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第2話 忘れの呪いと、異世界のショクアン


「……焼きそばのソースの匂いは、しなかった」

腹を撃ち抜かれ、コンクリートに沈んでいく意識の中で、俺が最後に願ったのは、そんなちっぽけなことだった。


四十六年間の人生。空港警備員として、元キャバクラ経営失敗者として、泥水をすすりながら積み上げてきたものは、一発の弾丸であっけなく弾け飛んだ。


視界が真っ白に染まり、心臓の音が遠のいていく。

だが、次に俺の意識を浮上させたのは、冷たい死の感触ではなく、鼻を突く生臭い薬草と、埃っぽい獣の脂が混じったような、むせ返るような臭いだった。

ゆっくりと目を開けると、そこは見たこともない木造のボロ小屋だった。


「……お、気がついたか。しぶとい男だねぇ」


仰向けに寝かされた俺の視界に、一人の老婆が入り込んでくる。


「ここは『アグニの村』だよ。あんた、森で倒れてたんだ。……名前は言えるかい?」


(えーっと、俺の名前は……。……あれ? 出てこない。撃たれた瞬間のソースへの未練ははっきり覚えてるのに、肝心の自分の名前が霧に包まれやがる)


「……すみません。思い出せないんです」


困った時の弱腰スマイル。だが、老婆の顔は引き攣っていた。


「……ひっ! 『忘れの呪い』だ! 魂が腐り始めた『空っぽ』が運ばれてきたぞ!」

老婆の悲鳴を聞きつけて、村の男たちが集まってくる。


「呪いが広がる前に追い出せ!」


男たちは棒切れを手に、殺気立って俺を囲んだ。

俺はゆっくりと、ベッドから足を下ろした。その瞬間、自分の体に違和感を覚える。

(……なんだ、この足の軽さは)

壁に張られた鏡に、自分の姿が映った。驚くほどツヤツヤした、十九歳かそこらの男。

(はぁ……? 何だこれ、俺か?)

驚きで固まっている俺の横から、一人の若衆が棒切れを振り上げた。

「出てけっ!」


(……っ、危ねえ!)


反射的に体が動いた。

二十七年間、空港警備の暇な夜や、誰もいない詰め所の隅で、それこそ歯磨きと同じレベルの習慣にしてきた「形意拳」。俺にとっては、ただの「一生飽きない最高の趣味」だった。


かつて、この身に直接、拳の真髄を教えてくれたヒョウ先生。

もう亡くなっちまったが、あの老師に叩き込まれた動きは、四十六歳の今日まで身体が勝手に覚えちゃっている。師匠が死んだ後も、俺はただ好きで、飽きもせず一人で毎日「套路とうろ」を繰り返してきただけだ。


いなす余裕なんてない。だが、相手はただの村人だ。

二十七年もやってりゃ、自分の拳の威力くらいはわかる。まともに当てて、余計な怪我をさせる必要もない。


四十六歳の理性が、若返った体から溢れ出すパワーを適当に「いなす」方向へ導く。

俺は無意識に、相手の振り下ろす軌道を「潰す」程度に抑えようと、掌を合わせた。劈拳(へきけん)の入り身。


バキィッ!!


軽く合わせただけのつもりが、乾燥した木棒が弾け飛んだ。


(……え? 今の、俺か?)


四十六歳の頃なら、今の動きをすれば「これくらいで棒が折れるな」という抵抗が指先に返ってきた。だが、今のこの体は、俺の「加減」という理性を、身体のキレが軽々と追い越していく。


(マジか。この体、めちゃくちゃ言うこと聞くじゃねえか。趣味の枠を超えてこねくり回してた理屈が、全部『正解』として返ってくる……!)


一触即発の空気を切り裂いたのは、一人の恰幅のいい男だった。


「安心しな。この先の街に、流れ者の身元を引き受けたり、仕事を割り振る場所がある。そこならお前の『呪い』の正体もわかるかもしれん」

(……ほう。ファンタジーの定番『冒険者ギルド』ってやつか。そこで美少女の受付嬢にチヤホヤされる……四十六歳、遅れてきた青春の幕開けだな!)


俺は、街の中央にある大きな建物に足を踏い入れ――入り口の看板を見た瞬間、俺の淡い期待は音を立てて崩れ去った。

職業安定所(ショクアン)

(……は? ショクアン? 異世界に来てまで、ハローワークかよ!)

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