第31 話凱旋、そして散歩の終わり
王都へ戻る馬車の窓を叩く風は、出発前とは違ってどこか優しく感じられた。
胸元に手をやると、漆黒のベロア生地が、俺の鼓動に応えるように微かに波打つ。
(……相変わらず、趣味のいい手触りだな、ファフニール)
(フン、主の「心」が反映した形だ。しかし、こんな妙な服は見たことがないな)
脳内に響く黒竜の不遜な声。一千五百人を飲み込んだ呪いの鎧は、今や俺の皮膚の一部として、内功の巡りを加速させる最高の器となっていた。
『ギャングスター』の重厚な扉を開けると、そこにはキングオーグの焼肉が放つ暴力的な香りと、活気に満ちた夜の熱気があった。一階ではバッドの母親が威勢よく客を捌き、総支配人のハクさんが音もなくフロアの秩序を掌握している。
二階の事実上の責任者であるバッドが、俺の姿を見つけるなり焦燥しきった様子で駆け寄ってきた。
「兄貴、やっと帰ってきてくれた。てかその服?あっそうだ、それよりも第二王女様がお見えなんです。裏の小屋で、兄貴が帰るまで動かないって聞かなくて……」
(……王女が? なぜ、よりによってうちの裏小屋に?)
王宮の謁見の間で一度顔を合わせただけの相手だ。個人的に訪ねてくるような接点は微塵もないはずだった。
俺は湧き上がる不可解さを抑え、裏の小屋へと足を向けた。
扉を開けると、深い紺色のドレスを纏ったリリス王女がいた。王宮での時とは違い、どこか落ち着かない様子で三日月のチョーカーをいじっている。
「リュウジィ! やっと戻ったのね」
彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見ると、王女らしい気まぐれな響きを含んだ声で言った。
「お願いがあるの。週に一度でいいから、私のガードになって。騎士としてじゃなく、私の『お供』として、この街を案内してほしいの。……あなたみたいな人が見ているこの街を、私は知る必要があると思うから」
一度会ったきりの王女に、いきなり街の案内を頼まれる。理解不能な状況に、俺にあるのは純然たる面倒くささだけだ。だが、このまま彼女に居座り続けられても商売に差し障る。
「……いいでしょう。週に一度、あなたの『お供』になって差し上げますよ」
「約束よ。……じゃあ、今日はもう帰るわね」
満足そうに微笑むと、リリスはソファに置いていた外套を羽織った。
彼女が小屋の扉を開けると、そこには夜の闇に溶け込むようにして、騎士団の精鋭数名が音もなく直立していた。
「……外に待たせていたんですか。人目に付くような真似は困りますよ」
「大丈夫よ、彼らには『存在を消して待っていろ』って命じてあるんだから。……じゃあ、また明日。職人街でね」
リリスは騎士たちが恭しく開けた馬車の扉へと吸い込まれ、重厚な蹄の音と共に夜の街へと消えていった。
(……明日か。わざわざ目的地まで指定するとは、念入りなことだ)
だが、その時は気づかなかった。王女が明日どこへ向かうかという情報を、闇に潜んで聞き耳を立てていた「影」がいたことに。
――翌日の昼前。
職人街は、金属を叩く音と熱気に包まれていた。
リリス王女は昨日とは打って変わり、平民の娘が着るような簡素な、だが質の良いチュニックに身を包んでいた。彼女は俺の少し前を、弾むような足取りで歩いている。
「見て、リュウジィ! あの店の看板にある蔦の細工、今にも動き出しそうなくらい生き生きしてるわ。王宮の宝物庫にある金細工より、ずっと力が溢れている気がする」
「……それは、誰かが毎日使い、触れるための道具ですからね。飾るだけの代物とは、宿っている熱が違いますよ」
俺は数歩後ろを歩きながら、周囲への警戒を怠らない。リリスの強い要望で騎士団を数ブロック後ろに下げさせてはいるが、この「お供」という役割は、予想以上に神経を使う。
リリスは時折立ち止まり、並べられた武具や工具を珍しそうに眺めては、俺に意見を求めてくる。その無邪気な好奇心に、俺の「面倒くさい」という感情が、少しずつ、僅かな苦笑へと変わっていった。
――だが、その穏やかな時間は唐突に終わりを告げた。
職人街の角、人通りが途絶えた瞬間、凍りつくような殺気が路地を支配した。
騎士団を遠ざけた、そのわずかな隙を突くように、黒装束の四人組が現れる。
(……待ち伏せ?昨夜のあのごく短時間のやり取りを、知っていたのか?)
一言の警告もなく、ただ邪魔な障害物を排除するように、四人が同時に詰め寄ってきた。
「……王女様、止まってください。ただの散歩にはなりそうもありません」
俺はリリスを背後に下げ、一歩、前に出る。
練り上げた内功の熱が、ファフニールの金色の筋と共鳴し、凄まじい密度で凝縮されていく。
(……内側の強化に、鎧の外側からの強化が乗る。この『身体強化の重ねがけ』、明らかに今までとは違う、身体から力があふれてくる)
「消えろ」
崩拳。
構えも溜めもない。最短距離を突き抜ける右拳。
ヒョイッと無造作に放たれた一撃が先頭の男の胸板に触れた刹那、増幅された衝撃が一点から爆発した。
ズドンッ!
男の身体はくの字に折れ曲がり、自分が何に打たれたかも理解できぬまま、背後の石壁を粉砕して闇へと消えた。
左右から迫る二人。
俺は身体を斜めにスライドさせ、敵の懐へと潜り込む。内から外へと螺旋を描いて突き出す、シュート回転の拳が一人の顔面を跳ね上げた。
横拳。
撃つと同時にもう一人の側面に回り込み、今度は掌を外側へと鋭く回転させるもう一種の、
「横拳」。
完全に脱力していた俺の掌は、触れた瞬間にだけ、世界の理を無視した重圧を爆ぜさせる。二人は断末魔すら上げられず、石畳へ沈んだ。
「リュウジィ、上よ!」
リリスの叫び。頭上から最後の一人が鎌を振り下ろしてくる。
俺はそれをわずかな動きでかわし、着地の隙をついて男の正面へ、最短距離で踏み込んだ。
劈拳。
突き出される掌は、迷いのない真っ直ぐな軌道で、男の顔面を捉える。
着弾の瞬間、わずかに下を向いた掌から、重ねがけされた膨大なエネルギーが下方へと一気に突き抜けた。
ドォォォンッ!
水平に放ったはずの衝撃が、男の全身を地面へと垂直に叩きつける。
石畳が円形に陥没し、逃げ場を失った圧力が刺客を路地へ埋め殺した。
静寂。俺は右腕のベロアを軽く整えた。息一つ乱れていない。
「……驚かせてすみません。散歩を続けるなら、少し掃除が必要ですね」
俺は、熱を持った右の掌をゆっくりと握り込んだ。
身体強化の重ねがけによって沸騰した内功が、鎧の拍動と同調しながら、静かに身体の奥底へと沈んでいく。
日はまだ高く、職人街は昼前の熱気に包まれているはずだった。だが、陥没した石畳の裂け目からは、まるでそこだけが異界に通じているかのような、芯まで凍てつく冷たい風が吹き抜けた。




