第38話 蒼き拳の残光
闘技場を出ると、断崖に突き出したアズマリアの街並みは、傾いた夕日に照らされ、まるで世界全体が燃え盛っているかのように赤く染まっていた。
フロドは抱えた二つの革袋を一度しっかりと抱え直すと、喜びを隠しきれない満面の笑みで俺に向き直った。
「兄さん、俺、一度家に戻ってプリカを連れてくるよ!」
「ああ」
「せっかくのご馳走なんだ。プリカ抜きじゃ食べられないよ。……店で待ち合わせでもいいかな?」
「ああ、先に行ってる。適当に座ってるよ」
「分かった! すぐ戻るから、絶対先に始めないでよ!」
フロドはそう言い残すと、金貨が詰まった革袋の重さなどまるで感じさせないほどの勢いで、街外れにある自宅へ向かって一目散に駆けていった。
俺は一人、かすかに肌寒さを帯びてきた潮風が吹き抜ける崖沿いの道を歩き出した。
向かう先は、フロドから教えてもらった店――『飛龍の翼亭』。
断崖の絶壁からせり出した特等席のテラスからは、夕日に激しく焼かれた海が、どこまでも水平線へと広がっている。
「……一人だ。連れが後から二人来る」
入り口で給仕にそう告げ、俺はテラスの隅にある席へ腰を下ろした。
グラスに注がれた冷たい水を喉へ流し込みながら、静かに暮れゆく紺碧の海を眺める。
今日一日の出来事が、頭の中をゆっくりと流れていった。
闘技場。
ガッザ。
そして――三日後の本戦。
(……まずは、ここまで順調だな)
そんなことを考えていると、入り口の辺りが急に騒がしくなった。
「リュウジィ、勝ったんだって!? お疲れさま!」
息を切らせたフロドが、手を引いたプリカを連れて現れた。
「お兄ちゃん、速すぎるよ……!」
プリカが小さな息を切らしながら笑っている。
「お疲れさん」
俺が声をかけると、プリカはパッと花が咲いたように顔を輝かせた。
「うん!」
俺たちはそのまま揃って席に着いた。
目の前に次々と並べられていく贅沢な料理。
香ばしく焼かれた肉。
湯気の立つ煮込み料理。
色鮮やかな野菜料理。
そして、アズマリアならではの香辛料を使った料理。
一日の緊張から解放された二人の食欲の前では、それらが次々と消えていった。
「うめえ!」
フロドが夢中になって料理を頬張る。
「おいしい……!」
プリカも小さな口いっぱいに料理を詰め込み、幸せそうに頬を膨らませている。
慣れない豪勢な食事と、朝から続いていた激しい緊張の糸が、ようやく切れたのだろう。
プリカは最後の一口を飲み込んだ瞬間――
こくり。
こくり。
椅子に座ったまま、船を漕ぎ始めた。
「……ふわぁ」
フロドも大きく欠伸をする。
「兄さん、俺、もう一歩も動けないよ。プリカも限界みたいだ」
「じゃあ、帰るか」
「うん」
満足そうに丸い腹をぽんぽんと叩くフロドを促し、俺たちは店を出た。
夜の帳がすっかり下りた街を抜け、三人でいつもの家へとゆっくり引き上げる。
その夜は、何事もなく静かに過ぎていった。
翌朝。
アズマリアの街は、朝から異様な熱気に包まれていた。
硬質な石畳をリズミカルに叩く馬車の蹄。
行き交う人々の興奮した話し声。
店先から聞こえる呼び込み。
それらが、朝の冷たい空気とともに狭い路地裏の隅々まで入り込んでくる。
俺は、その熱気の中をフロドと並んで歩いていた。
まだ眠そうなフロドは、大きな欠伸を一つする。
一方、俺が一歩踏み出すたび、しなやかに揺れる黒い生地の上で、細やかな金色の筋が朝日にきらりと反射した。
フロドが横目で俺を見る。
「兄さんの服、相変わらず洒落てんなぁ」
「そうか?」
「うん。俺には絶対着こなせねえよ」
フロドは能天気にへらっと笑った。
だが、すぐに周囲をキョロキョロと見渡す。
「なあ、兄さん」
「ん?」
「今日の街の空気、普通じゃねえと思わないか?」
「……何かあるのか?」
「あるのか、なんてレベルじゃねえよ!」
フロドが興奮気味に声を上げた。
「今日は闘技場の『三英傑』の一人、あのタツヨ・ジョージの試合があるんだ!」
その名前を口にした瞬間だった。
すれ違った通行人たちが、一様に足を止めた。
「タツヨだってよ」
「今日はジョージの試合か!」
「絶対見に行くぞ!」
「チケットはもう無理だろうな」
あちこちからそんな声が飛び交う。
誰もが期待に胸を膨らませ、熱っぽい表情を浮かべていた。
その様子を見て、俺は少しだけ眉を上げる。
(……これが、三英傑か)
フロドはさらに興奮した様子で話を続ける。
「『アトラスの双拳』――あいつのガントレットに殴られたら、どんな鉄壁の魔法だって紙クズみたいに弾け飛ぶんだぜ!」
「へえ」
「あいつ、武器も魔法も使わねえで、両手の拳だけで戦う変なスタイルなんだけど、それがとんでもなく強くってさ!」
「拳だけ……?」
俺は、その言葉に反応した。
「そうそう! チケットはもう売り切れだろうけど、広場の巨大な投影魔石ならまだ見えるはずだ!」
フロドが俺の腕を引っ張る。
「目に焼き付けに行こうぜ!」
「……ああ」
俺たちは人の波に押し流されるように、街の中心広場へと足を向けた。
広場には、すでに身動きが取れないほどの黒山の人だかりができていた。
老若男女を問わず、誰もが広場の中央へ視線を向けている。
そこにそびえ立っていたのは、巨大な魔石だった。
不気味なほど青い光を放つ魔石から、闘技場の光景が空中へ投影されている。
砂埃が激しく舞い散るリング。
観客席を埋め尽くす大観衆。
そして――
その砂舞台へ、一人の男が悠然と姿を現した。
上半身は剥き出し。
鍛え抜かれた筋肉には無駄な脂肪が一切なく、百獣の王を思わせる野生のしなやかさを完璧に纏っている。
だが、俺が注目したのは、その身体ではなかった。
男が、ふっと戦闘態勢を取る。
重心。
足の位置。
肩の力の抜き方。
そして、拳を構えるまでの一連の動作。
その瞬間――
俺の脳裏で、かつての世界の記憶が稲妻のように鮮烈に蘇った。
(……ボクシング?)
