俺は適当に相槌を打ちながら、フォークで皿の上の肉を口へ運んだ。
王様が半年もの間、ずっと姿を見せていない。
その間、国の実権を握っているのは大臣だ。
ただの偶然かもしれない。
だが、リリス王女が命を狙われた不気味なタイミングと、その政治的な空白の時期が、どうにも嫌な形で重なっているような気がしてならなかった。
――ほぼ同じ頃。
すべてが深い闇に包まれた、深夜の王宮。
わずかな灯りだけが落とされた大臣室の奥で、一人の男が、グラスに注がれた冷え切ったワインを静かに口へ運んでいた。
この国のすべての実権を、その手に掌握する男――ピエール・サバン。
彼は、一筋の光すら届かない暗がりへ向かって、底冷えのする低い声を投げかけた。
「見たか、あの小僧を」
主の冷徹な問いに応じるように、部屋の隅――どれほど目を凝らしても燭台の光すら届かない深い影が、まるで生き物のように、わずかに揺らいだ。
そこには、人間のものとは思えないほど、呼吸の音さえ完全に殺し尽くした「死の気配」が、ねっとりと潜んでいた。
この国に太古の昔から密かに伝わり、王家のための汚れ仕事を一手に引き受けてきた、闇の暗殺者一族――骸衆。
その一人だった。
「……ただ闘技場で稼ぎに来た剣闘士、という感じではありませんな」
底知れない闇の底から、カサついた不気味な声が這うように響いてくる。
「身のこなし、拳の重さ……何より、武道家だというのに、あの強さ。龍の気配すら、微かに感じられました。あれは、ただの素人ではありません」
ピエールは、あの煌びやかな夜会で目の当たりにした、リュウジィの圧倒的な一撃を脳裏に呼び起こした。
そして、美しく整った口元を、不敵に歪ませる。
「骸衆の目に狂いはないのか? 奴は、どこから来た?」
「……今のところは、アズマリアに現れた流れ者、としか。ですが、あの若さで、あれだけの強さは……。どこかが送り込んだ刺客、あるいは――」
「他国の手の者か」
ピエールは、手元に広げられた古い羊皮紙の地図へ、細い指先を滑らせた。
そこには、隣国キングスフォーンとの緊迫した国境線が、赤々と描かれている。
「まだ手を出すな。泳がせておけ」
ピエールの声が、静かな部屋に冷たく響く。
「奴がただの旅人なのか、それとも我々の計画を嗅ぎ回る鼠なのか……まずは、その正体を徹底的に洗え。何処から来たのか。誰の差し金なのか。一欠片の漏れもなく報告しろ」
そこで一度、言葉を切る。
「……正体がわかれば、あとは消すだけだ」
「御意!」
忠実な返事の残響とともに、影はまるで霧のように溶けるように消え失せた。
たった一人、広大な部屋に取り残されたピエール・サバン。
彼は窓の外に広がる、静まり返った眠れる王都の街並みを見下ろしていた。
そして――。
冷たく、狂気を孕んだ笑声を、低く、低く漏らし続けた。
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