第40話 門番
闘技場の重い鉄扉を押し開き、燦然と輝く光の中へ踏み出した瞬間、頭上から叩きつけるような地響きと大歓声が降ってきた。
視線を上げて貴賓席を見れば、豪華な毛皮やドレスで着飾った貴族たちが、退屈を紛らわせるだけの安っぽい余興を値踏みするような冷ややかな目で、こちらを見下ろしている。
対面に立つのは、三英傑への門番。
無駄に膨れ上がった筋肉に、身の丈ほどもある巨大な鉄球。
力任せに振り回すだけの、よくあるタイプだ。
(……。……。まあ、やれることをやるだけだ。ここで勝たないと先へ進めないんだからな)
「おい、新入り! その涼しい顔を、俺の鉄球でグチャグチャにしてやるよ!」
男の野太い咆哮とともに、鉄球が唸りを上げて回り始めた。
俺は、その鉄球が描く死の軌道を、ほんの数ミリだけ掠める位置へ踏み込む。
鼻先を鋭い風切り音が撫でていく。
恐怖が背筋を走る。
それでも足は止めない。
研ぎ澄ました感覚を信じるなら、この紙一重の間合いこそが一番確実だった。
観客席から、悲鳴にも似た歓声が一斉に湧き上がる。
鉄球の遠心力が最大に達する、その直前。
俺は『践歩』で一気に前へ出た。
敵の視界を斜めに滑り、死角へ潜り込む。
重心を地面すれすれまで落とし、固く踏み固められた砂を足の裏で確実に捉える。
ジグザグに刻む鋭い歩法。
巨大な鉄球が描く「円」に対し、俺は鋭角の軌道で、その致命的な隙間を縫うように進んだ。
「なっ……!? どこへ……!?」
男の焦燥に満ちた声を背中に聞きながら、俺は吸い込まれるように懐へ入り込んだ。
胸元。
肌を刺すような熱い吐息が届くほどの至近距離で、俺は足を止めた。
指先で、男の肩を軽く突く。
それだけで十分だった。
俺はすぐに重心を切り替え、後方へ退いた。
「ふ、ふざけるな!」
顔を真っ赤にした門番が、なりふり構わず鉄球を振り回す。
俺は再び『跟歩』で滑らかに前へ進み、鏡合わせのように男の死角へ、死角へと回り込み続けた。
そのあまりの身のこなしに、貴賓席の連中まで身を乗り出している。
そして――一気に後方へ跳んだ。
それまでの怒濤の前進を、ピタリと止める。
間合いが開いた。
男は一瞬、呆然と俺を見た。
だが、都合のいい勘違いをしたらしい。
すぐに下品な笑みを浮かべた。
「逃げるかァッ!!」
男が全身の力を込める。
鉄球が真正面から叩きつけるように投げ放たれた。
距離が空いた分、鉄球は凄まじい勢いを得て一直線に飛来する。
目前に迫る巨大な鉄の質量。
避ければいい。
だが、俺は避けなかった。
身体の軸を固定する。
無駄を削ぎ落とし、最短距離を射抜く。
(形意拳――『劈拳』)
歩法から生まれた力を、掌へ。
俺は飛来する鉄球の中心を、寸分の狂いもなく真っ直ぐに打ち抜いた。
パァァァァァァン!!
闘技場全体を揺らすような衝撃音が爆ぜた。
掌が鉄球に触れた瞬間、その巨体が弾かれる。
鉄球はあり得ない方向へと吹き飛び、鎖を引きちぎりながら壁へ激突した。
ズガァァァン!!
分厚い壁に、鉄球が深々と突き刺さった。
「……次、いくよ」
「おのれ小僧!」
門番が吠え、拳を振りかぶる。
太い腕から繰り出される、力任せの大振り。
初見でも軌道が読める。
俺はあえて避けなかった。
両手を下から外へ回し、その拳を鮮やかに跳ね上げる。
ズザザザザッ!
完全にバランスを崩し、巨体が前のめりに泳いだ。
その瞬間、俺は一気に距離を詰める。
外回転した両手の掌が、左右の上腹部へ同時に叩き込まれた。
(十二形拳――『駘形拳』)
スパァァァン!
