第34話 緋色の風の街
王宮を後にした俺は、馬車に揺られながら自分の店へと戻った。
『ギャングスター』の重厚なドアを開けた瞬間、熱気が頬を叩く。
一階の焼き肉フロアは、世界五大珍味の一つであるキングオーグの肉が放つ、濃厚で芳醇な脂の香りに満ちていた。
店内では客たちが豪快に肉を焼き、笑い声を響かせている。
総支配人のハクさんは、今日は一階に出ていた。
忙しく働く店員たちの様子を眺めながら、食事を楽しむ客たちの笑顔を、温かな眼差しで見守っている。
二階は、一階の喧騒や煙が届かないよう、厚いガラスと魔法の障壁で仕切られた特別席だ。
そこからは、ドレスを纏った女たちの華やかな笑い声と、上質なクリスタルグラスが触れ合う澄んだ音が、わずかに降りてきていた。
俺は真っ直ぐにカウンターの隅へ向かう。
そこではカエデが、周囲の喧騒などまるで気にする様子もなく、鋭い手つきで忙しなく帳簿をめくっていた。
「カエデ。悪いが、ハクさんとバッドを呼んで裏の小屋に来てくれ。……少し、話がある」
俺の声音から何かを察したのだろう。
カエデは手にしていたペンをピタリと止めた。
「……分かりました」
小さく頷くと、ハクさんへ視線を送り、続いて二階にいるバッドへも静かな合図を送る。
それから、三人は俺の後を追って裏手の小屋へと集まった。
表の活気ある喧騒も、壁一枚を隔てるだけで遠くくぐもって聞こえる。
その静かな場所で、俺は胸の内に抱えていた重荷を押し出すように口を開いた。
「王から直接、アズマリアへの潜入を頼まれた」
三人の表情が変わる。
「例の王女が絡んだ一件。どうやら、あのアズマリアが黒幕らしい」
俺は一度、息を吐いた。
「明日、俺が直接向かって中を探ってくる」
「アズマリア……」
カエデが、その名を拒絶するかのように小さく息を漏らした。
わずかに肩がこわばっている。
「あそこは、この国とは何もかもが違います」
カエデは静かに続けた。
「特に軍事に力を入れていますし、何より世界最大の闘技場があります。世界中から荒くれ者が集まる場所です」
「兄貴、何言ってるんすか!」
バッドが椅子から身を乗り出した。
「そんな得体の知れない場所に、一人で行かせるなんて……俺も連れてってくださいよ!」
切実な焦りが、その瞳に浮かんでいる。
「邪魔な奴らは俺が全部ぶっ飛ばして、道を空けますから!」
その震える肩を、ハクさんが大きな手でそっと制した。
優しい仕草だった。
だが、そこには逆らうことのできない確かな重みがあった。
「バッド、落ち着きなさい」
ハクさんは穏やかな声で言った。
「リュウジィ殿がいない間、誰がこの店を守るというのです?」
「……」
「ここは、我らで守り抜くと決めた場所でしょう」
静かな言葉だった。
それでもバッドには十分だった。
悔しげに奥歯をギリリと噛み締め、固く握りしめた拳を震わせる。
「……分かってますよ、そんなこと」
しばらく俯いていたバッドが、絞り出すように言った。
「……兄貴、頼みますから、絶対に無茶はしないでください」
その声には、いつもの威勢がなかった。
「兄貴がいない店なんて……ちっとも面白くないんだ」
赤らんだ目に浮かぶ本気の不安を見て、俺は小さく息を吐いた。
「……ああ」
それ以上、余計な言葉は必要なかった。
「留守は頼んだぞ」
「はい。任せてください」
俺は椅子を引いて立ち上がった。
仲間たちの視線を背中に感じながら、小屋を出る。
そして、そのまま店を後にした。
夜の冷たい空気を肺の奥まで吸い込みながら、自宅へ戻る。
静まり返った部屋で、明日の旅に必要な荷物を革袋へ手早く詰め込んでいく。
アズマリア。
俺にとっては、まだ何も知らない未知の国だ。
潜入任務ということもあり、不安がないと言えば嘘になる。
だが、考えていても仕方がない。
俺は荷物をまとめると、明日に備えて深い眠りについた。
翌朝。
まだ夜が明ける前の、蒼白とした世界の中で王都を発った。
それから数日に及ぶ長い旅を経て――
俺はついに、アズマリアの国境を越えた。
馬車を降りる。
足元には白い石灰岩の坂道が続いていた。
息を切らせながら坂を登り詰めると、その先に独特な形をしたグスクが姿を現した。
そして、その向こう側に広がっていた光景に、俺は思わず足を止めた。
「……」
断崖の上に広がる、見たことのない街。
鮮やかな赤瓦の屋根が幾重にも連なり、その間を縫うように道が伸びている。
行き交う人々も、王都で見慣れた服装とはまるで違った。
色鮮やかな民族衣装。
頭に布を巻いた者。
荷物を抱えて足早に歩く商人。
露店の前で値段を交渉する客。
街全体が、どこか忙しない。
だが、騒がしいわけではない。
