204話 最強の一撃――馬形拳
クラウスが再び地を蹴った。
漆黒の爪が、禍々しい弧を描いて空気を切り裂きながら振り抜かれる。リュウジィは一瞬の迷いもなく内功盤根の歩法を発動させ、その鋭い爪撃を巧みに外へ流した。
頭上から巨大な影が差す。棘に覆われた黒い尾先が唸りを上げ、凄まじい勢いで振り下ろされた。
反射的に体を横へ滑らせ、リュウジィは間一髪でその軌道の外へ抜ける。
辛うじて攻撃を躱した勢いのまま踏み込もうとした瞬間、目にも留まらぬ速さでクラウスの左右の爪が連続して振り抜かれた。
紙一重ですり抜ける。しかし、攻撃の勢いに弾かれるように、リュウジィの体は後方へと下がった。
地鳴りのような重い音とともに、太い尾が横から足元を強烈に薙ぐ。
再び内功盤根の歩法で円を描くように体をさばき、牙を剥くように迫る爪の軌道を間一髪でかわす。だが、直後には休む間もなく次の爪が振られ、リュウジィはさらに後ろへ下がった。
「――くそ、どうすりゃいいんだ……!」
小さく息を吐き捨て、視線を一瞬たりとも切らさない。
研ぎ澄まされた意識のまま、クラウスのわずかな隙を見極めようとする。
爪の連撃が途切れた、まさにその一瞬。
懐へ一気に踏み込もうとした矢先、地を這っていた尾が瞬時に持ち上がった。
次の瞬間、黒い尾が凄まじい速度で床へ叩きつけられ、リュウジィの行く手を塞ぐ。
ドガァンッ!!
床が深く抉れ、鋭い破片が四方八方へ激しく飛び散る。
一歩が、どうあがいても届かない。
「――くそっ……!」
覚醒状態の圧倒的な気迫を維持したまま、荒ぶる爪の一撃を紙一重で外へ流す。息をつく間もなく、低く這うように泥臭く迫った尾も、同じ要領で正確に軌道の外へ流した。
だが、回避に費やしたわずかな距離が、踏み込むべき決定的な機を奪う。
「――全然、間合いに入れねえ……!」
研ぎ澄ました内功の力を極限まで高め、視線を一切切らさずに鋭く構え直す。
だが、容赦のない爪と尾の連撃は一瞬たりとも途切れない。次の一歩を踏み出すための隙すら、微塵も生まれなかった。
それでも、リュウジィの視線だけはクラウスから一秒たりとも離れなかった。
幾度となくクラウスの猛攻を躱し続ける。
その攻撃の軌道を見極め、繰り返し回避していく中で、ようやくわずかな乱れが生じた。
踏み込むタイミングを完璧に合わせるための、命がけの一瞬の間。
「――今だ……!」
その研ぎ澄まされた一瞬、リュウジィは床を全力で蹴り抜いた。
目にも留まらぬ左右の爪撃。その一撃と一撃のわずかな合間を縫うようにして、クラウスの懐へ踏み込む。
棘に覆われた黒い尾先が執拗に追いすがる。
だが、一瞬だけ遅れた尾は虚しく空を切った。
リュウジィは突進の勢いをそのまま乗せ、クラウスの間合いの中心へと一気に滑り込んだ。
全身を滾る竜の力が駆け巡る。
燃え盛る赤黒い炎を纏った拳が、一直線に突き出された。
「崩拳ッ!!」
ドォォォォンッ!!
重い拳がクラウスの鳩尾を深々と、文字通りえぐるように貫いた。
骨まで軋むような凄まじい衝撃が巨躯を突き抜け、クラウスの体がたまらず後方へ激しく吹き飛ぶ。
「――ぐああああッ……!」
苦悶に満ちた咆哮が広間に尾を引く。
その遠ざかる軌道を追いかけるように、リュウジィは再び力強く地を蹴った。
赤と黒のタイガーストライプに、眩い金色の線が走る。リュウジィの残像が空間を駆け抜けた。
追いついた勢いのまま、さらに追撃の拳を突き出そうとした、その刹那。
後方へ激しく弾かれ、足が地から浮きかけた不安定なまま、追い詰められた獣はもはや理性ではなく純粋な本能だけで牙を剥いた。
鋭い手の爪がまっすぐ突き出される。
同時に、恐るべき尾が頭上から容赦なく振り下ろされた。
突き出しかけた拳を咄嗟に止め、リュウジィは荒れ狂う爪と尾の致命的な軌道を一息に潜り抜ける。そのまま勢いを殺さず、間合いへ滑り込んだ。
赤黒く滲み、淀んだ炎を痛むほど巻きつかせた掌を、力いっぱい繰り出す。
「劈拳ッ!!」
パァァァンッ!!
