206話 五人の帰還
魔族国、鬼人族の都の中心にそびえる居城。
黒に近い灰褐色の岩をそのまま積み上げたような外観は、人間の国の城とは似ても似つかない、無骨で威圧的な佇まいをしていた。壁のいたるところに刻まれた無数の紋様は、代々の魔王が討ち滅ぼしてきた敵の名残だと言われている。
城内に足を踏み入れると、外観とは対照的に、内部は暗く沈んだ静けさに支配されていた。松明の炎が壁を這うように揺れ、その淡い明かりが岩肌を照らしている。長く続く回廊の奥からは、低い声がかすかに響いていた。
その最奥にあるのが、玉座の間だった。
天井は高く、剥き出しの岩肌がそのまま柱となり、玉座を支えている。窓はなく、代わりに壁一面に埋め込まれた発光石が、青白い光で室内を照らしていた。
玉座に腰掛けるのは、魔王カオサイ・グリフォン。
顔の半分を覆う黒い面。その下から覗く肌は浅黒く、後ろに撫でつけられた黒髪の間から、二本の角が伸びている。細身の体つきでありながら、そこにいるだけで周囲を圧するような空気を纏っていた。
その玉座の前、石畳に片膝をついているのは、白髪に近い銀髪を持つ、がっしりとした体格の男――カイゼル・グリフォンだった。額に一本だけ生えた角が、発光石の光を鈍く反射している。
重苦しい静寂の中、カイゼルが口を開いた。
「兄者。クラウスの件、片付けてまいりました」
カイゼルの声は淡々としていた。感情の起伏は、その表情からは一切読み取れない。
カオサイは軽く鼻を鳴らした。
「そうか。あれは昔から、独りよがりが過ぎた。人間との協定を軽んじて、勝手に事を起こす。……馬鹿の厄介払いができて、せいせいするわ」
角の生えた顔に、薄い笑みが浮かぶ。同族の死を悼む色は、そこにはなかった。
「ところで」
カオサイが身を乗り出す。
「例の、竜の力を使う人間はどうだった」
カイゼルは一拍置いてから答えた。
「リュウジィという男です。確かに二つのアーティファクトを同時に操り、人間としては規格外の強さを持っています。クラウスを、あそこまで追い詰めたのも事実。……ですが」
「ですが?」
「魔族全体から見れば、まだ脅威と呼ぶほどのものではありません。人間の中では傑物でしょうが、それだけです」
カオサイはしばらく黙り込んだ後、玉座の肘掛けに頬杖をついた。
「そうか。……とはいえ、な」
面の奥の目が、細められる。
「念のため、警戒はしておけ。今はまだ大した力がなくとも、この先どう化けるか分からんからな」
「御意」
カイゼルは頭を垂れたまま、静かに答えた。
◇ ◇ ◇
国境沿いの街道脇に転移してきた五人は、しばらくの間、誰も口を開かなかった。
夜風が草木をかすかに揺らしている。荒い息遣いだけが、その場に残された五人の間を行き交っていた。
地面には土と乾いた草の匂い、それに自分たちの血と汗の匂いが混じっている。頭上には見慣れたはずの星空が広がっていたが、たった今まで死線を潜り抜けてきた身には、その静けささえどこか現実離れして感じられた。
リュウジィは膝に手をつき、荒く息を吐いた。二十七年分の武術の記憶を持つ体でさえ、今は指先まで鉛のように重い。全身の痛みが、戦いの最中には意識する余裕もなかったところまで、ようやく脳に届き始めていた。
それでも、その痛みより強く胸を占めていたのは、生きて帰れたという実感だった。
隣で、ミライが膝から崩れ落ちる。地面に手をついたまま、肩を震わせていた。
「……終わった、の?」
声が掠れている。エンペラーナックルを装備したままの拳が、小刻みに震えていた。
リュウジィはミライの肩に手を置き、それから一人ずつ顔を確かめるように視線を巡らせた。
「ムサシ、怪我はないか」
「……問題ない」
ムサシは呆然と夜空を見上げたまま、感情の読めない声で短く答えた。だが、その手はまだ刀の柄を強く握りしめたままだった。
「カミラは」
「見ての通り、ボロボロだけどね。生きてるよ」
カミラは自分の両手を見つめたまま、小刻みに震えていた。強がった声の端が、わずかに揺れている。
タツヨは荒い呼吸を繰り返しながらも、しっかりと自分の足で立っていた。頬の裂傷から、まだ血が滲んでいる。
一人ずつ確かめていく。
誰も、欠けていない。
その事実を確認しただけで、詰めていた息がようやく体の外へ抜けていくようだった。ここまで無事に帰ってこられたことが、ようやく現実として感じられる。
「終わった。……みんな無事だな。本当に良かった」
「クラウスの奴……」
タツヨが荒い呼吸のまま呟いた。
「あれ、マジで化け物だったな」
