215話 道を塞ぐもの
縄を跨いで数歩進んだところで、リュウジィは足を止めた。
さっきまで頬に当たっていた山風が、ここではぴたりと止んでいる。空気は重いのに、息を吸い込むと胸の奥まで澄んでいくような、不思議な場所だった。
ファフニールもニーズヘッグリングも、まだかすかに反応を続けている。何かに見られているような感覚が、背中にはりついて離れない。
隣でミライがフードの下から、道の先を見上げた。
「道は一本だけなのね」
「そうだね。迷わなくて済みそうだ」
リュウジィはそう答えて、繋いだ手を握り直した。ミライの指は、まだほんの少し冷たい。
道は幅が人ふたり分ほどで、両脇には人の背丈ほどの青白い結晶が点々と立っていた。結晶の中では、小さな光がゆらゆらと揺れている。夜空の星を閉じ込めたような光で、ミライは何度も足を止めて覗き込んだ。
「きれい。ねえ、触ってもいいかな」
「やめておいた方がいいよ。何が起きるか分からないから」
「ちょっとだけよ?」
「だめ」
ミライはむっと頬をふくらませたが、すぐに手を引っ込めて歩き出した。その横顔にまだ笑いが残っているのを見て、リュウジィは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
けれど、歩くほどに気になることが増えていく。鳥の声も、虫の羽音も、草が揺れる音さえしない。聞こえるのは二人の靴が土を踏む音だけで、生き物の気配がまるでない山道は、静かすぎて落ち着かなかった。
ふと、八合目の石碑に刻まれていた言葉が頭に浮かんだ。力なき者、敬意なき者は、この先に立ち入ってはならない。巡礼者たちが縄の前で手を合わせて引き返していったのは、この静けさを知っていたからなのかもしれない。
しばらく登ると、道が大きく右に曲がっていた。曲がり角を抜けたところで、ミライがぴたりと足を止める。
「リュウジィ、あれ」
道のど真ん中に、巨大な結晶の塊が置かれていた。高さは三メートルほど。道幅いっぱいに広がっていて、左にも右にも抜けられそうにない。
「行き止まり、かな」
「いや、道はこの先にも続いてる。ただ、何かが置いてあるだけに見えるけど」
そう言いながらも、リュウジィは足を前に出せなかった。近づくほど、ファフニールの反応が強くなっていくのだ。結晶は透きとおっていて、午後の光を受けるたびに、白や青や淡い紫にきらきらと色を変えていた。表面をよく見ると細かい筋が走っていて、膝を抱えて座り込んだ人の形をしている。
リュウジィはミライの前に腕を出し、それ以上近づかせないようにした。
その時だった。
結晶の胸の奥で、ぽっと白い光が灯った。続けて、顔にあたる場所に二つの光が点る。
ギギ、ギギギ、と硬い物がこすれ合う澄んだ音が山道に響いた。結晶の塊が、ゆっくりと身体を起こしていく。立ち上がる勢いで、足元の小石がぱらぱらと跳ねた。
「うそ、動いた」
ミライの声が小さく震えた。
立ち上がったそれは、三メートルを超えていた。太い腕に太い脚、胸には白い光の玉。透きとおった身体が光を受けて七色にきらめき、まるで巨大な宝石が人の形をとったようだった。それが道を塞ぐように、リュウジィたちを見下ろしている。
(結晶でできた兵士、か。道を守ってるのか)
リュウジィは心の中で、そう呟いた。この世界に来てから、初めて目にする相手だった。
「ミライ、少し下がってて。どんな相手か分からないから、まず俺が見る」
ミライは唇をきゅっと結んで、一歩、二歩と後ろへ下がった。
「分かった。でも危なくなったら、私も入るからね」
「その時は呼ぶよ」
結晶兵の太い右腕が頭上高く持ち上がった。リュウジィはすっと息を吐き出すと、足の裏でしっかりと地面を踏みしめる。
豪風を切り裂き、腕が振り下ろされた。
ドォン!と空気が弾けるような音とともに、足元の地面が砕け散る。弾け飛んだ破片が容赦なく頬をかすめた。リュウジィは内功盤根の円を描く体さばきで半身をずらし、迫る腕の内側へするりと入り込んだ。
そのまま結晶兵の右脚の外側へと回り込む――。
劈拳――!!
