第28話 黄金の夜、再生の儀式
(店内の喧騒の中、ツキノのルビーの瞳が俺を射抜いている)
「……ただ、この一皿を提供させた方の心根が、少し冷めてしまっているのが残念かしら」
――心根が冷めている。
正直、耳が痛い。
王宮から帰ってきてから、ずっと自分でも分かっていた。
何をしていても、心のどこかにぽっかりと穴が空いている。
客に笑顔を向けても、肉を焼いていても、キャストたちと話していても、以前のように心から楽しめない。
ローザの言葉が、頭の中にこびりついているからだ。
『今の貴方じゃ、何一つ守れやしないよ!』
だからといって、それを初対面の客に言われて、
「はい、その通りです」
と素直に頷くほど、俺は出来た人間じゃない。
(……何言ってんだ、この女。説教しに来たのか?)
内心では毒づいていた。
だが、そんなことを顔に出すほど子供でもない。
俺は店主としての笑顔を作った。
「……申し訳ありません。お客様にそう感じさせてしまったのなら、店主である私の修行不足です。以後、精進いたします」
若き店主らしい、当たり障りのない返答。
頭も下げる。
言葉遣いも間違っていない。
客商売としては百点満点の対応だ。
――だが。
ツキノは、そんな俺を見ていた。
まるで、その笑顔の奥にあるものまで見透かしているように。
艶やかな唇が、ほんの少しだけ吊り上がる。
俺の目の奥を、真っ赤なルビーの瞳がじっと見つめていた。
「……ふふ」
「何か?」
「いいえ。店主さんって、随分と器用なのね」
「商売をしていますからね」
「そういうところよ」
「……?」
ツキノは、それ以上は何も言わなかった。
ただ、楽しそうに笑っている。
俺には、その笑顔の意味が分からなかった。
そして彼女は、席を立つ前に俺へ視線を向けた。
「……店主さん」
「はい」
「気が向いたら、ロクメイカンへ遊びに来なさいよ」
その瞬間だった。
こちらを伺っていた店内の客たちが、一斉にざわついた。
「え?」
「今、ツキノ嬢が……?」
「ロクメイカンへ誘ったのか?」
二階へ続く階段から顔を覗かせていたキャストたちも、驚いたように目を見開いている。
だが、それ以上に驚いていたのは、ツキノのお付きの二人だった。
彼女たちは信じられないものを見たように顔を見合わせる。
「……ツキノ様」
「なに?」
「自らお誘いになるなど、初めてではございませんか?」
「そうだったかしら?」
「そうですよ!」
もう一人も慌てて口を挟んだ。
「しかも、これほどの若輩を……。信じられません」
「若輩って言い方、ひどくない?」
思わず俺が口を挟むと、二人がこちらを見る。
ツキノは楽しそうに笑った。
「ほら。面白いでしょう?」
「……何がです?」
「貴方よ」
「俺?」
「ええ」
彼女は俺をじっと見る。
「もっと怖い人かと思っていたのに」
「怖い?」
「だって、さっきからずっと、世界中の何もかもが気に入らないって顔をしていたもの」
「……」
図星だった。
俺は何も言えなくなる。
ツキノはそんな俺を見て、また小さく笑った。
「じゃあ、待ってるわね」
「いやいや、私なんかが行けるような店じゃないですよ」
俺は軽く手を振った。
そもそも、今はそんな気分じゃない。
それに――。
(この世の男は全て自分にひれ伏す、みたいな感じが気に入らないんだよな)
そんなことを心の中で毒づいた、その瞬間だった。
ツキノの白く細い五本の指が、すうっと俺の頬へ伸びてきた。
「……っ」
指先が、頬に触れる。
驚いて身を引こうとしたが、なぜか動けなかった。
ツキノは俺の目を覗き込んだ。
「ねぇ」
「……何です?」
「張り詰めすぎよ、君は」
その声からは、先ほどまでの妖艶さが少し消えていた。
代わりに、妙に優しい響きがあった。
「……弱くたっていいんじゃない?」
「……」
「無理して強がらなくてもいいのよ」
一瞬、ローザの顔が頭をよぎった。
――今の貴方じゃ、何一つ守れやしない。
胸の奥が、ズキリと痛んだ。
そんな俺を知っているはずもないツキノが、静かに笑う。
「楽しみに待ってるわ」
そう言って、彼女は俺の頬から指を離した。
あのロクメイカンの頂点。
王都中の男たちが憧れるスーパースターが、自分から男を誘った。
それどころか、頬に触れた。
――あり得ない。
夜の歴史がひっくり返るほどの異常事態だ。
店内の誰もが呆然としている。
そんな周囲を尻目に、ツキノは真紅のドレスを翻し、颯爽と店を後にしていった。
しばらくの間、店内には妙な沈黙が残った。
やがて、二階のキャバクラフロアへ上がる階段の下に立っていたバッドが、足早に俺のところへやってくる。
「さすが兄貴、カッコいいっすねぇ!」
「何が?」
「あのツキノ嬢を前に、顔色一つ変えないんだから!」
「そうかな?」
俺は肩をすくめた。
「けっこうドキドキだったよ」
「ええっ!?」
バッドが目を丸くする。
「全然そんな風に見えなかったっすよ!」
「まあ、店主だからな」
俺はおどけてみせた。
だが――。
(……今は、それどころじゃないんだよ)
ツキノの言葉が、頭から離れなかった。
――弱くたっていいんじゃない?
