第2話 忘れの呪いと、異世界のショクアン
腹を撃ち抜かれ、コンクリートに沈んでいく意識の中で、俺が最後に願ったのは、あの焼きそばのソースの匂いだった。
そんなちっぽけなことだった。
視界が真っ白に染まり、心臓の音が遠のいていく。
だが、次に俺の意識を浮上させたのは、冷たい死の感触ではなく、鼻を突く生臭い薬草と、埃っぽい獣の脂が混じったような、むせ返るような臭いだった。
ゆっくりと目を開けると、そこは見たこともない木造のボロ小屋だった。
天井の板は隙間だらけで、光が細く差し込んでいる。
壁には乾燥した草束がいくつも吊るされていて、それが例の臭いの正体らしい。
布団と呼べるかどうかも怪しい、藁を詰めただけのようなものの上に寝かされていた。
「……お、気がついたか。しぶとい男だねぇ」
「あれ?ここは……どこですか?」
仰向けに寝かされた俺の視界に、一人の老婆が入り込んでくる。
皺だらけの顔に、妙に鋭い目をしている。
「ここは『アグニの村』だよ。あんた、森で倒れてたんだ。……名前は言えるかい?」
(えーっと、俺の名前は……。……あれ? 出てこない。撃たれた瞬間のソースへの未練ははっきり覚えてるのに、肝心の自分の名前が霧に包まれやがる)
「……すみません。思い出せないんです」
とりあえず愛想笑いでごまかすしかない。
だが、老婆の顔は引き攣っていた。
「……ひっ! 『忘れの呪い』だ! 魂が腐り始めた『空っぽ』が運ばれてきたぞ!」
老婆の悲鳴を聞きつけて、村の男たちが集まってくる。
「呪いが広がる前に追い出せ!」
男たちは棒切れを手に、殺気立って俺を囲んだ。
俺はゆっくりとベッドから足を下ろした。
その瞬間、自分の体に違和感を覚える。
(……なんだ、この足の軽さは)
おそるおそる立ち上がってみると、膝が笑わない。
四十六年間、俺を苦しめてきた右膝の古傷が、跡形もなく消えている。
肩を回してみる。ゴリゴリという音も、鈍い痛みもない。
深く息を吸うと、肺の底まで空気が入ってくる感覚がある。
(何だこれ。体が、新品みたいだ)
壁に張られた鏡に、自分の姿が映った。
驚くほどツヤツヤした、十代後半か二十代前半そこらの男。
肌に張りがある。目に力がある。四十六年分のくたびれが、跡形もなく消えている。
(はぁ……? 俺か、これ。死んで若返ったのか)
(待て待て待て。腹に弾丸食らって、空港の床に沈んだよな。なのに今、鏡の中に二十歳そこらの若造が映ってる。しかも体が嘘みたいに軽い。四十六年間、肩こりと膝の痛みと戦ってきた俺の体が)
状況を整理しようとしたところで、驚きで固まっている俺の横から、一人の若衆が棒切れを振り上げた。
「出てけっ!」
(……っ、危ねえ!)
反射的に体が動いた。
二十七年やってきた形意拳が、頭より先に出てきた。
棒切れに掌を当てた瞬間——
バキィッ!!
(……え? 軽く当てただけなのに)
木の棒が根元から弾け飛んでいた。
破片が壁に叩きつけられ、男たちが一斉に後ずさる。
誰も声を上げない。
棒切れを持ったまま固まっている男、口を半開きにしている男、俺から目を離せずにいる男。
小屋の中が、しんと静まり返った。
(勁力、えらいことになってるぞ、俺)
「皆、落ち着け」
沈黙を破ったのは、人垣の後ろに立っていた恰幅のいい男だった。
野次馬を手で制しながら、ゆっくりと前に出てくる。
「取り敢えず。この先の街に、お前の正体がわかるかもしれん場所がある。俺が連れて行ってやる。だから皆も落ち着け。スキル判定して貰えば名前はわかるだろ?」
(スキル判定?……もしかしてファンタジーの定番か?選ばれた勇者とかなって世界を救うとか?)
男に連れられて村を出ると、土と石を積み上げただけの素朴な家が並んでいた。
舗装された道などない。石畳すらない。
行き交う人々の服は粗末で、馬車が一台、泥道をゆっくりと進んでいく。
(……本当に異世界だ。夢じゃない)
しばらく歩いて辿り着いたのは、街の中央にある大きな建物だった。
足を踏み入れ——入り口の看板を見た瞬間、淡い期待は音を立てて崩れ去った。
『職業安定所ショクアン』
(……は? ショクアン? 異世界に来てまで、ハローワークかよ!)
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