第37話 狂乱の配当
闘技場から引き上げる薄暗い通路。
背後では、まだ現実を受け止めきれていない観客たちのどよめきが、底知れぬ地鳴りのようにいつまでも響いていた。
ひんやりとした石壁が続く通路へ足を踏み入れた、その瞬間――
闇に潜んでいた影が、勢いよく飛び出してきた。
「に、兄さん……!」
フロドだった。
俺に駆け寄ってくるなり、興奮のあまりパニックになったようにまくし立てる。
「つええなんてもんじゃねえ! 瞬殺だよ! 兄さん、今、何が起きたんだよ!? 俺、あんなの見たことないよ!」
「……」
「凄いよ! あのガッザを一撃で……一撃でぶっ飛ばしちゃうんだから!」
フロドは冷たい石壁に両手をつき、激しく上下する肩を押さえながら息を切らしていた。
「……お前、声でかいよ。落ち着け」
「だって、あんなの――!」
「札は?」
「え?」
「賭け札」
「あ、ああ!」
フロドは慌てて胸元へ手を突っ込んだ。
「札ならここにあるよ!」
賭け札を取り出すと、風で飛ばしてしまわないように両手でぎゅっと押さえる。
「でも、十二・五倍だぞ!? これ、本当にお金になるんだよね!?」
「ああ」
「窓口、窓口行かなきゃ……!」
「さっさと金に換えてこい。混む前にな」
「あ、ああ! そうだ、窓口!」
フロドは勢いよく立ち上がった。
「すぐ行ってくる! 兄さんは控え室で待ってて!」
俺の返事も待たず、パタパタと足音を響かせながら通路の奥へ消えていった。
たった一人になった。
静かな通路を、俺は控え室へ向かってゆっくり歩き出す。
すれ違う他の選手やスタッフたちは、先ほど目の当たりにした化け物を見るような目で俺を見ていた。
目が合う。
すると、すぐに視線を逸らす。
そして、誰もが俺の進路を避けるように道を開けていく。
(……なんだよ)
俺は少しだけ首を傾げた。
(そんなに怖がらなくてもいいだろ)
重い扉を開け、控え室へ入る。
すると――
あの口髭を生やした運営の男が、頭を抱えながら部屋の中を行ったり来たりしていた。
俺の顔を見た瞬間、男が跳ね上がる。
「おい、リュウジィ!」
「……何だよ」
「なあ、どうすんだよ、今の勝ちは!」
男は冷や汗を浮かべ、今にも泣きそうな顔で詰め寄ってきた。
「ガッザが、あんな簡単に負けるなんて……!」
「……」
「そんなの誰が想像するかよ!」
「俺に言われてもな」
「たった二発だぞ!?」
男は頭を抱えた。
「たった二発喰らっただけで、あいつが沈むなんて……。賭けの倍率だって無茶苦茶だし、上に何て説明すればいいんだよ!」
「知らねえよ」
俺は男を無視して、部屋の隅にある長椅子へどっかりと腰を下ろした。
「お前が勝手に俺を連れてきたんだろ」
「お、おい!」
男が慌てて声を上げる。
「動くなよ! そのままそこで待ってろ!」
「はいはい」
俺が適当に返事をすると、男は聞いているのかいないのか、バタンッと大きな音を立てて扉を閉め、控え室を飛び出していった。
静寂が戻った。
俺は長椅子に身体を預け、ぼんやりと天井を見上げる。
しばらくすると――
廊下の向こうから、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「兄さん!」
顔を真っ赤にしたフロドが戻ってきた。
その両腕には、ずっしりと重そうな革袋が二つも抱えられている。
「本当にお金になっちゃったよ……!」
フロドは革袋を抱えたまま、俺の隣へドスンと座った。
「これ、どうするのさ!」
俺は革袋をちらりと見る。
「俺の賭け金を引いて、残りは全部お前にやるよ」
「えっ!?」
フロドの目が丸くなる。
「全部って……兄さん、これ十二・五倍なんだよ!?」
「ああ」
「これだけあれば、しばらくどころか……」
フロドは革袋を見つめる。
「妹と二人で、もっとまともな暮らしだってできるんだぞ!」
「……」
俺はフロドを見る。
「だからだよ」
「え?」
「これから先、俺が何日この国にいるかわからない。お前たちには、何かと金が必要だろ」
「でも……」
「いいから持っとけ」
俺は軽く手を振った。
「これからいろいろ入用だろ」
フロドは黙り込んだ。
やがて、革袋を胸に抱きしめる。
「……兄さん」