その言葉が、妙に胸に残っていた。
それから数日が経った。
相変わらず、俺の心の霧は晴れない。
店は順調だ。
客も来る。
キャストたちも笑っている。
俺も笑っている。
それなのに、心の奥だけが取り残されている。
そんなある日のことだった。
二階のキャバクラフロアが開店すると同時に、カシムさんが姿を現した。
「いらっしゃいませ。今日はまた随分と早いお越しですね」
「おう! リュウジィ君、今日は忙しいかな?」
「今日は、私個人でやらなきゃいけない仕事は特にないですよ」
「なら、一時間だけ飲んでいくから、その後ワシに付き合いなさい」
「……私がですか?」
「そうだ」
カシムさんはニヤリと笑った。
(この人がわざわざ俺を誘ってくるなんて、一体なんだろうな……)
嫌な予感しかしない。
だが、断る理由もなかった。
結局、俺はカシムさんと一緒に酒を飲むことになった。
そして――一時間後。
「……ちょっと、何するんですかカシムさん!」
「黙ってついてこい」
「いや、どこへ行くんです?」
「これから『天国』に連れてってやる」
「天国?」
その言葉を聞いた瞬間、嫌な予感がさらに強くなった。
だが、聞き返すより先に、俺は目隠しをされた。
「ちょ、ちょっと!」
そのまま強引に馬車へ押し込まれる。
「カシムさん!」
「大丈夫じゃ。取って食われたりはせん」
「その台詞を言われて安心できる人間がどこにいるんですか!」
馬車が動き出した。
車輪が石畳を叩く音。
身体に伝わる振動。
目隠しをされているせいで、どこへ向かっているのかまったく分からない。
しばらく揺られた後、ようやく馬車が止まった。
扉が開く。
夜の風が頬を撫でた。
その風に混じって、どこからか甘い香油のような匂いが漂ってくる。
「さあ、着いたぞ。外していい」
カシムさんの声に従い、俺は目隠しを解いた。
そして――絶句した。
目の前に広がっていたのは、黄金色に輝く巨大な建物だった。
外壁には大量の魔石が埋め込まれている。
俺の店でもかなりの数の魔石を使っているが、比較にならない。
その数は、俺の店の三倍どころではないように見えた。
夜の闇の中で、建物そのものが光を放っている。
豪華絢爛。
その言葉が、これほど似合う建物を俺は知らない。
カシムさんが、ニィッと笑った。
「ロクメイカンじゃよ」
「……」
俺は建物を見上げた。
数日前、ツキノに誘われた場所。
まさか、こんなに早く来ることになるとは思わなかった。
「……俺、娼館はちょっと」
「いやいや」
カシムさんが笑う。
「ここは普通の娼館とは違う」
「でも、娼館ですよね?」
「そうじゃが、ただ女を買うだけの場所ではない」
カシムさんは黄金の門を見上げた。
「ここは、選ばれた人間しか入れん社交場じゃ」
「社交場?」
「王都の貴族、商人、騎士、金持ち――そういう連中が集まる場所じゃ」
なるほど。
確かに、ただの娼館ではなさそうだ。
「リュウジィも、これから商売をやっていく上で経験しておくべき場所だ」
「……」
「それにだな」
カシムさんが意味ありげに笑った。
「普通は当日にツキノ嬢と遊ぶなんて不可能なんじゃが」
「でしょうね」
「さっきワシが来ると伝えたらな」
カシムさんが俺の肩を叩いた。
「『お待ちしてます』だってよ」
「……」
俺は無言になった。
どういうことだ?
