第35話 砂塵の円形闘技場と夕景の香
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翌朝。
宿代代わりの五〇〇〇ゴルドを受け取ったフロドは、昨日よりもどこか誇らしげに背筋を伸ばし、俺の前を嬉しそうに歩いていた。
時折、後ろを振り返っては石灰岩の坂道にある足元の凸凹を教えたり、アズマリア特有の赤瓦の家々を指差したりする。
「兄さん、こっちは市場に行く道だよ」
「へえ、そうなのか」
「うん! それで、あっちに行くと……」
一生懸命に「案内人」としての役目を果たそうとしている。
その健気な姿を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
(さて、どうやって王宮の奥へ潜り込むか……)
王の密命である以上、表立って無茶な真似をするわけにはいかない。
何より、この小さな案内人と、家で待っている幼い妹を、危険に巻き込むわけにはいかなかった。
そんなことを考えながら歩いているうちに、俺たちは街の中心へと続く緩やかな坂を登り切った。
その瞬間――
視界が、一気に開けた。
街中の道が、まるでそこへ吸い込まれていくように一本の巨大な建造物へ向かって伸びている。
純白の石を幾重にも積み上げた、巨大な円形の建造物。
空へ突き刺さるようなその高さに、俺は思わず足を止めた。
「兄さん、見てよ!」
フロドが嬉しそうに声を上げる。
「あれが世界一の闘技場だぜ! この国の自慢なんだ!」
フロドは誇らしげに鼻を鳴らし、顎をしゃくった。
「すごいな……」
近くで見ると、その巨大さはさらに際立っていた。
これほどの建造物を、人間が戦うためだけに造ったのか。
「ここはさ、魔法使いは絶対に入れないんだ」
フロドが得意げに説明する。
「あいつらが派手に魔法なんか使ったら、街までメチャクチャになっちゃうだろ?」
「なるほどな」
「だから使えるのは、自分の剣とか体だけ」
フロドは楽しそうに続けた。
「死にたくないから、みんな必死で殴り合うんだ」
その言葉に、俺は少しだけ眉を動かした。
「……死ぬのか?」
「そりゃ死ぬよ」
あっさりとした答えだった。
「でも、今日は平日だから、お客さんは全然いないけどさ。その分、途中からでもすごく安く入れるよ」
そして、俺の腕を引っ張る。
「ねえ、兄さんも見ていこうよ!」
(これが、カエデの言っていた闘技場か)
俺は静かに頷いた。
「そうだな。少し見ていくか」
フロドに数枚のゴルドを手渡す。
ひんやりと冷えた石の回廊を抜け、薄暗い通路を進んでいく。
その先で観客席へ出た瞬間――
俺は、言葉を失った。
視界いっぱいに広がっていたのは、すり鉢状にどこまでも続く巨大な観客席だった。
平日ということもあって客はまばらだ。
パラパラと響く拍手が、広大な空間に虚しく吸い込まれていく。
だが――
眼下の舞台だけは、別世界だった。
砂の舞う殺風景な舞台の上で、二人の男が互いの命を削り合っている。
一人は、錆びついた巨大な斧を狂ったように振り回す大男。
もう一人は、長剣と小さな盾を構え、傷だらけの身体を低く沈めている。
獣のような姿勢で、わずかな隙を必死に探していた。
「死ねッ! 死ねよおぉッ!!」
大男の絶叫が闘技場に響き渡る。
巨大な斧が振り回されるたび、空気が唸った。
ドォンッ!
長剣の男が盾を叩きつけ、斧の軌道を逸らす。
ガギィィィィィィンッ!!!
鋭い金属音が響いた。
激しい火花が散る。
盾越しに伝わった衝撃に、男の腕が痺れたように震えた。
「はぁっ……はぁっ……ガフッ!」
息が続かない。
長剣の男が膝をわずかに揺らした。
その瞬間――
大男が獣のような咆哮を上げた。
「死ねぇぇぇッ!!」
斧が振り下ろされる。
「――!」
ズンッ!!!