この世界の人々には「変なスタイル」と呼ばれていようだ。
だが、俺には分かる。
間違いない。
あの独特の重心移動。
あのフットワーク。
あの拳の構え。
紛れもなく、俺の知る本物の拳闘だった。
「……」
だが、俺の視線はすぐに男の両拳へ釘付けになった。
そこに装着されていたのは、鈍い輝きを放つメタリックブルーのガントレット。
ただの防具ではない。
魔力の流れが見える。
その存在感。
その異質な圧。
(……間違いない)
『黒竜ファフニールの鎧』と同じ類の武具だ。
胸の奥で、ファフニールがわずかに反応した。
(あれも……選ばれた武具なのか?)
俺は目を細めた。
試合開始の合図が響き渡った。
タツヨが弾かれたように動いた。
速い。
だが――
俺が戦慄したのは、その速度ではなかった。
その動きに宿る、底知れぬ無慈悲さだった。
対戦相手の巨漢が、すべてを両断しかねない大剣を振り下ろす。
タツヨは紙一重。
ほんの僅かなステップで、その斬撃をかわした。
そして――
ガラ空きになった脇腹へ、左フックを叩き込む。
ドンッ!
鈍い衝撃音。
巨漢の身体が大きく沈み込む。
だが、タツヨは止まらない。
下がった頭部へ、鋭いジャブ。
バンッ!
巨漢が後方へ弾き飛ばされる。
それでもタツヨは追わない。
再び怒りに任せて振り回される大剣。
そのタイミングを完全に読んでいた。
左ボディーフック。
ドンッ!
さらにジャブ。
バンッ!
一発。
二発。
三発。
四発。
ドン!
バン!
ドン!
バンッ!
圧倒的な実力。
一撃で相手を沈めることなど、簡単にできるはずだ。
それなのに、タツヨはあえて致命傷を避けている。
倒さない。
終わらせない。
まるで相手をサンドバッグにでもしているかのように、拳を重ね続けている。
「……こいつ、遊んでる」
俺の口から、無意識に言葉が漏れた。
「左だけで倒す気か」
タツヨは笑っていた。
周囲から湧き上がる割れんばかりの歓声すら、心地よいスパイスにしているかのように。
ただ純粋に――
暴力による支配を楽しんでいる。
(……強い)
俺は画面越しに、その男を見据えた。
だが、同時に妙な感覚が胸の奥に湧き上がってくる。
(……面白い)
タツヨの足元が動く。
相手の大剣をかわす。
打つ。
離れる。
また打つ。
その一連の動作には、一切の無駄がない。
やがて、サンドバッグのように打ち据えられていた巨漢の足元が完全に崩れた。
その瞬間――
タツヨの全身の筋肉が爆発的な出力を生み出した。
踏み込み。
腰。
肩。
そして――
右ストレート。
ズドッオォォォ!
凄まじい轟音が広場を揺らした。
巨漢の身体が、まるで高速の衝突事故にでも巻き込まれたかのように、回転しながらリングの端へと吹き飛んでいく。
ドォォォンッ!
砂煙が舞い上がった。
次の瞬間。
広場を埋め尽くしていた観衆から、頭が割れんばかりの大歓声が爆発した。
「うおおおおおおおおッ!!」
「タツヨだ!」
「やっぱり三英傑は化け物だ!」
「ジョージ最高だぁぁぁッ!」
地鳴りのような歓声が、青空へ突き抜けていく。
「見たかよ兄さん!」
興奮のあまり絶叫するフロド。
「あの踏み込み、一撃でぶち抜いちまった……!」
「ああ」
俺は短く答えた。
だが、視線はまだ投影魔石に映るタツヨから離れない。
あの右ストレート。
あのフットワーク。
そして――
あのメタリックブルーのガントレット。
俺はゆっくりと踵を返した。
「えっ、兄さん? もう行くの?」
「ああ」
「まだ試合終わったばっかりだぜ?」
「十分見た」
人だかりを抜け、広場を離れる。
歩きながら、俺は拳を軽く握った。
胸の奥で、ファフニールが静かに蠢いている。
(……あいつも、あの武具に選ばれたのか)
そして――
(遠からず、あいつとは戦うことになる)
不思議と恐怖はなかった。
むしろ、胸の奥から別の感情が湧き上がってくる。
形意拳を積み重ねてきた者として。
同じく拳を武器とする者として。
あの男の拳が、どこまで届くのか。
そして――
俺の拳が、どこまで通じるのか。
確かめてみたくなっていた。
(……タツヨ・ジョージ)
俺は歩みを止めず、静かに笑った。
(次に会う時は、直接やろうぜ)
お読みいただきありがとうございました。もし気に入っていただけましたら、作品のブックマークや、下の星(☆☆☆☆☆)で応援をお願いします!次の更新の大きなエネルギーになります!