狂おしい炎を纏った掌が、クラウスの硬い胸を深々と貫いた。
骨が悲鳴を上げて軋む音とともに、巨大な躯体が後方へ吹き飛ぶ。そのまま背後の石柱へ激しく叩きつけられ、凄まじい音を立てて石材が粉々に砕け散った。
砕けた石材が煙のように舞う中、リュウジィの足は止まらない。
すでに地を蹴っていた。
崩れた石材の中で、クラウスの巨躯がわずかに沈み込んでいる。
リュウジィが再び間合いに踏み込む。
その拳がまさに届く寸前、クラウスの尾が石材の瓦礫の中から鞭のようにしなり、激しく割り込んできた。
「――っ!」
咄嗟に身を大きく引き、危機を免れる。
一度はしっかりと間合いを詰める。
しかし、続く尾の一撃に阻まれ、どうあっても追撃へ移ることができない。
践歩で巧みにジグザグへ動きながら前へ出ようとした瞬間、クラウスの怒涛の咆哮が大広間の空気と床を激しく震わせた。
「――このまま、終わってたまるかッ!」
石材を荒々しく撥ね除け、クラウスの巨躯が再び猛然と躍り出る。
尾が鞭のようにしなり、床すれすれを這うように薙いだ。
さらに尾が唸りを上げ、胴を薙ぎ払うように容赦なく迫る。
リュウジィは内功盤根の円歩法でその致命的な軌道を鮮やかに外へ流した。
そのまま、宿った竜の力が迸る掌を外回転させ、渾身の力で突き出す。
「横拳ッ!!」
スパァッッッン!!
渦を巻いた猛烈な赤黒い炎の掌が、クラウスの頑丈な胴を完璧に打ち抜いた。
骨が軋む乾いた音とともに、巨躯がくの字に激しく折れ曲がる。
「――があぁッ……!」
爆ぜるような圧倒的な衝撃に後方へ持っていかれかけた巨躯を、クラウスは両足を踏みしめてどうにか堪えた。
両足が頑丈な石畳を深く抉り、その痛ましい跡を残しながら数メートルほど後退する。
その刹那――
完全に意識を失っていたはずのタツヨが、信じられないことに既に宙を舞い、死角となる横合いからクラウスへと猛然と迫っていた。
「お待たせえ!」
右のメタリックブルーに輝く拳が、不気味で鈍い光をしっかりと放つ。
「ホライゾン・ブレイク!!」
ドゴォォォォンッ!!
強烈無比な一撃が黒獅子の頭部を正確に捉える。
骨と肉が潰れて軋む恐ろしい感触が、金属の拳の硬質さを通じて腕全体に突き抜けた。
巨大な躯体が真横へと凄まじい勢いで弾き飛ばされた。
その絶好の隙を逃さず、リュウジィはすでに恐るべき間合いを制していた。
ニーズヘッグの指輪が眩い光を、より一層強く増していく。
両手の拳に幾重にも纏った赤黒い炎が、まるで本物の凶暴な竜の顎へと禍々しく変貌する。
「――うおおおおおおおッ!!」
(形意拳は崩拳や虎形拳が一番威力があると思われてる。でも俺が一番威力が出るのはこれだ)
馬の手綱を強烈に引き込む形から、一気に全身の力を乗せて双拳を猛烈に突き出す。
十二形拳 馬形拳
グワァッシャア!!!
クラウスの強固な胸郭で、リュウジィの双拳が限界を超えて爆発する。
「――があああああああッ……!!」
魂を揺さぶる咆哮が大広間を完全に突き抜け、巨躯が空を飛ぶように大きく吹き飛ぶ。
太い石柱を粉々に粉砕し、壁際まで派手に転がり込んで、ようやくその動かない巨体を止めた。
「――やった、のか……?」
タツヨが荒い息を激しくつきながら、不安そうに呟いた。
だが、残酷にもその静寂は長くは続かなかった。
黒獅子の血まみれの体が、小刻みに震えながら再び起き上がろうとする。
「――まだ……だ……」
血に濡れた恐ろしい牙を剥き出しにし、クラウスは片膝を辛うじて突いたまま、それでもなお血走った顔を上げた。
リュウジィは拳を力強く握り直し、決意を込めて静かに歩み寄る。
「――俺たちの勝ちだ」
その時――
夜気を切り裂くように、頭上でわずかに空気が揺らぐ風の音がした。
「――また会いましたね」
どこか聞き覚えのある不穏な声とともに、暗い夜空から一人の人影が音もなく舞い降りる。
「――カイゼル……!?」
リュウジィは驚愕のあまり、思わずその場で完全に動きを止めた。
銀髪を夜風になびかせ、額に異様に伸びた一本の角、頬から首筋にかけて黒く続くタトゥーが月明かりを浴びて淡く光を弾く。
がっしりとした屈強な体躯を持つ男が、不敵に地に降り立った。
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