ツキノは、本当に俺を待っているのか?
俺は渋々、カシムさんと共に黄金の門を潜った。
中へ入ると、外観以上の豪華さに圧倒された。
広いロビー。
磨き上げられた床。
壁には高価そうな絵画。
天井から吊り下げられた巨大な照明には、無数の魔石が使われている。
そして、俺たちが通り過ぎるたびに、周囲の客たちがこちらへ視線を向ける。
俺はカシムさんに促され、ロビーの革張りソファへ腰を下ろした。
すると、すぐ近くで一人の男が受付と激しく揉めているのが目に入った。
「なんでだよ!」
男は顔を真っ赤にしている。
「一ヶ月前から予約を入れてたんだぞ! なんでツキノは駄目なんだ!」
受付の男は困ったように頭を下げた。
「申し訳ございません。ツキノは具合が悪くて寝込んでおりましてね。今日はお相手できないんですよ」
「チッ!」
男は舌打ちすると、そのまま立ち去っていった。
俺は、その背中を見送りながら眉をひそめた。
(……寝込んでる?)
さっきカシムさんには、
『お待ちしてます』
と言ったはずだ。
どういうことだ?
俺が首を傾げていると、カシムさんが何食わぬ顔で言った。
「さて、行くぞ」
「え?」
「ツキノ嬢のところじゃ」
「いや、でも今――」
その時だった。
大広間の奥から、こちらへ向かって歩いてくる人影が見えた。
深い真紅のドレス。
艶やかな黒髪。
そして、あのルビーの瞳。
ツキノだった。
「……あら」
彼女は俺を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり来てくれたのね」
俺は思わず立ち止まった。
「……いや、別に俺が望んで来たわけじゃ――」
そこまで言ったところで、
ポン!
カシムさんに尻を叩かれた。
「余計なことを言うな」
「痛いですよ!」
「行ってこい」
「ちょっと!」
俺は渋々、ツキノのところへ歩いていく。
「こんばんは、店主さん」
「……こんばんは」
「来てくれて嬉しいわ」
その笑顔は、店で見たものとは少し違っていた。
客に向ける営業用の笑顔ではない。
ほんの少しだけ、素の表情が混じっているように見えた。
俺は促されるまま、ツキノと共に社交広間へ足を踏み入れた。
広間には、一目で金持ちだと分かる客たちが大勢いた。
身なりの良い男たち。
煌びやかなドレスを纏った女たち。
お気に入りのキャストと酒を飲みながら、楽しそうに会話をしている。
その光景は、さながら現世の銀座にある高級クラブのようだった。
俺が前世で見てきた夜の世界とは、似ているようでまるで違う。
ここでは、金だけではなく、人脈そのものが価値を持っている。
誰が誰と飲んでいるのか。
誰と繋がっているのか。
それだけで、その人間の価値が決まるような世界だ。
そして――。
その中心にツキノがいた。
「こちらへどうぞ」
彼女に案内され、席につく。
最初は、正直なところ気が重かった。
どうせ有名人の接客なんて、客を持ち上げて気分よくさせるだけだろう。
そう思っていた。
だが――。
「店主さんって、普段はどんなお酒を飲むの?」
「特に決めてないですよ」
「じゃあ、今日は私が選んでもいい?」
「どうぞ」
「ふふ。じゃあ、これ」
彼女が酒を選ぶ。
一口飲んだ俺を見て、
「どう?」
「悪くないですね」
「その顔、全然美味しそうじゃないわ」
「そんなことないですよ」
「嘘」
即答だった。
「……分かります?」
「ええ」
ツキノは笑った。
「私、人の顔を見るのが仕事だもの」
そこからだった。
俺は少しずつ、彼女との会話に引き込まれていった。
圧倒的なコミュ力。
話し手と聞き手に回る絶妙なタイミング。
相手が話したくなるような質問。
そして、相手が踏み込まれたくない場所には決して踏み込まない距離感。
表情の緩急も凄かった。
妖艶でミステリアスな女かと思えば、次の瞬間には少女のように無邪気に笑う。
相手が笑えば、一緒に笑う。
相手が真剣になれば、彼女も静かに耳を傾ける。
俺が話したくだらない話にも、まるで昔から知っていた友人のように笑ってくれた。
現世でも、これほどの女に出会ったことはない。
気がつけば、俺自身が驚くほど自然に話していた。
店のこと。
この世界に来てからのこと。
