205話 魔族の裁定
カイゼルと呼ばれた男は、静かに地へ降り立った。その姿を前に、しばらく誰も動くことができなかった。
冷たい夜風が、額に生えた一本角と、頬から首筋へ続く黒いタトゥーを撫でていく。
「――また会いましたね」
魔族序列ナンバー2
カイゼル・グリフォン。
リュウジィへ向けられたその声には、敵意も殺気も感じられない。その平穏さが、かえってこの場の空気を異様なまでに張り詰めさせていた。
「カイゼル……何故あなたが?」
リュウジィは油断なく全身を強張らせ、絞り出すように問う。その内にはまだ竜の力が滾っていたが、目の前の男から放たれる底知れぬ圧力は、先ほどまで戦っていたクラウスのそれとは明らかに種類が違っていた。
戦いの一部始終を固唾を飲んで見守っていたミライ、ムサシ、カミラが、足早に駆け寄ってくる。
その背後、瓦礫の中では、クラウスが血まみれの身を震わせながら、這うように起き上がろうとしていた。
カイゼルはその方を一瞥もせず、ただゆっくりとリュウジィたちの前まで歩を進める。
「何をしに来きたのですか?」
カイゼルは口の端をわずかに歪め、乾いた笑みを浮かべた。
「何をしに来たか?リュウジィ君面白い事言うね。人間が、魔族の国まで攻め入って、牙血族の長がこの有様だ。――本来なら、これは国際問題だよ。下手をすれば、戦争になるよ」
その冷徹な言葉に、リュウジィの背筋が凍る。
戦争。
そのあまりにも重い響きが、周囲の空気を一気に張り詰めさせていく。ミライが小さく息を呑み、ムサシが無言のまま拳を強く握り直した。
「……っ」
リュウジィは奥歯を強く噛みしめる。
自分の店を無残に潰され、大切な仲間を傷つけられ、頭に血が上ったまま、感情のままにここまで来てしまった。
その選択がもたらした取り返しのつかない重さが、今さらになって両肩へとのしかかってくる。
だが――
「――ですが」
静けさを切り裂くように、カイゼルの声が続く。
「今回、事の発端は牙血族側にある。勝手に人間の街を襲った。それが、こうなった理由だ」
淡々とした、あまりにも平坦な声だった。そこに感情の起伏は、まるで感じられない。
「元々魔族としては、牙血族の暴走と捉えてます。ですから、これを国同士の問題にするつもりはありません」
思わぬ言葉に、リュウジィはハッと顔を上げた。
「……それは、どういう」
「言葉の通りです」
カイゼルは迷いなく短く言い切る。
「魔王様も、承知の上です」
その名が出た瞬間、ヴォルグたちの間に走った緊張の色が濃くなる。ミライが小さく息を呑み、息を詰まらせた。
瓦礫の中から、クラウスが血の泡を激しく吐き出しながら、絶叫するように怒鳴り声を上げる。
「――カイゼル、てめえ……! 何を勝手に……!」
だがカイゼルは、その叫び声にちらりとも視線を向けない。
まるで、そこに最初から誰もいないかのように。
その徹底した無視の仕方が、この場の異様さと残酷さをより一層際立たせていた。
リュウジィは、荒れる呼吸を必死に整えながら、自分の中で激しく燃え盛っていた熱が、少しずつ冷めていくのを感じていた。
――このまま自分の感情だけで突っ走れば、どれだけの人間を巻き込むことになるのか。
――国と国の戦争になんてなったら、二度と取り返しがつかない。
強く握りしめた拳の爪が手の平に食い込むのを堪えながら、リュウジィは深く、深く頭を下げた。
「……申しわけ御座いません。ここまで、事を大きくして」
タツヨが驚愕に目を見張り、リュウジィを凝視する。だが、その口からは何も言葉が出なかった。
カイゼルは、その必死の謝罪に対しても、表情ひとつ変えることはない。
「頭を上げてください。あなた方を責めるつもりはない」
そう告げると、カイゼルはゆっくりと右手を掲げた。
その指先に、複雑な魔法陣が音もなく浮かび上がり、怪しく明滅する。
「これより、国境まで転移させます。二度と、こちら側へ足を踏み入れないように。もし来るのであれば、正式な手続きを踏んで下さい」
魔法陣から放たれた光が、リュウジィ、タツヨ、ヴォルグ、ミライ、ムサシ、カミラの足元を、瞬く間に次々と包み込んでいく。
「……感謝します」
リュウジィが絞り出したその言葉は、眩い光に呑み込まれて途切れた。
視界が完全に真っ白に染まり、次の瞬間には、周囲の景色が一変していた。
