第33話 龍の苦痛と龍の魂
前触れもなく、空間の密度が唐突に変わった。
まるで透明な空気そのものが、急に凝固して実体を持ったかのようだった。
そして――男が、そこに立っていた。
(……誰だこいつ! まったく気がつかなかったぞ)
至近距離まで詰め寄られていた。
その事実に気づいた瞬間、背筋を冷たいものが走り抜ける。
漆黒の甲冑に身を包んだ、岩のように大柄な体格。
その右手に提げられているのは、武器と呼ぶにはあまりにも荒々しい、巨大な鉄の塊だった。
洗練された美しさなど欠片もない。
ただ、目の前にいる相手の肉体を叩き潰すためだけに存在している。
リブルが「はっ!」と息を呑んだ、その刹那。
凄まじい轟音が王宮内に響き渡った。
鉄の塊が、空気そのものを叩き潰すような勢いで振り抜かれる。
リブルめがけて、容赦なく襲いかかった。
ガキィィィィィィンッ!!!
耳をつんざく金属音。
リブルは咄嗟に剣を立て、その一撃を受け止めた。
だが――
「ぐっ……!」
受け止めきれない。
溢れ返る衝撃に、リブルの巨体が浮き上がった。
そのまま、まるで紙屑のように後方へ吹き飛ばされていく。
「くっ……おおおぉぉ!」
必死に踏ん張るリブルの両足が、王宮の頑強な床を深く削った。
ズザザザザザザザッ!!!
凄まじい摩擦音とともに火花が散り、リブルの身体がようやく止まる。
その光景を目にしながら、俺は別の異変を感じ取っていた。
この男が現れてからというもの、ファフニールの反応が尋常ではない。
内側から沸騰するようにせり上がってくる、熱い波動。
跳ね上がる出力の限界値。
暴力的なまでの力が、俺の全身へと叩き込まれてくる。
(……わかっているよ、ファフニール)
(こいつはヤバい。本物の『バケモノ』だ)
恐ろしいことに、目の前の男からは驚くほど殺気が感じられない。
表情も、まるで人形のように無機質だった。
なのに――怖い。
何を考えているのか、まるで分からない。
その感情の読めなさが、かえって男の異様さと底知れぬ脅威を際立たせていた。
「相変わらず何やってんだ、サイコ野郎」
男は、吹き飛ばされたリブルを見ながら、呆れたように言った。
そして、ふとリブルの剣へ視線を落とす。
「しかし、あれだな。お前の剣はブンブン、ブンブン。ハエか? あっははは!」
「てめぇ……パッキャオ!」
リブルが顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
だが、当の男――パッキャオはどこ吹く風だった。
「てめぇでも何でもいいけどさ」
肩をすくめる。
「ここ、王宮だろ?」
パッキャオは周囲を見回し、面倒くさそうに息を吐いた。
「立場上、止めなきゃいけねえだろ。めんどくせぇな」
そう言うと、パッキャオはリブルへの興味を完全に失ったように視線を外した。
そして――俺を見る。
一歩。
ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
その足取りには焦りも緊張もない。
まるで、散歩でもするかのようだった。
なのに、俺の身体は動かなかった。
「俺さ、サウスチェケラッチョに第一王女殿下の公務で行ってたんだよ」
パッキャオは歩きながら、何でもないことのように話す。
「……お前か?」
その視線が、俺を射抜いた。
「ファフニールに選ばれたのは」
気づけば、すぐ目の前まで来ていた。
パッキャオが顔を覗き込んでくる。
逃げ場のない至近距離。
その瞬間――
俺は、生まれて初めて本能的な恐怖を覚えた。
四十六年、生きてきた。
命の危険を感じたことくらい、何度もある。
だが、これは違う。
「生きたまま食われる」
そんな野生の恐怖を、身体そのものが訴えていた。
パッキャオが、ニヤリと笑う。
「坊や」
その眼光に、俺の喉が無意識に鳴った。
「今度、俺と遊んでくれ」
不敵な笑み。