スパァァァン!!
鋭い打撃音が響き渡り、結晶の脚に太いひびが走った。
ひびは膝から腿へ、稲妻のような速度で一気に駆け上がっていく。三メートルを超える巨体がぐらりと傾き、重い足音とともに結晶兵が一歩だけ後ろへ後退した。
だが、倒れない。傾いた巨体を無理やり踏みとどまらせ、ゆっくりと体勢を立て直していく。
(脚を叩いてもまだ動くのか。一筋縄ではいかないな)
結晶兵の右腕が、再びゆっくりと持ち上がった。
その腕の先から、パキパキパキと氷の張る不気味な音が響く。指先がひとつにくっつき、氷柱のように鋭利に研ぎ澄まされていく。ほんの数瞬の間に、右腕は鋭い結晶の刃へと姿を変えていた。
結晶の刃が横一文字に薙ぎ払われる。
リュウジィは瞬時に身を低く沈め、頭上すれすれでその刃をやり過ごした。刃が起こした風に煽られた髪が数本、宙に舞って散る。振り抜かれた結晶の刃は、すぐ側の結晶柱に激突し、音もなくそれを真っ二つに両断した。切り口は鏡のように滑らかだった。
(直撃すれば、ただじゃ済まない)
結晶兵が、左足を大きく引き上げた。
ドスンッ!
踏み下ろされた衝撃で、山道全体が大きく揺れる。次の瞬間、リュウジィの足元の地面が怪しく光を放った。
「リュウジィ、下!」
ミライの切迫した叫びと同時に、リュウジィは全身のバネで地面を蹴り跳んでいた。直前まで立っていた場所から、鋭利な結晶の柱がズバッと突き出す。着地した瞬間、またしても足元が光る。
二本目。三本目。
死の槍撃が、リュウジィの足を追うように次々と地面から突き上がってくる。リュウジィは足を止めることなく走り、跳び、極限まで身体をひねってかわし続けた。
一本の先端が脇腹すれすれをかすめ、ファフニールの黒い袖がひゅっと風に揺れる。
(一瞬でも足を止めれば、串刺しだ)
道の端まで追い詰められたところで、激しい突き上げがぴたりと止んだ。
リュウジィは荒い息を吐きながら、結晶兵を鋭く見据える。
後ろでは、ミライが口元に両手を当てて立ちつくしていた。
目を大きく見開いたまま、瞬きさえ忘れてリュウジィの背中を見つめている。
すぐに、結晶兵の左腕が横から薙ぎ払うように迫ってきた。リュウジィは後ろへ大きく跳び、間一髪で回避する。腕が通り過ぎたあとの冷気が、ひやりと頬を撫でた。
巨躯に似合わぬ速度。それでも、見切れないほどではない。
「リュウジィ!」
「大丈夫、当たってない!」
振り返ることなく即答し、リュウジィは素早く間合いを押し戻した。
少し離れた場所で、ミライが両手の拳をぎゅっと握りしめているのが視界の端に映る。
結晶兵は追撃してこず、リュウジィへ視線を向けたまま微動だにしない。腕も脚も顔も青白い光を纏っているが、胸の光の玉だけは、白く静かに鼓動を打っていた。
(あそこだけ、明らかに性質が違う)
リュウジィは素早く中段の構えを取った。
指先のニーズヘッグリングが、小さく輝く。
リュウジィは呼吸を整え、丹田に力を集め、内功を極限まで高めていった。
胸の奥で熱い気流が爆発的に膨らみ、全身の隅々へとなだれ込んでいく。それに呼応するように、ファフニールの漆黒が袖口から肩へ、肩から胸へと一気に染まり上がった。
黒が、鮮烈な真紅へと変貌を遂げていく。金色の筋だけが赤の中で強く輝き、まるで激しい炎を全身に纏ったかのようだった。
「リュウジィ……」
ミライが、小さく息をのんだ。
結晶兵の顔にある二つの光が、チカッと激しく明滅した。胸の白い光の玉も、先ほどより速く鼓動を刻んでいる。結晶兵もまた、リュウジィの発する圧倒的な気配の変化を察知していた。
(全力で行く。この道を通してもらうぞ)
リュウジィは足の指で力強く地面を捉え、結晶兵の胸に宿る光を真っ直ぐに見据えると、弾むように地面を蹴った。
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