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46歳おっさんの形意拳が、異世界でチートになった 〜魔法も剣も届かない究極の拳法で、第二の人生を無双する〜  作者: 九条竜二


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第214話:結晶の門



 夜明け前の宿の食堂には、鍋から立つ湯気の匂いがもう広がっていた。


 昨夜の主人が、黙って二つの包みを差し出してくる。中身は黒パンに山鳥の燻製を挟んだものだった。礼を言って受け取ると、主人は「八合目の山小屋で湯をもらうといい。巡礼の連中は皆そうしてる」とだけ言って厨房へ戻っていった。


 外に出ると、空は藍色から白へ変わりかけていた。麓の町はまだ眠っている。霊山ミスティアの稜線だけが、昨夜と違ってくっきりと見えた。


「今日は雲、かかってないのね」


 ミライが緑がかった外套のフードを下ろし、黒いリボンで結んだ髪を手で払う。


「晴れてくれて助かったよ。山で雨に降られたら、荷物より先にこっちの心が折れる」


「リュウジィの心、そんなに簡単に折れないでしょう」


「折れるさ。結構繊細なんだ、俺は」


 ミライは吹き出して、先に石畳の道を歩き出した。


 町を抜けると道は土の登り坂に変わり、杖をついた巡礼者たちが、同じ方向へゆっくりと歩いていた。薬草の籠を背負った老人。膝の悪そうな夫婦。祈りの文句を口の中で唱え続ける若い女。


 八合目まで人が普通に登る山、という宿の主人の言葉は本当だった。ダンジョンの入口へ向かっている実感は、まだほとんど湧いてこない。


 一時間ほど歩いたところで、リュウジィは横を歩くミライの様子をうかがった。息は少し上がっているが、足取りは乱れていない。


「きつかったら言って。休むのは全然構わないから」


「平気よ。タツヨさんの朝の走り込みに付き合わされてるんだもの。この坂くらい、お散歩だわ」


「タツヨ、そんなに走らせてるのか」


「毎朝よ。ボクサーは足だって言って、全然手加減してくれないの」


 ミライは少し得意そうに顎を上げた。リュウジィは感心しながら、自分の足元を見る。ファフニールのおかげで暑さも寒さも感じない自分より、ミライのほうがよほど山を歩く準備ができている気がした。


 道は右へ左へと大きく折れ曲がりながら山腹を登っていき、木々の背が低くなっていく。町が小さな模型のように見えてきた頃、坂の脇に石積みの休憩所が現れた。巡礼者たちが腰を下ろして水袋を回している。


