210話 まだ見ぬ素材
アランに案内された奥の工房は、表の金物屋とはまるで別の場所だった。
扉をくぐった途端、熱が肌にまとわりつく。
壁際には大人が三人は入れそうな大きな炉が据えられ、炭がまだ赤みを残していた。石の床には黒い煤が染み込み、歩くたびにジャリ、と靴底が鳴る。
作業台には打ちかけの鉄板がいくつも並び、天井からは大小の槌が吊るされている。
壁の棚には見慣れない道具や型が整然と収まっていて、どれも長年握られてきた鈍い光沢を帯びていた。
道具は多い。鉄板も作業途中の品も並んでいる。
それなのに、散らかっているという印象はまるでない。
鍋と農具ばかりだった店先が嘘みたいだ、とリュウジィは思った。
ここでは、置かれているものすべてが何かを作るために使われている。
アランは作業台の引き出しから、使い込まれた革紐を取り出した。何本もの結び目が等間隔に付いている。
「そこで、いつもの動きをやってみい。戦う時のやつじゃ」
「構えて動くだけで、いいんですか」
「ああ。わしは強さを見るんじゃない。どこが、どれだけ動くかを見る」
ミライは小さく頷くと、工房の中ほどまで進み出た。
拳を顎の高さに上げ、膝を軽く緩める。踵がわずかに浮いた。黒髪の毛先が熱気で揺れ、甘い香りが炭の匂いに混じって広がる。
リュウジィは邪魔にならないよう、壁際まで下がった。
シュッ、シュッ。
左のジャブが二発、空を切る。
踏み替えて右のストレート。肩から先が鞭のようにしなり、戻りも速い。
頭を沈めて左右に揺れ、サイドステップで横へ抜ける。靴底が石の床を擦り、トン、トン、と一定の間隔で乾いた音が鳴った。
アランは一歩も動かず、目だけで追い続ける。
その視線は、拳や顔ではなく、肩、腰、膝、足首へと順に移っていった。
拳の速さを見るのではない。
ミライが身体のどこを使って拳を出し、どこまで身体を動かせるのか。
それを確かめるような視線だった。
「肩をもう一度。右じゃ」
ミライが右のストレートを打つ。アランは革紐を肩口に当て、結び目を数えると、作業台の板切れに炭で何かを書き付けた。
「次は膝を深く。そのまま横へ跳んでみい」
言われた通りに、ミライが横へ跳ぶ。着地の瞬間、足首が深く曲がった。
「ふむ」
アランは足元にしゃがみ込み、革紐を脛から足の甲へ這わせた。
「脛の長さと、足首の曲がる角度。ここが肝心なんじゃ」
ミライは黙って立ったまま、されるがままになっている。深紅の瞳だけが、板切れに増えていく炭の線を追っていた。
アランが測っているのは、単純な身体の大きさだけではない。
防具を身につけた時、どこまでなら今の動きを保てるのか。
それを確かめているのだろう。
「うちの彼女、動きだけなら相当なんですよ」
壁際からリュウジィが声をかけると、アランが顔を上げ、片眉を上げた。
「彼女?」
「ええ、彼女です」
ミライは足元のアランを見下ろしたまま、視線だけを壁際のリュウジィへ流した。口元がほんのり緩んでいる。
「もっと言ってくれていいのよ、リュウジィ」
人前で「彼女」と呼ばれたのが嬉しくてたまらないらしい。
満足そうに目を細め、悪戯っぽい視線をリュウジィへ送ってくる。
リュウジィは思わず苦笑した。
アランはフンと鼻を鳴らしただけで、それ以上は何も聞かなかった。再び革紐を足首に巻き直し、結び目を数え始める。
測り終えると、アランは棚から鉄の胸当てを一つ下ろし、ミライの前に突き出した。
「着てみい。店で一番軽い部類じゃ」
ミライは受け取り、革の留め具を締めて身に着ける。鉄の板が、胸の前にぴたりと収まった。
「では、さっきと同じ動きをやってみい」
シュッ。
左のジャブは出た。だが、右のストレートで肩が前へ伸びきらない。
ガチ、と鉄が肩口に当たって鳴る。ミライは眉を寄せ、もう一度打つ。ガチ、と同じ音がした。
サイドステップの踏み替えも、さっきより一拍遅い。
たった一枚の鉄板を身につけただけなのに、さっきまで軽々と動いていた身体に、わずかな遅れが生まれていた。
