212話 蝶のように舞い、蜂のように刺す
霊山ミスティアの麓の町までは、馬車で二日かかった。
乗り合い馬車とはいえ、屋根付きの客車は座席のクッションに厚みがあり、身体への負担は思っていたよりもずっと軽かった。夜になれば、道中の宿場町にある宿で温かなベッドに身を沈め、ふたりはしっかりと旅の疲れを癒やすことができた。
ガタゴトと揺れる車内で、ミライは小さな窓へ頬を寄せるようにして、外の景色に見入っていた。
荒涼とした岩肌ばかりだった風景が徐々に変わり、鮮やかな緑を湛えた木々が濃さを増していく。遠くにあった山並みも、馬車が進むにつれて、その雄大な姿を現し始めていた。
目的地が近づいている。
その実感が、ミライの胸を弾ませていたのだろう。ふいに窓から振り返った彼女の声には、隠しきれない喜びの響きが混じっていた。
「見て、リュウジィ。山があんなに大きいよ」
その無邪気な瞳に引き込まれるように、リュウジィも窓の外へと視線を向けた。
「本当だ。頂上が雲に隠れてるな」
二日目の昼下がり、馬車は大きく揺れながら速度を落とし、目的地の町の入り口で静かに停まった。
ふたりは客車から地面へと降り立つと、長時間の移動で凝り固まった身体をほぐすように、小さく背伸びをした。
そして、顔を上げる。
目の前には、霊山ミスティアが、まるで天を突くかのような圧倒的なスケールでそびえ立っていた。
見上げていると首が痛くなるほどの高さだ。その圧倒的な山容を前に、これから自分たちが足を踏み入れる場所の規格外さを、改めて実感させられた。
麓の町は小規模ながら、活気があった。
通りを行き交う人々の中には、腰に武骨な武器を提げた者が目立つ。山を目指す者が集まる町らしく、どこか張りつめた空気が漂っていた。
ふたりが目指すふろむ・えーは、通りの突き当たりに建つ石造りの建物だった。
リュウジィが重厚な扉を押し開けると、昼間から漂うアルコールの匂いと、荒々しい話し声が一気に押し寄せてきた。
広間には、酒を飲みながら談笑する冒険者たちの姿がある。使い込まれた装備を身につけた者もいれば、仲間と卓を囲んで話し込んでいる者もいた。
そんな場所へ、リュウジィに続いてミライが足を踏み入れる。
彼女が纏っていた外套のフードをふわりと脱いだ瞬間、広間に満ちていた喧騒が、嘘のようにぴたりと凪いだ。
黒いリボンで高く結ばれた髪がさらりと揺れる。
血のように鮮やかな深紅の瞳が、静かに室内をひと撫でした。
どこか甘く、それでいて凛とした香気が、入り口から吹き込む風に乗って広間全体へとゆっくり広がっていく。
「…………」
冒険者たちの視線が、吸い寄せられるように一斉にミライへと集中した。
先ほどまで談笑していた者たちも、酒を口に運んでいた者たちも、いつの間にか彼女の姿を目で追っている。
リュウジィは、ああ、こうなるよな、と内心で小さくため息をついた。
ミライの容姿が人目を引くことは、今に始まった話ではない。
それでも、これだけ大勢の冒険者が集まる場所で、ここまで露骨に注目されるとは。
そんなリュウジィの心中など知る由もなく、当の本人は周囲の熱視線など最初から存在しないかのように、澄ました足取りでまっすぐ受付へと歩いていく。
受付の女性も一瞬ミライに見とれたが、すぐに仕事の顔に戻った。
「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いします。まず、お名前とパーティー名、ランクをお願いします」
「名前はリュウジィです。パーティー名はウロボロス、ランクはEです。こっちはミライで、同じくEランクです」
自分の名前が出た瞬間、ミライが嬉しそうに口元を緩めた。
その表情を横目に見ながら、リュウジィは受付の女性へ視線を戻した。
「ありがとうございます。それでは、どの依頼をご希望ですか? Eランクですと、受けられる依頼は限られてしまいますが」