その一言だけを残すと、パッキャオは俺から離れた。
背中に着けたハーネス状の鎖のホルダーへ、巨大な大剣を乱暴に引っ掛ける。
そして――
何事もなかったかのように、王宮の奥へと歩き去っていった。
その後ろ姿を、リブルはいつまでも険しい眼差しで睨みつけている。
「リブル」
俺はようやく口を開いた。
「あのヤバい人、誰だよ?」
「うるせえ! あの野郎……!」
荒々しく吐き捨てると、リブルもまた悔しそうに王宮の中へと消えていった。
(リブルと初めて対峙した時もヤバいと思ったが……それの比じゃない)
重い静寂だけが、その場に残った。
その時だった。
「ジラルデ・パッキャオ」
背後から、女の声がした。
反射的に振り返る。
そこに立っていたのは――
キングフォーン最強魔術士、ローザ・カイリだった。
「……っ!」
俺は息を呑んだ。
まただ。
彼女がそこにいることに、まったく気づかなかった。
「久しぶり。リュウジィ君、元気だった?」
ローザは蠱惑的な金色の瞳を細め、微笑んだ。
「知りたいんでしょ? 今の奴のこと」
「教えて下さい」
即答だった。
ローザは楽しそうに首を傾げる。
「どうしようかな?」
そして、悪戯っぽく笑った。
「今度、お店に行ってもいい?」
「いつでも来て下さい」
俺は苦笑する。
「でも、この前みたいに二階はダメですよ。あの時は焼いた肉を持って行きましたが、やっぱり一階で焼きたてを食べるのが一番美味しいですから」
「わかったよ。決まりだね」
ローザは満足そうに頷いた。
「じゃあ、教えてあげる」
金色の瞳が、再び俺を捉える。
「あいつはね。この国最強の剣士」
一拍。
「ランクS。王直属の騎士団団長――ジラルデ・パッキャオ」
その名を聞いた瞬間、先ほどの巨体が脳裏に蘇った。
「竜殺しの男」
「竜殺しって……」
俺は思わず聞き返した。
「本当に、この世界に竜なんているんですか?」
「えっ?」
ローザが目を丸くする。
「いるわよ。面白いこと言うのね。常識じゃない」
(本当にいるのかよ?)
(まだエルフとゴブリンとか、俺は見たこともないぞ)
自分が知っている世界と、この世界の常識が少しずつズレていく。
その感覚に、背筋がざわついた。
「あいつは本当に竜を殺したよ」
ローザは何でもないことのように続ける。
「あの伝説の剣の一つ、ドラグ・ベインでね」
「ドラグ・ベイン……?」
「そう」
ローザの表情から、わずかに笑みが消える。
「その意味は『龍の苦痛』」
静かな声だった。
「龍を殺すためだけに生まれた、呪物のような剣よ」
俺は黙って聞いていた。
「あんなものを持ち歩いているから、あいつ自身も人間離れしちゃうのよね」
その言葉を聞いた瞬間だった。
俺の中で、すべてが繋がった。
(龍の苦痛……)
(だから、ファフニールがあそこまで反応したのか)
先ほど感じた、あまりにも激しい波動。
身体の奥から湧き上がった、あの恐怖。
俺はゆっくりと、自分の胸元へ手を当てた。
(喰われると思ったのは……俺じゃない)
(俺の中にある――『龍の魂』だったのか)
冷たい汗が、背筋を伝っていく。
俺は何も知らない。
この世界に竜がいることさえ、知らなかった。
エルフも、ゴブリンも、まだこの目で見たことがない。
そして、この世界には――
俺がまだ知らない、俺では到底届かない存在がいる。
王直属の騎士団長。
竜を殺した男。
そして、その男ですら「人間離れしている」と言われる世界。
ファフニールの力を得たことで、自分は強くなったと思っていた。
だが――
それは、あまりにも狭い世界の中での話だった。
俺はただ、立ち尽くしていた。
自分の無力さと――
この世界の果てしない広さを、初めて思い知らされながら。
お読みいただきありがとうございました。
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