乾いた爆音。
巨体が文字通り、くの字に折れ曲がった。
そのまま男は大きく吹き飛び、砂埃を巻き上げながら、固く踏み固められた砂の上へ叩きつけられる。
門番と呼ばれた男は、二度と立ち上がらなかった。
(正直、東の国に潜入とか、陰謀を暴くとか、どうでもいいし、面倒くさいと思ってた)
(だけど、現世で店を潰して、落ちぶれて生きていた時に、馬鹿な俺でもわかったことが一つある)
(人生にとって大事なことは、大体面倒くさい)
俺は倒れた男を一瞥もせず、その場を後にした。
薄暗い控え室へ戻る。
そこには、次の出番を静かに待つムサシ・ミヤモトが、まるで彫刻のように座っていた。
二本の剣を傍らに置き、微動だにしない。
先ほどの俺の試合。
闘技場を揺らした衝撃音も、観客たちの喧騒も、確実に聞こえていたはずだ。
それでも、ムサシは一度もこちらへ視線を向けなかった。
しばらくして――。
冷酷なメインイベントの開始を告げる、重苦しい鐘の音が鳴り響いた。
ゴーン……。
「……出番だ」
ムサシが感情の欠片もない低い声で呟き、傍らに置いていた不気味に湾曲した二本の剣を、それぞれの手に取ってゆっくりと立ち上がる。
その孤高の背中が、通路のまばゆい光の中に消えていくのを、俺は無言のまま静かに見送った。
「兄さん、おいらたちも見に行こうぜ! ムサシの試合は、立ち見でもいいから見とかないと損だ!」
目を輝かせるフロドに肩を叩かれ、俺は小さく頷いた。
「そうだな。あいつの実力、見ておくか」
俺たちは控え室を抜け、熱気で沸騰しそうな観客席の端へと急ぎ足で向かった。
押し寄せる人の波をかき分け、ようやく視界が開ける。
その先に広がっていたのは――先ほどまでとは別世界のような、静まり返った闘技場だった。
中央に立つのは、ムサシ・ミヤモト。
二本の不気味に湾曲した剣を抜き放ち、夜の月明かりのような凍てついた光を刀身に宿している。
「兄さん、あれが呪われた剣って言われてる、村雨ブレードだよ」
すぐ隣のフロドが、声を潜めて教えてくれた。
「村雨ブレード……?」
「うん。斬った相手の血を吸うって噂があるんだ」
俺はムサシの手に握られた二本の剣を見つめた。
ただ立っているだけなのに、近づくことすら許さないような圧力があった。
(宮本武蔵のパクリかよ……と突っ込みたいところだが)
(……あの構え、隙がないな)
対面に立つのは、巨大なツヴァイハンダーを両手で構えたギルベルト。
「……遅い」
ムサシの唇が、わずかに動いた。
その刹那――。
ギィィン!!
二本の村雨ブレードと大剣が激突し、青白い火花が弾け飛んだ。
次の瞬間には、ムサシの二刀が別々の生き物のように動いていた。
右。
左。
斜め。
大剣の一撃を受け止めるのではない。
流す。
逸らす。
そして、その隙間へ刃を滑り込ませる。
速い。
あまりにも速い。
俺の目でさえ、すべての軌道を追い切れない。
一太刀浴びせるたび、村雨ブレードがギルベルトの血を吸い上げ、刀身の色を赤黒く変えていく。
そして――その刃は止まらなかった。
左の剣が外回りの軌道を描く。
ギルベルトが大剣を振り下ろした、その一瞬の隙。
ザンッ!
分厚い鉄のプレートアーマーごと、右膝下が斬り飛ばされた。
「ガ、アアアァァァッ!!」
ギルベルトが絶叫する。
巨体が前のめりに崩れ落ちた。
その首筋へ、右の村雨ブレードが滑り込む。
次の瞬間――。
男の身体から、首が離れた。
だが。
ムサシは止まらない。
刀そのものがムサシの肉体を突き動かしているかのように、斬撃が続く。
倒れたギルベルトへ、何度も、何度も刃が振り下ろされる。
やがて、闘技場に残ったのは、血を吸い尽くして妖しく光る村雨ブレードと、もはや人間の姿を留めていないギルベルトの残骸だけだった。
「兄さん……あれが三英傑の本気だよ」
すぐ隣で、フロドが小刻みに震えている。
「一度刀を抜いたら、相手が死ぬまで止まらないんだ……」
地鳴りのような歓声が闘技場を揺らす。
その中央で、ムサシは血に濡れた二本の刀を手に、ただ静かに立っていた。
俺は冷たい汗を拭うこともなく、その場を離れた。
(……あんなのを、これから相手にするのか)
(さっきの自分の試合が、まるでおままごとに思えてくる)
(あいつの剣に……俺の拳は届くのか)
喉の奥がヒリヒリと引き攣るような感覚が消えない。
それでも――立ち止まるわけにはいかなかった。
(あと何回勝てば、貴族たちの目に止まる?)
(もたもたしてられない)
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