生々しい音が響いた。
巨大な刃が、長剣の男の肩口へ深々と食い込む。
鎖骨を砕き、そのまま胸元まで斬り裂いた。
「あ、が……ッ……」
口から鮮血が噴き出す。
熱い血が砂の上へ撒き散らされた。
大男が斧を引き抜く。
その瞬間、長剣の男の身体から力が抜けた。
ドサッ。
砂の上に倒れる。
さっきまで必死に生き残ろうとしていた人間が、もう動かない。
静まり返った舞台に、血の臭いだけが残った。
俺は息を呑んだ。
そして、ふと視線を上げる。
はるか上方。
そこに、他の観客席とは明らかに造りの違う、豪華な貴賓席があった。
その中央に、一人の女性がゆったりと腰掛けている。
流れるようなプラチナブロンド。
白い石の椅子。
背筋を伸ばした優雅な姿。
目の前で人が殺されたばかりだというのに、その姿には微塵の乱れもない。
そして――
紫色の瞳。
そこに温もりはなかった。
女性は、砂の上に転がる男の死体を見下ろしている。
まるで、興味を失った本を閉じるような目だった。
「……あそこに座ってるのが、この国の王女様」
フロドが、怯えたように声を潜めた。
「ヒルデガルド様だよ」
「王女……」
「うん」
フロドは小さな声で続けた。
「あの人、本当に闘技場が好きなんだ」
そして、貴賓席を見上げる。
「お客さんがいない平日だって、あそこからずっと見てるんだぜ」
「何を?」
フロドは答えた。
「誰が勝つか」
一拍。
「誰が死ぬか」
俺は黙ってヒルデガルドを見つめた。
あの女は、何を考えている?
人が死ぬことを見慣れているのか。
それとも――
最初から、人の死に何の価値も感じていないのか。
俺には分からなかった。
やがて、血に染まった砂舞台の片付けが始まった。
それでも俺は、しばらくその場から動けなかった。
闘技場を後にする頃には、アズマリアの空はすべてを焼き尽くすような鮮烈な夕焼けに染まっていた。
「……凄かったな」
俺が呟くと、フロドが嬉しそうに笑った。
「だろ?」
そして胸を張る。
「週末のスター選手たちは、今の十倍はヤバいんだから!」
「十倍かよ……」
そんな話をしながら歩いていると、フロドが突然立ち止まった。
「兄さん、ちょっと待ってて!」
「え?」
返事をする間もなく、フロドが走り出した。
街の向こうへ消えていく。
しばらくすると――
「兄ちゃん!」
フロドが戻ってきた。
その隣には、小さな少女がいる。
「リュウジィ兄ちゃん、おかえりなさい!」
プリカがペコリと頭を下げる。
その笑顔を見た瞬間、俺は少しだけ目を細めた。
ついさっきまで、目の前で人が殺されていた。
血と死の臭いが、まだ鼻の奥に残っている。
なのに――
この少女の笑顔を見ていると、その光景が少しずつ遠ざかっていくような気がした。
「よし、お待たせ」
俺は笑う。
「今日は約束通り、オーグの煮込みを食べに行こう」
「やった!」
プリカが嬉しそうに声を上げた。
俺たちは街の片隅にある、小さな路地裏の店へ向かった。
店内には、湯気と香ばしい匂いが立ち込めている。
運ばれてきたのは、『アズマリア風・オーグの煮込み』。
骨付きのオーグ肉が、飴色になるまでじっくりと煮込まれている。
独特の強い酒と、コクのある黒糖。
長時間煮込まれた肉は、箸を入れただけでほろりと崩れた。
俺も一口食べる。
「……うまいな」
「わあ……!」
プリカが目を輝かせる。
「お肉、プルプルしてる……!」
小さな両手で器を包み込み、一生懸命に肉を頬張っている。
その姿を見て、俺は自分の皿に入っていた肉を少しだけ彼女の碗へ分けてやった。
「ほら。こっちも食べな」
「いいの?」
「ああ」
「ありがとう!」
フロドも勢いよく飯をかき込んでいる。
プリカは幸せそうに、小さな口をもぐもぐと動かしている。