食材のこと。
形意拳のこと。
もちろん、異世界から来たことだけは話せない。
それでも、いつの間にか俺は笑っていた。
心の奥に溜まっていた重たいものが、少しずつ薄れていく。
ツキノが突然、俺の顔を覗き込んだ。
「ほらぁ!」
「え?」
「やっと笑った」
「……」
「お店に来た時は、親の敵みたいな目で睨むんだもの」
「そんな顔してました?」
「してたわよ」
「……緊張してたんだよ」
「ふふっ」
ツキノが笑う。
「そういうことにしておいてあげる」
気がつけば、時間は驚くほど早く過ぎていた。
酒を飲み、話をして、笑って。
ただ、それだけだった。
それだけなのに――。
王宮から帰ってきて以来、初めて頭の中からローザの言葉が消えていた。
「……もう、こんな時間か」
俺が時計代わりの魔石を見ると、ツキノが少し寂しそうに笑った。
「もう帰るの?」
「まあ、店もありますから」
「そう」
彼女は少し考えるように俺を見る。
そして、いたずらっぽく笑った。
「今さら、帰らないよね?」
「……え?」
その言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
俺はツキノに誘われるまま、彼女の私室へ向かった。
扉が閉じる。
それまで賑やかだった外の喧騒が、嘘のように遠ざかった。
静かな部屋だった。
豪華ではある。
だが、どこか落ち着く。
ツキノは俺の方を振り返った。
「ねぇ」
「はい?」
「どうして、そんなに自分を追い込むの?」
「……」
まただ。
この女は、どうしてこうも簡単に俺の内側へ入ってくるんだ。
「別に、追い込んでなんか」
「嘘」
「……」
「店主さん」
ツキノは優しく俺を見る。
「あなた、ずっと何かと戦ってるでしょう?」
胸の奥を掴まれたような気がした。
俺は答えられなかった。
「ツキノさん……」
「なに?」
「なんで俺のこと、そんなに気に入ってくれたんです?」
彼女は少し考えた。
「分からない」
「分からない?」
「ええ」
そして、静かに笑った。
「だけど、きっとね」
彼女は俺の目を見る。
「貴方と私って、多分、同じ人種なのよ」
「……同じ人種?」
「ええ」
ツキノは、それ以上は説明しなかった。
ただ、俺を見つめていた。
その瞳を見ていると、不思議とそれ以上聞く気にはなれなかった。
俺たちは、何かが似ている。
それが何なのかは、まだ分からない。
ただ――。
この女には、俺が無理に笑っていることも。
強がっていることも。
寂しさを隠していることも。
全部、見えている。
ツキノはゆっくりと、重厚な真紅のドレスを脱ぎ捨てた。
ドレスの拘束から解き放たれた彼女の肩は、驚くほど華奢だった。
それまで完璧な「ツキノ」という女を演じていた彼女が、目の前で少しずつその鎧を脱いでいく。
その姿を見て、俺は思った。
――この女も、俺と同じなのかもしれない。
強く見せているだけで、本当はずっと何かを抱えている。
俺はそっと彼女を抱き寄せた。
その瞬間だった。
異世界という荒野で、ずっと張り詰めていた俺の心から、何かがすとんと抜け落ちた。
安心する。
不思議なくらい、何も考えなくていい。
ローザの言葉も。
リブルに敗れた悔しさも。
自分の弱さへの苛立ちも。
今だけは、全部忘れていい。
異世界に来てから、俺はずっと戦っていた。
生きるために。
店を守るために。
仲間を守るために。
そして、自分が強い人間であることを証明するために。
だが今だけは――。
何も証明しなくていい。
ただ、一人の男としてここにいればいい。
ツキノは、そんな俺を何も言わずに受け止めてくれた。
異世界に来て、俺は初めて女を抱いた。
それは、単なる欲望を満たすためのものではなかった。
前世で生きてきた四十六年。
そして、異世界で生き始めた十九歳の肉体。
二つに分かれていたように感じていた自分という存在が、今、初めて一つに繋がっていく。
四十六歳の魂と、十九歳の肉体。
その二つが今、初めて本当の意味で一つになったような気がした。
お読みいただきありがとうございました。
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