「何だ?」
「ありがとう」
「礼なんかいいよ」
俺がそう言った、その時だった。
再び、通路から慌ただしい足音が近づいてきた。
今度は一人や二人じゃない。
ガチャガチャと鎧の擦れる音。
そして――
先ほどの口髭の男が、屈強な数人の兵士を引き連れて戻ってきた。
その中央には、一人の老人がいる。
身なりは質素だった。
だが、周囲の兵士たちが自然と道を空け、その老人が歩くたびに誰もが頭を下げている。
この場で最も立場が上なのは、明らかにこの老人だった。
老人は俺の前まで歩いてくると、静かに足を止めた。
「……リュウジィ、だったな」
俺は老人を見る。
老人も俺を見る。
その視線が、ゆっくりと俺の全身をなぞった。
黒竜ファフニールの鎧。
武器を持たない両手。
そして、何より――
つい先ほど、ガッザを一瞬で沈めた男そのものを値踏みするような目だった。
「今の試合は見せてもらった」
老人が口を開く。
「……面白いな」
「何が?」
俺が聞き返すと、老人は薄く笑った。
「君だよ」
「……」
「今日一日で、この闘技場の空気が変わった」
その言葉に、俺はわずかに目を細める。
老人は続けた。
「君が勝ったことだけではない。観客が何を見たのか、運営が何を考えたのか……それによって、明日からここで売られるものまで変わる」
「売られるもの?」
「強者の戦いだよ」
老人の目が鋭く光った。
「闘技場は、ただ人を戦わせる場所ではない。強者が現れれば、それだけで金になる」
なるほど。
この老人は、俺の強さだけを見ているわけじゃない。
俺という存在そのものに、どれだけの価値があるのかを見ている。
「どうだ?」
老人が一拍置く。
「三日後。本戦の枠で、特別な試合を組む」
そして、真っ直ぐ俺を見据えた。
「出てみる気はないか?」
俺は少し考えた。
「もっと強い奴とやらせてくれるんなら、出場してもいいぜ」
老人の口元がわずかに緩む。
「ああ、もちろんだ」
「……」
「ここ、本戦枠には、君が今日倒した男など相手にならないような、真の強者たちがひしめいている」
老人は自信ありげに言った。
「君なら、いい勝負ができるはずだ」
(……強い奴を倒していけば、最短で王宮へ行けるはずだ)
俺は胸の奥で静かに呟いた。
闘技場で勝ち上がれば、王宮に呼ばれる。
そして王女ヒルデガルドに近づける。
なら、やることは一つだ。
俺は老人を見据えた。
「いいぜ。三日後だな」
老人は満足そうに頷いた。
「……ふむ。いい返事だ」
そして、背を向ける。
「では、三日後の昼過ぎだ。期待しているよ」
老人は兵士たちを従え、足早に控え室を去っていった。
再び、俺とフロドだけになった。
静かな部屋の中で、フロドが不安そうな顔をしている。
「……兄さん」
「ん?」
「本当に、また戦うのかい?」
「ああ」
「これだけのお金があれば、もう危ないことなんてしなくていいのに」
フロドは革袋を抱きしめる。
「……なんだか、嫌な予感がするよ」
俺は少しだけ考えた。
そして、凝り固まった首を左右に鳴らす。
「……ああ」
手首を軽く回す。
「ちょうどいい」
立ち上がる。
「一つずつ進めるだけだ」
「……」
不安そうな顔をしたまま、フロドが革袋を抱え直す。
俺はそんなフロドに背を向けた。
「行くぞ」
「え?」
「まずは飯だ」
俺は振り返る。
「金はあるんだろ?」
一瞬、フロドが呆気に取られた顔をした。
それから――
「……うん!」
ぱっと笑顔になる。
「兄さん、今日は俺の奢りだ!」
「おう」
「この街で一番旨いもん、腹いっぱい食わせてやるよ!」
「期待してるぞ」
俺たちは控え室の重い扉を開けた。
ひんやりと冷たい石造りの通路へ踏み出す。
鉄格子の隙間からは、まだ興奮の冷めやらぬ観衆たちの狂騒が、遠くから波のように押し寄せてくる。
俺はその声を背中に聞きながら、眩しい外の光へ向かって歩いた。
三日後。
俺はこの闘技場で、さらに強い奴と戦う。
そして、その先には王宮がある。
(待ってろよ、ヒルデガルド)
俺は静かに笑った。
そのまま、闘技場の外へ踏み出した。
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