第20話 一ヶ月目の記録
店をオープンして、あっという間に一ヶ月が過ぎた。
この一ヶ月、まともに布団で寝た記憶がない。
朝から晩まで店のことで走り回り、ようやくベッドに潜り込んだと思ったら、問題が起きたと叩き起こされる。
厨房の仕入れに始まり、従業員の配置、女の子たちのシフト管理、客同士のトラブル、酒の在庫確認、送迎の手配。
やることを挙げ始めたら、きりがない。
だけど、山積するトラブルや終わりのない業務による疲れを吹き飛ばすくらい、店には熱気と活気が渦巻いていた。
一階の焼肉屋は、初日からかなりの盛況だった。
バッドの母ちゃんに任せている一階で出す、キングオーグの肉。
脂が炭火に落ちて、ジュウッと音を立てる。
立ち上る煙とともに、食欲を刺激する香ばしい匂いが店の外まで漂えば、家路を急ぐ連中も、仕事を終えた肉体労働者も、吸い寄せられるように店の扉を押し開いてくる。
「うわ……今日も混んでるな」
「キングオーグの肉、まだ食えるか?」
「席が空くまで待つ!」
そんな声が、夕方になると通りのあちこちから聞こえてくる。
一ヶ月経っても客足は落ちるどころか、さらに増える一方だ。
そろそろ整理券を配るか、完全予約制に踏み切らないと、厨房の現場がパンクしかねない。
嬉しい悲鳴とは、まさにこのことだろう。
ただし――。
一階が最初から順調だったのに対して、二階の店は少しだけ立ち上がりが重かった。
この街で酒を出す店といえば、荒くれ者が怒号を飛ばす安酒場か、あるいは性的なサービスを売り物にする店くらいしかない。
だからこそ、
「隣に座って談笑しながら酒を飲むだけ」
という、この店の仕組みを客に理解してもらうまで、最初の七日間は骨が折れた。
中には、女の子を見た瞬間に勘違いして、いきなり手を出そうとする酔客までいた。
そのたびに、俺やバッドが対応する。
「お客さん、そこまでです」
「何だよ、ちょっと触っただけだろ!」
「その『ちょっと』がダメなんだよ!」
「ぐえっ!」
何度、店外へ放り出したことか。
最初の一週間は、接客より客の教育をしていたような気さえする。
だけど、一週間を過ぎたあたりから、少しずつ流れが変わった。
噂を聞きつけた商人や、息の詰まる仕事を終えた役人たちが、面白半分で階段を上がり始めたのだ。
「本当に女の子と酒を飲むだけなのか?」
「そうらしいぞ」
「それで金を取るのか?」
「まあ、物は試しだ」
そんな半信半疑の客たちも、一度体験すれば、帰る頃には皆、笑顔になっていた。
誰かに愚痴を聞いてもらう。
くだらない話で笑う。
酒を飲みながら、普段なら話せないようなことを話す。
それだけの時間が、思っていた以上にこの街の人間には必要だったらしい。
今や女の子たちの在籍は三十五人。
常時二十五人体制で営業しているが、それでも週末のピーク時には空席待ちの列ができるほどだ。
最初は閑散としていた二階の階段にも、今では客が並んでいる。
「……まさか、ここまでになるとはな」
自分で作った店を眺めながら、俺は思わず苦笑した。
二階の黒服と警備を任せているバッドも、慣れない正装で、酔った客のあしらいや案内を必死にこなしている。
最初はスーツ姿に着られているようにしか見えなかったのに、今では妙に板についてきた。
あのチャラついた動きも、今では頼もしい店の一部だ。
女の子への声かけだけじゃない。
客の様子を見ながら店内を回り、トラブルが起きればすぐに駆けつける。
酔い潰れた客がいれば、肩を貸して外まで運ぶ。
あのバッドが、今ではすっかり店の戦力になっていた。
そんな忙しい日々のなかで、一つだけ俺が無理を言って通したことがあった。
ドナドのおやっさんに何度も頭を下げて、ミーナを週に一日だけ、店に出してもらうことにしたんだ。
もちろん、最初は簡単には首を縦に振ってくれなかった。
「本当に大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫です」
「変な客に絡まれたりしねえだろうな?」
「俺が責任を持って守ります」
「本当にだな?」
「本当です」