「……重いです」
「軽い部類じゃと言うたろう」
アランは腕を組んだまま、淡々と言った。
「胸を鉄で覆えば、肩の回りが死ぬ。お前さんの拳は、肩から先が生き物のように動くのが身上じゃ。それを殺す鎧は作らん」
ミライが胸当てを外すと、リュウジィは受け取って手に載せた。
男の自分には、どうということもない重さだった。
だが、これを身につけてミライと同じ動きをしろと言われれば、話は変わる。
「店で一番軽い部類でこれか。俺には何でもない重さだが、ミライの動きには確かに邪魔だな」
「ああ。鉄である以上、どう削ってもそれが限度じゃ。わしの腕でも、鉄の重さまでは変えられん」
リュウジィが胸当てを差し出すと、アランは片手で受け取り、重さを確かめるように軽く揺すってから、元の棚へ戻した。
「胸当てなら、鉄で作れば刃は止まる。じゃが止まる分だけ、硬くて重い。軽くしようと薄く叩けば、今度は衝撃が身体まで抜ける。だから、さっきのが守れる限度の軽さなんじゃ。それ以上は、鉄では削れん」
守るために厚くすれば動けない。
動きを優先して薄くすれば、今度は守れない。
ミライが求めているものは、そのどちらにも収まらない。
「軽くて、肩も動かせて、それでも守れる胸当てが欲しいんです」
「そこじゃ。鉄では、その注文は叶わん。三つ全部を満たす鉄は、この世にないんじゃ」
アランは板切れに目を落とし、炭で書き付けた線を指先でなぞった。
「脛の寸法まで測ったのは、胸だけで済む話ではないと思うたからじゃ。どこまで覆うつもりじゃ」
「胸と、両方の脛です。タツヨさんの防具と同じ形でお願いしたいんです」
「脛もか。あれだけ足首が曲がる脚に鉄の筒を被せれば、曲げるたびに縁が肉に食い込むわい」
「脛を守れないのも困ります。でも、足が動かなくなるのはもっと困ります」
「胸も脛も、鉄ではどちらも叶わん。揃えるなら、鉄ではない素材で揃えるしかなかろう」
ミライは胸当てのあった辺りに、そっと手を当て、それから静かに顔を上げた。
「鉄以外の素材で、作ってもらうことはできませんか」
アランは作業台の端に腰を預け、炉の火を見た。
「鉄以外なら、心当たりはある」
ぽつりと言って、顎の髭を撫でる。
「じゃが、そんな素材は、ここにはもう置いとらん」
ミライは黙ったまま、アランの横顔を見つめていた。
「ここには置いてない、ということは、どこかにはあるんですか」
リュウジィが口を挟むと、アランは顔だけこちらに向けた。
「軽くて、薄くて、刃も衝撃も通さん。そんな素材は、神話級の魔物のものくらいしか、わしは知らん。タツヨの小僧の胸当と脛当てに使ったロード・アトラスの外殻が、まさにそうじゃった」
アランは炉の火に目を戻した。
「鎧に向いた甲虫の最高峰がロード・アトラスなら、軽さと硬さでそれに対抗できる別格の翅がある。……いわば、蝶の頂点よ」
「蝶、ですか」
ミライが首を傾げる。
「始祖神翅獣、クイーン・モルフォ。その翅じゃ。紙より軽いくせに、鋼より硬い。ただし、わしの倉庫にはない」
アランは足元の床を、顎でしゃくって示した。
「ダンジョンの奥に棲んどる。欲しければ、自分で獲ってくることじゃ」
リュウジィとミライは、顔を見合わせた。
防具を作ってもらうために来たはずが、話はいつの間にか、神話級の魔物から素材を手に入れるところまで進んでいる。
ミライの深紅の瞳が、ゆっくりと細くなる。
「蝶のように、ですね」
「何だそれは」
「タツヨさんの口癖だよ。蝶のように舞い、蜂のように刺す」
そう言いながら、ミライが軽くステップを踏み、左右のワンツーを繰り出した。
リュウジィが小さく笑った。
(それ伝説のヘビー級ボクサー、モハメド・アリの名言じゃん)
旅行のつもりで来たはずだったが、どうやら色気のない旅は、まだ続くらしい。
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