第2話 忘れの呪いと、異世界のショクアン
腹を撃ち抜かれ、コンクリートに沈んでいく意識の中で、俺が最後に願ったのは、あの焼きそばのソースの匂いだった。
そんなちっぽけなことだった。
それが最後に浮かんだことだと思うと、我ながら情けなくなる。
けれど、不思議と悔いはなかった。
いや。
本当は、もう一口だけ食いたかった。
視界が真っ白に染まっていく。
遠くで誰かが叫んでいる気がした。
心臓の音が、少しずつ遠ざかっていく。
ドクン。
ドクン。
やがて、その音すら聞こえなくなった。
死ぬ。
そう思った。
なのに。
次に俺の意識を浮上させたのは、冷たい死の感触ではなかった。
鼻を突く、生臭い薬草の臭い。
そこに埃っぽい獣の脂が混じっている。
むせ返るような、ひどい臭いだった。
「……なんだ、これ」
声に出したつもりだった。
だが、喉から漏れたのは、掠れた息だけだった。
ゆっくりと目を開ける。
見慣れた病院の白い天井を想像していた。
だが。
そこにあったのは、見たこともない木造のボロ小屋だった。
天井の板は隙間だらけ。
そこから細い光が差し込んでいる。
壁には乾燥した草束がいくつも吊るされていた。
どうやら、あの強烈な臭いの正体はこいつらしい。
視線を下へ向ける。
布団と呼べるかどうかも怪しい。
藁を詰めただけのようなものの上に、俺は寝かされていた。
身体を動かそうとすると、全身に鈍い感覚が返ってくる。
生きている。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
俺は、死んだはずじゃなかったのか?
「……お、気がついたか。しぶとい男だねぇ」
声のした方へ顔を向ける。
「あれ?ここは……どこですか?」
仰向けに寝かされた俺の視界に、一人の老婆が入り込んでくる。
皺だらけの顔。
だが、その目だけは妙に鋭かった。
まるで、こちらの奥底まで覗き込もうとしているような目だ。
「ここは『アグニの村』だよ。あんた、森で倒れてたんだ。……名前は言えるかい?」
名前。
そう聞かれて、俺は反射的に答えようとした。
だが。
そこで、思考が止まった。
(えーっと、俺の名前は……。……あれ? 出てこない。撃たれた瞬間のソースへの未練ははっきり覚えてるのに、肝心の自分の名前が霧に包まれやがる)
記憶を手繰り寄せる。
だが、掴めない。
まるで頭の中にあったはずの名前だけが、霧の向こうへ消えてしまったようだった。
「……すみません。思い出せないんです」
とりあえず愛想笑いを浮かべる。
笑って誤魔化すしかなかった。
だが。
老婆の表情が変わった。
血の気が引いていく。
皺だらけの顔が、引き攣った。
「……ひっ! 『忘れの呪い』だ! 魂が腐り始めた『空っぽ』が運ばれてきたぞ!」
悲鳴が小屋の外へ響き渡る。
すぐだった。
足音がいくつも近づいてくる。
扉が開き、村の男たちが次々と小屋へ押し寄せてきた。
「呪いが広がる前に追い出せ!」
男たちは棒切れを手にしていた。
さっきまでの老婆と同じように、誰もが怯えている。
だが、その怯えはすぐに殺気へと変わっていった。
俺を囲む。
逃げ道がない。
「いやいや、ちょっと待ってくれ」
説明してくれ。
そう言いたかった。
だが、そんなこちらの事情など関係ないらしい。
俺はゆっくりとベッドから足を下ろした。
その瞬間。
妙な違和感を覚えた。
足が軽い。
あまりにも軽い。
(……なんだ、この足の軽さは)
おそるおそる立ち上がる。
膝を曲げる。
伸ばす。
もう一度、曲げる。
痛くない。
思わず眉を寄せた。
四十六年間、俺を苦しめてきた右膝の古傷。
