第214話:結晶の門
夜明け前の宿の食堂には、鍋から立つ湯気の匂いがもう広がっていた。
昨夜の主人が、黙って二つの包みを差し出してくる。中身は黒パンに山鳥の燻製を挟んだものだった。礼を言って受け取ると、主人は「八合目の山小屋で湯をもらうといい。巡礼の連中は皆そうしてる」とだけ言って厨房へ戻っていった。
外に出ると、空は藍色から白へ変わりかけていた。麓の町はまだ眠っている。霊山ミスティアの稜線だけが、昨夜と違ってくっきりと見えた。
「今日は雲、かかってないのね」
ミライが緑がかった外套のフードを下ろし、黒いリボンで結んだ髪を手で払う。
「晴れてくれて助かったよ。山で雨に降られたら、荷物より先にこっちの心が折れる」
「リュウジィの心、そんなに簡単に折れないでしょう」
「折れるさ。結構繊細なんだ、俺は」
ミライは吹き出して、先に石畳の道を歩き出した。
町を抜けると道は土の登り坂に変わり、杖をついた巡礼者たちが、同じ方向へゆっくりと歩いていた。薬草の籠を背負った老人。膝の悪そうな夫婦。祈りの文句を口の中で唱え続ける若い女。
八合目まで人が普通に登る山、という宿の主人の言葉は本当だった。ダンジョンの入口へ向かっている実感は、まだほとんど湧いてこない。
一時間ほど歩いたところで、リュウジィは横を歩くミライの様子をうかがった。息は少し上がっているが、足取りは乱れていない。
「きつかったら言って。休むのは全然構わないから」
「平気よ。タツヨさんの朝の走り込みに付き合わされてるんだもの。この坂くらい、お散歩だわ」
「タツヨ、そんなに走らせてるのか」
「毎朝よ。ボクサーは足だって言って、全然手加減してくれないの」
ミライは少し得意そうに顎を上げた。リュウジィは感心しながら、自分の足元を見る。ファフニールのおかげで暑さも寒さも感じない自分より、ミライのほうがよほど山を歩く準備ができている気がした。
道は右へ左へと大きく折れ曲がりながら山腹を登っていき、木々の背が低くなっていく。町が小さな模型のように見えてきた頃、坂の脇に石積みの休憩所が現れた。巡礼者たちが腰を下ろして水袋を回している。
二人も端の石に座り、宿でもらった包みを開く。黒パンは固いが噛むほどに麦の味がして、燻製の塩気とよく合った。
「おいしい。主人さん、ぶっきらぼうだけど、いい人ね」
「リュウジィの燻製、私のより大きいわ。主人さん、きっとリュウジィのほうがたくさん食べると思ったのね」
「そうかな。じゃあ、半分わけるよ」
「ううん、いいの。そのかわり」
ミライは自分のパンの端をちぎり、リュウジィの口の前に差し出した。
「はい、あーん」
近くに座っていた巡礼者たちが、ちらりとこちらを見た。リュウジィは顔が熱くなるのを感じながら、思いきってパンをぱくりとくわえた。
リュウジィはパンを喉に詰まらせかけて、水袋に手を伸ばした。ミライは肩を揺らして笑っている。
そのやり取りを聞いていたのか、隣の石に座っていた老婆が、皺だらけの顔をほころばせた。
「仲のいいことじゃ。夫婦で登山かね」
「あ、いえ、その……」
リュウジィが口ごもると、ミライは悪戯っぽく目を細めて「そんなところです」と答えた。老婆は満足そうに頷く。
「若いのは良いのう。わしらは八合目の縄まで毎年お参りに来とる。そこで手を合わせて、引き返すのが決まりでな」
「縄の先へは、行かれないんですか」
ミライが尋ねると、老婆は首を横に振った。
「あそこから先は神さまの庭じゃ。人の入るところじゃない。あんたら、まさか越えるつもりじゃなかろうね」
リュウジィはすぐには答えられなかった。隠す理由はないが、嘘をつく理由もない。
「頂上に用があるんです。彼女の防具の素材を、分けてもらいに」
老婆は目を丸くして、それから長いため息をついた。
「止めても無駄な顔をしとるのう。若い娘さんを連れて、無茶をする」
「無茶はしません。ちゃんと帰ってくるつもりです」
「口では誰でも言うがの」
老婆はそう言いながら、懐から小さな布袋を取り出してミライの手に握らせた。中には、干した薬草の葉が入っていた。