「依頼ではなくて、ダンジョンに入る申請をお願いしたいんです。霊山ミスティアの、星降る天壇です」
受付の女性は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いて申請書を取り出した。
リュウジィは申請書を受け取り、必要事項を記入してから受付の女性へ差し出した。
女性は書類に目を通し、判を押して返した。
「星降る天壇へのダンジョン入場申請、確かに受け付けました。どうかお気をつけて」
手続きは、思ったよりあっさりと終わった。
ふたりが書類を受け取って振り返り、出口へ向かおうとしたときだった。
カウンターの端で酒を飲んでいた男が、にやにやしながら立ち上がった。
三十前後の剣士だった。革鎧を身につけ、腰には使い込まれた剣を下げている。
男はミライの前へ回り込むように歩み寄ると、上から下まで品定めするような笑みを浮かべた。
「お嬢ちゃん、Eランクなんだって? そんな細い腕で、本当に戦えるのか? 山なんか登るより、俺と遊ぼうぜ」
ミライは何も答えず、男の脇をすり抜けて歩き続ける。
リュウジィも相手にする気はなく、そのまま出口へ向かった。こういう手合いにいちいち付き合っていても、時間の無駄だ。
だが、男は二人が無視していることなど気にも留めず、追うようにさらに声をかけてきた。
「おい、無視すんなよ。そんな変な服を着た男より、俺のほうがいいに決まってるだろ」
リュウジィは思わず自分の服に目を落とした。
黒に金の筋が入ったチャイナ服のファフニール。
変かな、と一瞬だけ真面目に考える。
自分としては気に入っているのだが、他人から見ればそうでもないのだろうか。
そんなことを考えていた、そのとき。
隣を歩いていたミライの足が、ぴたりと止まった。
空気が、すっと冷えた。
振り返らないまま、ミライの背中だけが静かに張りつめている。
その変化を感じ取ったリュウジィは、彼女の様子をうかがった。
この背中が何を意味しているのか、なんとなくリュウジィはわかった。
「ちょっとミライ」
声をかけるより先に、ミライが片手を横へ伸ばしてリュウジィを制した。
そして、ゆっくりと男のほうへ振り向く。
深紅の瞳が、男をまっすぐに捉えた。
「今、何て言ったの?」
「あ? だから、そんな変な服の男より……」
「私に勝ったら、好きにしていいわよ」
広間がどよめいた。
それまで様子をうかがっていた冒険者たちが酒を置き、面白い見世物が始まったとばかりに壁際へ下がっていく。
突然の申し出に、男は一瞬ぽかんとした。
だが、すぐに下卑た笑みを浮かべる。
「へえ、言ったな。後悔するなよ」
男が剣を抜いた。
広間の中央に空いた場所で、ミライはポケットからエンペラーナックルを取り出し、両手にはめた。
その姿を見て、リュウジィは眉を寄せる。
エンペラーナックルはただの武器ではない。強力なアーティファクトだ。
相手の実力がどの程度かは分からないが、ミライが本気を出せば、この場が大惨事になりかねない。
リュウジィはミライの隣へ並び、小声で言った。
「ミライ、それはアーティファクトなんだから、手加減しないと大怪我させちゃうよ。ここもめちゃくちゃになるしさ」
ミライはリュウジィを見上げ、にっこりと笑って頷いた。
その笑顔を見て、リュウジィはかえって少し怖くなった。
本当に分かっているのだろうか。そう思ったものの、口には出さなかった。
「行くぞッ!」
男が床を蹴り、横薙ぎの剣を放った。
ブォンッと風を裂く音が広間に響く。
だが、刃が通り過ぎた先に、ミライはいなかった。
男の目が見開かれる。剣が届くより先に、ミライは半歩後ろへ退いていたのだ。ほんのわずかな動きで、男の攻撃は完全に空を切った。
慌てて剣を振り下ろす男。
ガンッ!
