213話 霊山ミスティアへの出発前夜
ふろむ・えーを出た二人は、夕暮れが近づく町の通りを歩きながら宿を探した。
麓の町は、霊山ミスティアの裾野に寄り添うように家々が並んでいる。
通りには旅装の人間が多く、白い装束に身を包んだ巡礼者の一団や、薬草の束を抱えた老人、山へ向かう荷馬車を引く行商人の姿もあった。
道端の露店では、山登り用の杖や革の水袋、携行食が所狭しと並べられ、店主たちが威勢よく客を呼んでいる。
露店の前では、登山の準備を整えた旅人たちが、店主から道具の使い方を聞いたり、山道について情報を集めたりしていた。
杖を携えた地元の夫婦が、談笑しながら山道の方へ歩いていく。
八合目までなら町の人間も当たり前のように登る山なのだろう。
ダンジョンの入口と聞いて身構えていたリュウジィは、拍子抜けするほどのどかな光景に少しだけ肩の力を抜いた。
「ねえリュウジィ、思ってたより高いわね。見上げてるだけで首が痛くなっちゃう」
ミライは外套のフードを指先で少し押し上げ、空へ向かってそびえる山肌を仰ぎ見た。
どれだけ視線を上げても山頂は遠く、その雄大さに思わず感嘆の息を漏らした。
「俺もびっくりしてるよ。八合目まで登るだけで、丸一日かかりそうだな」
「じゃあ今夜はゆっくり休まなきゃ。さっきみたいに絡まれるのは、もうごめんだけどね」
「絡まれたのはミライだけど、手を出したのもミライだろ」
「ひどい。あれは正当防衛よ」
ミライはむっと頬を膨らませると、甘えるようにギュッと腕を絡めてきた。
リュウジィは苦笑いを浮かべ、視線を泳がせながら通りの先に見えた「山の宿」という古い木の看板を目指した。
宿の入口をくぐると、一階は食堂を兼ねた造りになっていた。
夕食時にはまだ少し早い時間だというのに、すでに数人の客が杯を傾けている。
木製の卓には食器が並び、厨房からは煮込み料理の香りが漂っていた。
奥から出てきた初老の主人に今夜一晩泊まりたいと伝えると、主人は愛想のいい笑顔で木製の鍵を渡してくれた。
荷物を置いて食堂に降りると、客たちの視線が自然とこちらへ集まった。
フードを外したミライの際立った容姿に目を留めたのだろう。
杯を持つ手をピタリと止める男もいれば、隣の仲間とひそひそ話を始める者もいる。
ミライは慣れた様子でそんな視線を綺麗に受け流し、空いていた卓の椅子を引き寄せた。
「また見られてるわね」
「ふろむ・えーでもそうだったからな」
「あなたが隣にいるのに、誰も遠慮しないのね」
「俺が睨んでも、逆効果だろ」
睨んで追い払えるならとっくにそうしている、とリュウジィは心の中で小さくため息をついた。
そんな会話をしているうちに、湯気を立てた山菜と川魚の煮込みが運ばれてきた。
香草の食欲をそそる匂いがふわりと鼻をくすぐり、二人の前に置かれた料理からは温かな湯気が立ち上っていた。
「うん、おいしい。旅行っぽくなってきたわね」
「防具を作りに来た旅だけどな」
「それは言わない約束」
二人でそんな軽口を交わしていると、空いた皿を下げに来た主人がふと手を止めた。
「お客さん、山へ登るのかい。巡礼か、薬草採りには見えねえが」
「ふろむ・えーで申請を済ませてきました。星降る天壇に入るつもりです」
リュウジィが答えると、主人の表情から愛想のいい笑みがすっと消えた。
近くの卓にいた巡礼らしい男たちも、杯を置く音を立てて会話を止め、じっとこちらに耳を傾けている。
「八合目までなら、町の者も巡礼も登る普通の山だ。だが八合目には結晶の柱が二本立っててな、その間に古い大縄が渡してある。あれが結晶の門、この山の境目だ。あの先は別物だよ。あそこへ入って戻らなかった冒険者の話は、この町じゃ珍しくもねえ」
主人は二人の顔を交互に見比べ、急に声を低くした。
「あんたら、まさか頂上まで行くつもりじゃねえだろうな」