商人たちのやり取りは驚くほど簡潔で、必要なことだけを伝え、すぐに次の仕事へ移っていく。
そこには、この国独特の実利的な活気があった。
「ここが……アズマリアか」
俺は思わず呟いた。
王都とは、空気そのものが違う。
同じ人間が暮らす国なのに、まるで別の世界へ来たような感覚だった。
さて。
まずは腹ごしらえと、今夜の宿だな。
俺は肩に掛けた革袋をぐっと持ち直した。
そして活気ある人波に混じりながら、手頃な店はないかと街中を見回し始めた。
少し歩いたところだった。
「ねえねえ、そこの黒い服着た兄さん!」
突然、背後から声を掛けられた。
振り返る。
そこに立っていたのは、日に焼けた肌に薄汚れた民族衣装を着た少年だった。
頭には鉢巻きを巻いている。
年齢は、俺よりはるかに下だ。
それでも、その瞳には妙に強い光が宿っていた。
「兄さん、この国初めてだろ?」
少年は俺の服装を指差す。
「その服を見たら分かるよ。観光? 案内人探してない?」
一息ついて、少年は胸を張った。
「俺のこと雇わない? 絶対に損させないから!」
ずいぶんと必死だ。
俺は少年の顔を見ながら尋ねた。
「本当に詳しいの?」
「当たり前だよ!」
少年は即答した。
「おいら、アズマリアの隅から隅まで知ってるよ。一日二〇〇〇ゴルドでどうかな? 安いでしょ?」
商売慣れしているようにも見える。
だが、その声の奥には、必死さが滲んでいた。
俺は思わず微笑んだ。
「じゃあ、先ずは飯だな」
「え?」
「どこかないかな? この国の名物とか、旨い店」
少年が目を丸くする。
「お前も一緒に食べよう」
まさか、そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。
少年はしばらく俺の顔を見つめていた。
やがて、どこか愛らしい上目遣いになって、小さな声で言った。
「兄さん……凄く嬉しいけど」
少年は少しだけ迷うように視線を落とす。
「おいら、今は腹減ってないから……その店の料理、持って帰ってもいいかな?」
その一言で、何となく分かった。
自分が食べたいのではない。
家で待っている誰かに、食べさせたいのだ。
俺の胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「もちろん構わないよ」
そして、ふと思いついて尋ねる。
「ちょっと待って。……両親は?」
少年の表情が、ほんの少しだけ曇った。
「いないよ」
短い答えだった。
「妹と、おいらだけだよ」
そう言って少年は笑った。
その笑顔は明るかった。
だが、その奥に隠された寂しさを、俺は見逃せなかった。
胸の奥がキュッと締め付けられる。
俺は少年を見つめた。
そして、決意するように口を開いた。
「お前の家って……俺一人ぐらい寝られるかな?」
「寝られないことないけど……汚いし、狭いよ」
少年は不思議そうに首を傾げる。
「……なんで?」
「この国には、しばらくいるからな」
俺は笑った。
「一日五〇〇〇ゴルドでどうだ?」
少年の目が大きく見開かれる。
「宿代込みだ。何か美味しい物を買って、三人で食べよう」
「本当に?」
少年の声が震えた。
「本当に、本当に?」
次の瞬間。
「有り難う!」
満面の笑顔が弾けた。
「俺の名前、フロド!」
少年は嬉しそうに名乗った。
「兄さんは?」
「俺の名前はリュウジィ」
俺も笑って答える。
「宜しくな、フロド」
「うん!」
フロドに案内された店で、温かい料理をいくつかテイクアウトする。
料理を抱えたフロドと並んで歩きながら、俺たちはいろいろな話をした。
街のこと。
アズマリアのこと。
そして、フロド自身のこと。
そうして辿り着いたのは、街外れにある古びた家だった。
「ここ?」
「ああ、ここだよ」
フロドが扉を開ける。
家の中は、噂通り古くて狭かった。
だが――
「お兄ちゃん!」
奥から、小さな少女が駆けてくる。
十歳ほどだろう。
少女――プリカは、フロドの姿を見るなり、まるで花が一気に咲いたような満面の笑みを浮かべた。
「ただいま、プリカ!」
「おかえり!」
兄妹が抱き合う。
その光景を見ていると、何とも言えない温かな気持ちになった。
赤瓦の隙間から差し込む夕日が、古びた家の中を柔らかく照らしている。
俺たちは買ってきた料理を広げた。
決して豪華な食卓ではない。
それでも――
三人で囲むその食卓には、どこか温かな空気が満ちていた。
アズマリアへ来た初日。
俺はまだ知らない。
この小さな兄妹との出会いが、この国での俺の旅に――
どんな意味を持つことになるのかを。
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