「疲れた時に噛みなされ。気休めじゃが、わしの婆さんの代から効くと言われとる」
ミライは両手で布袋を受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。大事にします」
出発する二人の背中に、老婆はいつまでも手を振っていた。
休憩所を過ぎると、木々はさらに低くなり、岩肌が増えてきた。風が強くなる。ミライの吐く息がうっすらと白くなっていることに、リュウジィは気づいた。
「寒いか」
「ちょっとだけ。外套があるから大丈夫」
そう言いながら、ミライは指先をこすり合わせている。リュウジィは黙って手を差し出した。ミライは一瞬きょとんとして、それから自分の手を重ねてくる。冷たかった。
「リュウジィの手、あったかい」
「ファフニールのおかげだよ。俺だけ寒くないのは、なんだか悪いなと思ってたんだ。こういう時は役に立つ」
「便利ね、その服」
「気軽に脱げないのが難点だけどね」
ミライは何も言わず、繋いだ手に少し力を込めた。
昼を過ぎた頃、道の先に木造の山小屋が見えてきた。煙突から白い煙が上がり、軒先には巡礼者たちが列を作って湯をもらっている。
二人も列に並び、素焼きの器に注がれた白湯で身体を温めた。小屋の裏手には祈りの旗が並んで風にはためき、その向こうに、道がもう一段だけ高い場所へ続いているのが見える。
「あの上が、八合目か」
「みたいね。結晶の柱、もう見えるかしら」
背伸びをしたミライの視線の先に、青白い光がちらりと揺れた。木々の切れ間から、岩の上に二本の巨大な柱が突き立っているのが見えた。
最後の坂を登りきった時、リュウジィは足を止めた。
そこは開けた岩場で、巡礼者たちが輪になって手を合わせていた。その中央に、二本の結晶の柱がそびえている。人の背丈の三倍はあろうかという透明な柱は、陽の光を受けて内側から淡く青く光っていた。
二本の柱の間には、腕ほどの太さの古い大縄が渡されている。縄は長い年月で色褪せ、ところどころ苔のような緑に染まっていた。
「これが、結晶の門」
ミライが小さく呟いた。
縄の手前には、苔むした大きな岩が据えられている。表面には古い文字が彫り込まれていた。リュウジィは岩に近づいて、指でなぞるようにして文字を追う。
ここから先は神獣の領域。力なき者、敬意なき者は、立ち入るべからず。
読み終えた時、背後で巡礼者たちが静かに祈りを捧げる声が聞こえた。老婆の言った通り、誰も縄を越えようとはしない。縄の前で膝をつき、手を合わせ、そのまま来た道を引き返していく。
「ここまでは、みんなの山なのね」
「そうだね。ここから先が、ダンジョン」
リュウジィはミライの方を向いた。ミライはフードを外し、風に煽られる前髪を押さえながら、縄の向こうをじっと見つめている。怖くないはずはない。それでも目は逸らしていなかった。
「行こうか」
「ええ。置いていかないでね」
「置いていくわけないだろ」
リュウジィはミライの手を取り、大縄の前に立った。縄は、腰より少し低い位置に張られている。
先にリュウジィが片足を上げ、縄を跨いだ。
その瞬間、空気が変わった。
肌の表面をなぞるような、これまで経験したことのない濃密な何かが全身を包み込む。ファフニールが小さく脈打ち、両手の人差し指のニーズヘッグリングが微かに熱を帯びた。
続いてミライが縄を跨ぐ。後ろで小さく息を呑む音がした。
「……何これ。空気が、重いのに、澄んでる」
「うん。これが、魔力の濃さなのかもしれない」
振り返ると、巡礼者たちが少し離れた場所から、二人をじっと見送っていた。誰も声をかけない。ただ静かに、手を合わせている。
リュウジィは前を向いた。縄の向こうには、これまでと何も変わらない山道が続いている。ただ、頭上の空だけが、ほんの少し近く、そして青く見えた。
二人は繋いだ手を離さないまま、星降る天壇への最初の一歩を踏み出した。
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