そんなやり取りを何度繰り返したことか。
初日こそ「心配だから」と、おやっさんも付いてきていたけど――。
……二回目からは、その言葉を口実にして、おやっさん自身が一番店を楽しんでいる。
今ではミーナの出勤に関わらず顔を出して、本来は客を座らせないカウンターの隅が、すっかり定位置と化している。
「ガハハ! リュウジィ、この酒は喉に突き刺さるな! サービスしすぎじゃねえか?」
豪快に笑いながら、常連の客と肩を組んで杯を交わすおやっさん。
「それ、今日何杯目ですか?」
「細けえことは気にすんな!」
「……まあいい」
俺は苦笑しながら肩をすくめた。
この人が笑ってくれているなら、この店を作った甲斐があるというものだ。
ミーナの方はといえば、週一回の出勤で、まだ四回しか店に出ていない。
それなのに、早くも熱心な指名の客が数人ついていた。
「今日はミーナちゃん、来てるか?」
「悪いな。今日は休みなんだ」
「そうか……じゃあ、また来るよ」
そんな客まで出てきた。
最初はおどおどと震えていた彼女が、今では慣れないドレスを身に纏い、客の話を丁寧に聞きながら微笑んでいる。
まだぎこちなさは残っている。
それでも、客の話に耳を傾けるときの彼女の表情には、以前にはなかった柔らかさがあった。
その姿を見るたび、自分の目に狂いはなかったと確信する。
人には、それぞれ向いている場所がある。
ミーナにとって、この場所は間違いなくその一つだった。
「……オーナー。本日の売上、昨日の三%増です。送迎馬車のスケジュールも限界に近いですね」
事務の従業員たちをまとめながら、カエデさんが数字の並んだ羊皮紙を俺の前に差し出す。
相変わらず、表情一つ変えずに淡々と仕事をこなしている。
「三%増か……」
俺は羊皮紙を受け取り、数字を確認する。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
「送迎の方は、もう少し効率化できないか?」
「現在の馬車の台数では、これ以上は難しいかと。増便する場合は、新たな御者の確保も必要になります」
「そっちも考えないとな……」
売上が増えれば、当然やることも増える。
客が増えれば、女の子も必要になる。
女の子が増えれば、宿舎も必要になる。
宿舎が増えれば、管理する人間も必要になる。
店が大きくなればなるほど、問題も比例して増えていく。
それでも――。
「オーナー、こちらも報告があります」
カエデさんが続ける。
「バッドさんが身体を張って集めてきた子たちは、今やこの界隈でも評判の看板娘になっています」
「そうか」
俺は店内を見渡した。
楽しそうに笑う女の子たち。
それを見て笑う客たち。
一階からは、肉を焼く音と香ばしい匂いが漂ってくる。
そして二階からは、楽しそうな笑い声が絶えず聞こえてくる。
最初は何もなかった場所だ。
誰も知らなかった店。
誰も知らなかったキャバクラという仕組み。
それが今では、こうして毎晩、多くの人間が集まっている。
俺はカウンターの端で大きく一息つくと、次の段取りを頭の中で組み立てた。
まだ終わりじゃない。
むしろ、ここからだ。
「よし、カエデさん。宿舎の増設と、新しい子の募集を早急に進めよう」
「承知しました」
「それから――」
俺は少しだけ口元を緩めた。
「おやっさんの酒代は、全部俺のツケにしておいてくれ」
「……承知しました」
カエデさんは一瞬だけおやっさんの方を見る。
「ですが、かなりの額になっています」
「……見なかったことにしてくれ」
「それは経理上、難しいですね」
「そこを何とかするのが事務だろ?」
「違います」
即答だった。
「……はい」
俺は素直に引き下がった。
一階から聞こえる肉を焼く騒々しい音。
二階から漏れ聞こえる、楽しそうな笑い声。
その二つが重なって、店全体が一つの生き物みたいに脈打っている。
大変なことも多い。
眠る暇だってない。
それでも――。
俺は、目の前の光景を見ながら小さく笑った。
滑り出しは、好調だ。
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