「ここまでの相手だとは、正直思ってなかった」
タツヨが尾の一撃で吹き飛ばされ、動かなくなった時の光景は、まだはっきりと目に焼き付いている。
あの重い音、地響きのような衝撃、砕けた石床の上に沈んでいく体――バラバラの記憶の断片が、今も脳裏にこびりついていた。
「お前が吹き飛ばされた時に、怒りで目の前が真っ赤になったよ」
リュウジィは拳を握りしめながら言った。
「それなのに急に戻ってきて、ホライゾン・ブレイクをぶち込んでくれたろ。いいタイミングだったよ。あの一撃で隙が出来たから、馬形拳でダメ押しの一撃を入れられたからさ」
「あれ凄い破壊力だったな!何で今まで使わなかったんだよ?」
タツヨが目を丸くしながら言った。さっきまでの消耗した顔つきが嘘のように、興奮を隠せない様子だった。
「モーションがデカいから、簡単に当たらないんだよ。必ずしも双拳を当てるわけじゃなくて、双拳を繰り出して片方だけ当てる場合もあるんだけどね」
リュウジィはそう言いながら、両の拳を軽く前へ突き出し、力を込めずに馬形拳の動きを再現してみせた。
「ヴォルグの方も、かなり手強かった」
ムサシが刀を鞘に収めながら言う。
「グリップ・ファングさえなけりゃ、もっと早く決着ついてたと思うけど……あの反射神経、正直厄介だった」
「そんな厄介な技を使う相手に、三人で勝っちゃうんだから、ムサシもカミラもミライも本当にすごいよ」
リュウジィがそう言うと、ムサシは小さく肩をすくめた。
カミラが小さく笑った。乾いた笑いだった。
「さすがに今回は、私もちょっとキツかったね」
ミライが顔を上げる。額には汗で前髪が張りついたままだったが、口元にはわずかな笑みが戻っていた。
「あたしなんか、ずっと必死だったよ。でも、結局なんとかなっちゃったね」
リュウジィはミライの言葉に小さく頷いた。
それから膝についていた手を離して背筋を伸ばし、少しだけ表情を引き締めて、みんなの方へ体ごと向き直った。
ここまでの戦いを思い返せば、ほんの少し前まで、この五人が全員そろってここにいることさえ確かなものではなかった。誰か一人でも欠けていたら、今こうして夜空の下で話すこともできなかっただろう。
リュウジィは少し照れくさそうに頭をかきながら、口を開いた。
「俺が行くって言い出したせいで、みんなを巻き込んじゃったからさ。もし誰かに何かあったらって、正直ずっと気が気じゃなかったんだよ。だから全員そろって帰ってこられて、今めちゃくちゃホッとしてる。ほんとに、付き合ってくれてありがとう」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。夜風だけが、しばらく草木をざわめかせていた。
「なに今さらかしこまってんだよ」
タツヨが先に口を開いた。
「俺たちは自分で行くって決めて、ついてったんだ。お前一人のせいみたいに言うなって」
「そうだよ」
ミライも頷く。
「あたしだって、自分で行くって決めたんだから」
ムサシも小さく頷いた。
「俺も同じだ。誰かに言われて来たわけじゃない」
「それに私は、面白そうだから来ただけだしね」
カミラがそう言って、肩をすくめてみせた。
リュウジィは返す言葉が見つからず、代わりに小さく笑った。
自分一人で背負い込んでいたつもりのものを、みんなは最初から一緒に持ってくれていたらしい。そう思うと、ずっと張り詰めていたものが、肩からすっと抜けていくようだった。
「……ていうか、もう夜中じゃん」
そう言って、辺りを見回す。
「乗り合いの馬車なんて、もう出てないよね」
「この時間じゃ、まず無理だろうな」
ムサシが淡々と答える。
「じゃあ朝まで、ここで野宿するしかねえな」
タツヨがそう言うと、カミラがその場にどさりと座り込んだ。
「賛成。てか、もう一歩も歩けない」
ミライもカミラの隣に腰を下ろす。タツヨ、ムサシも、それぞれ近くの木の幹に背を預けるようにして座る。
リュウジィも同じように腰を下ろした。
戦いの緊張が解けた今になって、全身に残った疲労が一気に押し寄せてくる。しばらく誰も口を開かなかったが、不思議と気まずさはなかった。
言葉を交わさなくても、今は互いがここにいる。それだけで十分だった。
やがてミライが、ぽつりと呟いた。
「約束通り、五人で帰れたね」
「うん。帰ったら、まずはみんなでおやっさんの店に行って、腹いっぱい食べようよ」
その一言に、張り詰めていたみんなの顔が、ようやくふっと緩んだ。
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