俺はそんな二人を眺めながら、穏やかな夕食を楽しんでいた。
――その時だった。
「おい!」
店の入り口から、乱暴な怒鳴り声が響いた。
「何で席が空いてないんだよ!」
店内の空気が、一瞬で凍りつく。
「サッサと空けろよ!」
店主が青ざめた顔で何度も頭を下げている。
「す、すみません……」
「俺を誰だと思ってんだよ!」
その声を聞いた瞬間、フロドの顔から笑顔が消えた。
「……げっ」
小さく呟く。
「ダイナマイトキッドだ」
「誰だ?」
「闘技場の剣闘士だよ」
フロドが声を潜める。
「今、破竹の五連勝中なんだ。でも……」
その先を言うのを躊躇う。
「勝つだけじゃない。相手をわざと残酷にいたぶることで有名なんだ」
俺は男を見る。
スキンヘッドの巨漢。
腰には、不気味に錆びついた鎖付きのトゲ鉄球がぶら下がっている。
せっかくの楽しい時間を、土足で踏みにじられた。
胸の奥に、静かな怒りが湧き上がってくる。
俺は椅子から立ち上がった。
「ちょっと待って、兄さん!」
フロドの焦った声を背中に受けながら、俺は入り口へ向かう。
そして、男の前に立った。
「なんだ?」
男が下卑た笑みを浮かべる。
「小僧!」
俺は冷静に男を見据えた。
「ちょっと表に出ましょうか」
「は?」
「迷惑なんで」
男の顔から笑みが消えた。
「誰に向かって言ってんだよ」
腰の鉄球がジャラリと鳴る。
「怪我じゃすまねえぞ」
「知らねえよ」
俺の胸の奥で、怒りがさらに熱を増していく。
「このクソ野郎」
その瞬間――
ファフニールが呼応するように反応した。
胸の奥が熱い。
力が、身体の奥からせり上がってくる。
俺は一歩、前へ出た。
そして――
開いた掌で、男の分厚い胸元を軽く押した。
ドンッ!!!
一瞬だった。
暴力的な衝撃が男の巨体を吹き飛ばす。
「うおっ!?」
男はそのまま店の外へ飛び出し、石畳の上を転がった。
俺も落ち着いた足取りで、その後を追う。
「殺してやるッ!」
男が泥臭く立ち上がった。
顔を真っ赤にして、腰からトゲ鉄球を引き抜く。
鎖がジャラジャラと鳴った。
「死ねぇッ!」
鉄球が頭上で唸りを上げる。
そして――
一直線に投げ飛ばされた。
「遅いよ」
俺は身体をわずかに傾けた。
鉄球が頬の横を掠め、そのまま背後へ飛んでいく。
同時に、俺は懐へ踏み込んだ。
男の手首を掴む。
「なっ――」
次の瞬間。
身体を沈める。
鉄球をかわして懐に入り、武器を持っている手首を掴んで、その腕の脇の下を前腕で跳ね上げた。
「ぐおおおおッ!?」
巨体が宙に浮く。
そのまま――
ドォォォンッ!!!
男の身体が石畳へ叩きつけられた。
地面が震える。
男はそのまま動かなくなった。
「……」
店の前に、静寂が落ちた。
フロドが目を見開いている。
「つえええええっ!」
そして叫んだ。
「てか、強えなんてもんじゃねえ!!」
冷たい石畳の上で、ダイナマイトキッドは完全に沈黙している。
五連勝中の剣闘士。
俺も、少しは期待していた。
だが――
蓋を開けてみれば、あまりにも呆気ない。
俺は店の入口で呆然と立ち尽くしている店主のところへ戻った。
「これ、修理代と迷惑料です」
数枚のゴルドを手渡す。
「えっ、あ、ありがとうございます……」
店主が呆然としたまま頭を下げた。
俺は振り返る。
「フロド」
「う、うん!」
「早く食べよう」
「えっ?」
俺は何事もなかったかのように笑った。
「料理、冷めちゃうぞ」
「……兄さん、マジで何者なんだよ」
呆れたようなフロドの声を背中に聞きながら、俺は再び店の暖簾をくぐった。
外では、夕暮れのアズマリアに夜の帳が下り始めていた。
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