二撃目も床板を叩いて木片を散らすだけだった。そのときにはもう、ミライは男の右側面に立っている。
「なっ……どこ行きやがった!」
「こっちよ」
声のしたほうへ男が剣を突き出すが、左へ、右へ、トン、トンと軽い足音だけが床を叩き、そのたびに黒いリボンの尾が残像のように宙を流れた。
速い。ただ速いというだけではない。
男が剣を振るうよりも先に、ミライはその攻撃が届かない場所へ移動しているのだ。
リュウジィは男の動きとミライの動きを見比べた。男の剣筋は荒く振りも大きいが、仮にもっと鋭い剣だったとしても結果は変わらなかっただろう。それほどまでに、ミライの身のこなしは群を抜いていた。
壁際の冒険者たちから、どよめきが漏れる。
「おい、今の見えたか……?」
「見えるかよ。消えたようにしか見えねえ」
リュウジィは腕を組んだまま、静かに息を吐いた。
タツヨが「ちょっと異常なくらい天才」と言っていたのは、お世辞でも何でもなかった。
男が力任せに剣を振り上げた、その一瞬。
ミライの姿が、男の懐へすっと滑り込んだ。
パンッ!
左のジャブが顔面で弾けた。
男の頭が跳ねる前に、パンッ、パンッ、パンッと破裂音が立て続けに響く。
四発、五発と、男が瞬きをする間にジャブが顔を叩き続け、男の視界が揺れた。
何が起きているのか理解する暇もない。
そこへ右ストレートが、顎先に突き刺さった。
ゴッ、と鈍い音が鳴る。
ミライはぎりぎりまで力を抑えていたが、エンペラーナックルの拳は軽くはない。
男の体は後ろへ弾かれ、足を床に擦らせながら数メートル後退した。
背中がテーブルにぶつかり、かろうじて倒れずに踏みとどまる。
鼻と口から血が垂れ、膝は笑い、焦点の合わない目で宙を見たまま、声にならない息を漏らした。
「ぐ……ぁ……」
男はまともに立っていることさえ難しそうだった。
それでも意識が飛びかけたまま、男は剣だけを握りしめ、本能のように振り上げた。
その剣が頂点に達するより早く、ミライはもう男の目の前まで間合いを詰めていた。
視界の外からブーツを履いた脚が跳ね上がる。
空気がヒュオッと唸り、ミライの右脚が弧を描いて男の側頭部へ飛んだ。
軌道を変えて襲いかかる鋭いハイキックが、男のこめかみを捉える。
バシィッ!
革を打つような高い音が広間に響き渡る。
男の体が真横へ弾き飛ばされ、剣が手を離れて宙を舞った。
男はテーブルを二つ巻き込みながら壁際まで吹き飛び、ずるりと崩れ落ちて動かなくなった。遅れて落ちてきた剣が、カランと床で鳴る。
広間が静まり返る。
その一連の攻防は、あまりにも一方的だった。
ミライは静かに息を整え、乱れたリボンを指先で直した。
「……ふう」
誰も口を開かないまま、ミライは入り口へ歩き出した。
リュウジィは慌ててその後を追い、ふたりは外へ出た。
夕暮れが近づいた通りで、リュウジィは我慢できずに口を開いた。
「ミライ、今の蹴り……どこで覚えたんだ?」
「ハクさんに習ってるの。お店のない日に、こっそり」
ミライは前を向いたまま、少しだけ照れたように言った。
「ヴォルグ戦のときは、自信がなくて使えなかったの。足が前に出なかった」
「そうだったのか……」
リュウジィは驚いていた。
ハクさんに足技を教わっていたことも、ヴォルグ戦で悔しい思いをしていたことも、まったく知らなかった。
先ほどの蹴りは、相手を倒すには十分すぎるほどの威力があった。
だが、ミライ自身は、それを自分の成長の証として誇るつもりはないらしい。
「さっきも、当たったのは相手がたいした冒険者じゃなかったからよ。私の中では、まだまだなの」
その言葉に、リュウジィは何も言えなかった。
ミライは強くなっている。
それも、ただ力が増しているだけではない。自分に足りないものを自覚し、それを補うために努力を続けていたのだ。
リュウジィの知らないところでも、彼女は少しずつ前へ進んでいた。
夕日に照らされたポニーテールが、歩くたびに小さく揺れている。
その横顔を見ながら、リュウジィは素直な気持ちを口にした。
「ミライは、どんどん強くなるな」
「そうでしょ。強くなるから、ちゃんと置いていかないでね」
ミライが笑って、リュウジィの腕に自分の腕を絡めた。
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