食堂にいた客たちも会話を控え、二人の返事を待つように視線を向けた。
「はい、頂上まで行くつもりです」
リュウジィは包み隠さず答えた。
ここで適当な嘘をついても意味がない。
それに、主人の目には二人の身を案じる気持ちがはっきりと表れていた。
「理由を聞いてもいいかい」
「彼女の防具の素材が、山頂にあるんです。どうしても必要で」
主人はミライの細い腕にちらりと視線を落とし、それからリュウジィの顔へまっすぐ視線を戻した。
何か言いかけてキュッと口を閉じ、しばらく黙り込んだ後、深いため息をついた。
「あの山の頂上には、神獣がいると言い伝えられてる。世界ができた頃から生きてる、人間がどうこうできる相手じゃねえってな。登った奴が皆、無事に降りてこられたわけでもねえ」
「ご忠告、ありがとうございます」
「忠告で済むなら、俺も言った甲斐があるんだがな」
主人は困ったように苦笑いし、首を横に振った。
「止めても無駄な顔をしてやがる。長いこと宿をやってると、そういう顔は嫌でも分かるんだ」
聞き耳を立てていた巡礼の男たちは顔を見合わせ、そろって小さく首を横に振った。
その様子から、二人が無謀な挑戦をしようとしていると考えていることが伝わってきた。
するとミライが小さく杯を置いて、にっこりと花が咲くような笑顔を向けた。
「心配してくださって嬉しいです。でも私達、ちゃんと帰ってきますから」
「嬢ちゃん、その自信はどこから来るんだい」
「この人が一緒だからです」
何の迷いもなく言われて、リュウジィは煮込みを思いきり喉に詰まらせそうになった。
慌てて水の入った杯に手を伸ばす。
主人は驚きで目を丸くしてから、呆れたようにカカッと笑い出した。
「なるほどな。ごちそうさまだ」
近くの卓からも、押し殺したような笑い声が漏れた。
先ほどまで張り詰めていた食堂の空気も、二人のやり取りをきっかけに和らいでいった。
ミライは何事もなかったかのように食事を続けていた。
リュウジィは彼女を横目で見たものの、結局、何も言い返せなかった。
主人は空いた皿を持ち上げ、厨房へ戻ろうとした。
だが、扉の前まで来たところで何かを思い出したように、ぴたりと足を止めた。
「八合目までの道なら、途中に山小屋がいくつかある。巡礼の連中が使う小屋だ。夕方までに着けなかったら、無理せずそこで休め」
「ありがとうございます。そうします」
主人は片手をひらひらと上げて、厨房の奥へ消えていった。
食事を終えて部屋に戻ると、ミライは窓辺にちょこんと腰かけて外を眺めた。
夕暮れの空の下、霊山ミスティアの険しい稜線が黒い影となって浮かび上がっている。
窓の下の通りでは、露店の主人たちが店じまいを始め、売れ残った商品を箱にしまったり、明日の営業に備えて道具を片づけたりしていた。
「ねえ、リュウジィ」
「ん?」
「さっきの、本当に会えると思う? 神獣に」
「分からない。でも、会えるかどうかも分からない相手に、こっちから会いに行くんだ。まずは行ってみるしかないだろ」
「ふふ、そうね」
ミライは窓の外を見つめたまま、小さく微笑んだ。
その表情は穏やかだったが、窓ガラスに薄く映る横顔には、山頂を目指す決意がにじんでいた。
「ヴォルグの時はね、怖くて、蹴りは使えなかったの。あんな思いはもうしたくないから、防具を作りたいって思ったのよ。だから、頑張って登るわ」
「無理はするなよ。しんどくなったら、すぐ言え」
「分かってる。そこは甘えるから」
ミライはいたずらっぽく笑うと、リュウジィの肩にストンと頭を預けてきた。
リュウジィもその温もりを感じながら隣に立ち、二人で同じ山を見上げた。
頂上は分厚い雲にすっぽりと隠れていて、ここからはまだ、何も見えなかった。
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