そこは、見慣れた国境の岩場だった。夜風の匂いさえも、先ほどまでの魔族領とは違って感じられる。
「……戻された、のか」
ムサシが信じられないといった様子で、呆然と呟いた。
ミライが崩れ落ちるようにその場に膝をつき、カミラは震える両手で自分の体を必死に確かめている。
リュウジィは悔しさに拳を固く握りしめたまま、すでに消え去った転移の光の跡を、険しい眼差しで睨みつけていた。
リュウジィの脳裏に、ひとつの思いが浮かぶ。
(生きて帰れた)
一方、激しい戦いで廃墟と化した大広間には、カイゼルとクラウス、二人だけが取り残されていた。
クラウスは崩れた瓦礫に両手をつき、ようやくの思いで片膝立ちになったところだった。血に染まった牙が、荒い息とともにむき出しになる。
「――カイゼル……てめえ、何のつもりだ」
怒りに満ちた問いかけに答えることもせず、カイゼルの纏う空気が、一瞬にして凍りつくように変わった。
「――人間ごときに、これほどまでにやられて」
これまでの淡々とした声とはまるで違う、底冷えのする響きが広間にこだまする。
「魔族の恥だとは思わないのか、クラウス」
「な……っ」
「牙血族の長――その座からは、悪いが降りてもらう」
突き放すような冷酷な宣告に、クラウスの目が驚愕に見開かれた。
「ふざけるな! 俺は牙血族の長だぞ! てめえにそんな権限が……! それに他の牙血族の者たちが黙っちゃいない」
「他の者達? ああ、お前を支持してた者達か?」
カイゼルは、感情の欠片もない冷ややかな目でクラウスを見下ろした。
「これだけの騒ぎを起こしておきながら、誰も駆けつけてこなかった。おかしいと思わなかったか?」
「――な……」
「この館にいた、お前以外の牙血族――全て、私が始末した」
「――は……?」
クラウスの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「安心しろ。牙血族そのものを絶やしたわけではない。別の奴に長になってもらう」
カイゼルの端正な唇が、わずかに笑みの形を作る。
「人間ごときにここまで無様にやられた者を、この先も長として、他の牙血族が認めると思うか?」
怒りと絶望に、クラウスの巨体が小刻みに震え始めた。
「――ふざけるなよ……!」
「新しい長は、私が選ぶ」
「そんなもの、他の牙血族が黙ってねえぞ……!」
冷笑を浮かべるカイゼルを前に、クラウスの中で何かが完全に弾けた。
「――ぶっ殺してやる……!!」
満身創痍の体を無理やり奮い立たせ、クラウスは剥き出しの殺意とともに、カイゼルに向かって猛然と突進する。
だが、その死力を尽くした動きは、今のカイゼルの前にはあまりにも遅かった。
カイゼルは、わずかに片手を軽く振るうだけだった。
空気が鋭く唸る。
次の瞬間、目に見えないほど高速の斬撃が、突進するクラウスの首筋を正確に通り抜けた。
漆黒のたてがみを纏った獅子の頭部が宙を舞い、重く鈍い音を立てて冷たい瓦礫の上を転がっていく。
残された巨大な躯体は、断末魔の悲鳴を上げる暇すらなく、その場に音を立てて崩れ落ちた。
カイゼルは、鮮血の中に事切れたクラウスを一瞥すらすることなく、静かに踵を返す。
同じころ、魔族国の一室。
暗闇の中で水晶に映し出されるその一部始終を、息を詰めてじっと見つめていた者がいた。
赤髪の男――ルシエル。
リュウジィたちの激しい戦闘が始まった瞬間からずっと、水晶の光越しにその顛末を凝視し続けていた。
ルシエルは、水晶に映る無残に崩れ落ちたクラウスの骸と、涼しい顔でその場を立ち去るカイゼルの背中を、恐怖と焦燥の入り混じった目で交互に見つめる。
(……このままじゃ、駄目だな)
首筋から頬にかけて途切れなく続く、魔族の証である深いタトゥーが、不気味な月明かりの下で青白く静かに浮かび上がっていた。
(リュウジィたちと戦っても、今のままじゃ勝てない。……カイゼルにも、まるで届かない)
野心に満ちたその瞳の奥が、闇の中で鋭く光を放つ。
(魔王の座になんて、程遠い)
ルシエルは、悔しさに震える拳をこれ以上ないほど強く握りしめた。
(――もっと、強くならなければ)
胸の内に刻み込んだその誓いだけを道標に、ルシエルは音もなく闇の中に溶けるようにして姿を消した。
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