 二人も端の石に座り、宿でもらった包みを開く。黒パンは固いが噛むほどに麦の味がして、燻製の塩気とよく合った。


「おいしい。主人さん、ぶっきらぼうだけど、いい人ね」


「リュウジィの燻製、私のより大きいわ。主人さん、きっとリュウジィのほうがたくさん食べると思ったのね」


「そうかな。じゃあ、半分わけるよ」


「ううん、いいの。そのかわり」


 ミライは自分のパンの端をちぎり、リュウジィの口の前に差し出した。


「はい、あーん」


 近くに座っていた巡礼者たちが、ちらりとこちらを見た。リュウジィは顔が熱くなるのを感じながら、思いきってパンをぱくりとくわえた。


 リュウジィはパンを喉に詰まらせかけて、水袋に手を伸ばした。ミライは肩を揺らして笑っている。


 そのやり取りを聞いていたのか、隣の石に座っていた老婆が、皺だらけの顔をほころばせた。


「仲のいいことじゃ。夫婦で登山かね」


「あ、いえ、その……」


 リュウジィが口ごもると、ミライは悪戯っぽく目を細めて「そんなところです」と答えた。老婆は満足そうに頷く。


「若いのは良いのう。わしらは八合目の縄まで毎年お参りに来とる。そこで手を合わせて、引き返すのが決まりでな」


「縄の先へは、行かれないんですか」


 ミライが尋ねると、老婆は首を横に振った。


「あそこから先は神さまの庭じゃ。人の入るところじゃない。あんたら、まさか越えるつもりじゃなかろうね」


 リュウジィはすぐには答えられなかった。隠す理由はないが、嘘をつく理由もない。


「頂上に用があるんです。彼女の防具の素材を、分けてもらいに」


 老婆は目を丸くして、それから長いため息をついた。


「止めても無駄な顔をしとるのう。若い娘さんを連れて、無茶をする」


「無茶はしません。ちゃんと帰ってくるつもりです」


「口では誰でも言うがの」


 老婆はそう言いながら、懐から小さな布袋を取り出してミライの手に握らせた。中には、干した薬草の葉が入っていた。


「疲れた時に噛みなされ。気休めじゃが、わしの婆さんの代から効くと言われとる」


 ミライは両手で布袋を受け取り、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。大事にします」


 出発する二人の背中に、老婆はいつまでも手を振っていた。


 休憩所を過ぎると、木々はさらに低くなり、岩肌が増えてきた。風が強くなる。ミライの吐く息がうっすらと白くなっていることに、リュウジィは気づいた。


「寒いか」


「ちょっとだけ。外套があるから大丈夫」


 そう言いながら、ミライは指先をこすり合わせている。リュウジィは黙って手を差し出した。ミライは一瞬きょとんとして、それから自分の手を重ねてくる。冷たかった。


「リュウジィの手、あったかい」


「ファフニールのおかげだよ。俺だけ寒くないのは、なんだか悪いなと思ってたんだ。こういう時は役に立つ」


「便利ね、その服」


「気軽に脱げないのが難点だけどね」


 ミライは何も言わず、繋いだ手に少し力を込めた。


 昼を過ぎた頃、道の先に木造の山小屋が見えてきた。煙突から白い煙が上がり、軒先には巡礼者たちが列を作って湯をもらっている。


 二人も列に並び、素焼きの器に注がれた白湯で身体を温めた。小屋の裏手には祈りの旗が並んで風にはためき、その向こうに、道がもう一段だけ高い場所へ続いているのが見える。


「あの上が、八合目か」


「みたいね。結晶の柱、もう見えるかしら」


 背伸びをしたミライの視線の先に、青白い光がちらりと揺れた。木々の切れ間から、岩の上に二本の巨大な柱が突き立っているのが見えた。


 最後の坂を登りきった時、リュウジィは足を止めた。


 そこは開けた岩場で、巡礼者たちが輪になって手を合わせていた。その中央に、二本の結晶の柱がそびえている。人の背丈の三倍はあろうかという透明な柱は、陽の光を受けて内側から淡く青く光っていた。


 二本の柱の間には、腕ほどの太さの古い大縄が渡されている。縄は長い年月で色褪せ、ところどころ苔のような緑に染まっていた。


「これが、結晶の門」


 ミライが小さく呟いた。


 縄の手前には、苔むした大きな岩が据えられている。表面には古い文字が彫り込まれていた。リュウジィは岩に近づいて、指でなぞるようにして文字を追う。


 ここから先は神獣の領域。力なき者、敬意なき者は、立ち入るべからず。


 読み終えた時、背後で巡礼者たちが静かに祈りを捧げる声が聞こえた。老婆の言った通り、誰も縄を越えようとはしない。縄の前で膝をつき、手を合わせ、そのまま来た道を引き返していく。


「ここまでは、みんなの山なのね」


「そうだね。ここから先が、ダンジョン」


 リュウジィはミライの方を向いた。ミライはフードを外し、風に煽られる前髪を押さえながら、縄の向こうをじっと見つめている。怖くないはずはない。それでも目は逸らしていなかった。


「行こうか」


「ええ。置いていかないでね」


「置いていくわけないだろ」


 リュウジィはミライの手を取り、大縄の前に立った。縄は、腰より少し低い位置に張られている。


 先にリュウジィが片足を上げ、縄を跨いだ。


 その瞬間、空気が変わった。


 肌の表面をなぞるような、これまで経験したことのない濃密な何かが全身を包み込む。ファフニールが小さく脈打ち、両手の人差し指のニーズヘッグリングが微かに熱を帯びた。


 続いてミライが縄を跨ぐ。後ろで小さく息を呑む音がした。


「……何これ。空気が、重いのに、澄んでる」


「うん。これが、魔力の濃さなのかもしれない」


 振り返ると、巡礼者たちが少し離れた場所から、二人をじっと見送っていた。誰も声をかけない。ただ静かに、手を合わせている。


 リュウジィは前を向いた。縄の向こうには、これまでと何も変わらない山道が続いている。ただ、頭上の空だけが、ほんの少し近く、そして青く見えた。


 二人は繋いだ手を離さないまま、星降る天壇への最初の一歩を踏み出した。




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