階段を上るたびに痛み。
長時間立っていれば鈍く疼き。
朝起きた時ですら、まず膝の具合を確かめるのが習慣になっていた。
それが。
跡形もなく消えている。
肩を回してみる。
ゴリゴリという音がしない。
鈍い痛みもない。
もう一度、肩を回す。
やはり何もない。
深く息を吸った。
空気が肺の底まで入ってくる。
苦しくない。
息が詰まらない。
身体のどこにも、四十六年間付きまとっていた重さがない。
(何だこれ。体が、新品みたいだ)
そこで、ふと壁に張られた鏡が目に入った。
何気なく視線を向ける。
そして。
俺は固まった。
鏡の中に映っていたのは、知らない男だった。
驚くほどツヤツヤした肌。
張りのある頬。
力のある目。
十代後半か、二十代前半そこらの男。
四十六年分のくたびれが、跡形もなく消えている。
口が、わずかに開いた。
鏡へ近づく。
右手を上げる。
鏡の中の男も、同じように手を上げた。
頬に触れる。
柔らかい。
張りがある。
俺の顔じゃない。
いや。
俺の顔のはずなのに、俺が知っている俺ではない。
(はぁ……? 俺か、これ。死んで若返ったのか)
頭が追いつかない。
撃たれた。
死んだ。
なのに。
今、俺はここにいる。
しかも二十歳そこらの身体になって。
(待て待て待て。腹に弾丸食らって、空港の床に沈んだよな。なのに今、鏡の中に二十歳そこらの若造が映ってる。しかも体が嘘みたいに軽い。四十六年間、肩こりと膝の痛みと戦ってきた俺の体が)
身体を動かす。
拳を握る。
開く。
肩を回す。
軽い。
あまりにも軽い。
状況を整理しようとした、その時だった。
驚きで固まっている俺の横から、一人の若衆が棒切れを振り上げた。
「出てけっ!」
(……っ、危ねえ!)
考えるより先に、身体が動いた。
右足が踏み込む。
腰が落ちる。
腕が勝手に反応する。
二十七年やってきた形意拳。
何千回。
何万回と繰り返してきた動き。
頭で考えるよりも先に、身体が覚えていた。
棒切れに掌を当てた瞬間——
バキィッ!!
乾いた音が小屋に響き渡った。
棒が折れた。
そう思った。
だが、違った。
木の棒が根元から弾け飛んでいた。
破片が壁に叩きつけられる。
その勢いに、男たちが一斉に後ずさった。
誰も声を上げない。
棒切れを持ったまま固まっている男。
口を半開きにしている男。
そして。
俺から目を離せずにいる男。
さっきまで俺を囲んでいた連中が、今は誰一人として近づいてこない。
小屋の中が、しんと静まり返った。
俺自身も、自分の掌を見つめていた。
痛みはない。
衝撃もほとんど感じなかった。
ただ、軽く触れただけ。
それなのに。
(……え? 軽く当てただけなのに)
自分の掌を握る。
開く。
もう一度握る。
まるで、別人の手だった。
(勁力、えらいことになってるぞ、俺)
「皆、落ち着け」
沈黙を破ったのは、人垣の後ろに立っていた恰幅のいい男だった。
野次馬を手で制しながら、ゆっくりと前に出てくる。
男の目には、周囲の者たちほどの怯えはなかった。
少なくとも、表面上は。
「取り敢えず。この先の街に、お前の正体がわかるかもしれん場所がある。俺が連れて行ってやる。だから皆も落ち着け。スキル判定して貰えば名前はわかるだろ?」
スキル判定。
その言葉に、俺は思わず瞬きをした。
(スキル判定?……もしかしてファンタジーの定番か?選ばれた勇者とかなって世界を救うとか?)
まさか。
そんな都合のいい話があるのか。
いや。
俺はもう、腹を撃たれて死んだはずなんだ。
だったら。
今さら何が起きても不思議じゃない。
男に連れられて村を出る。
目の前に広がった景色を見て、俺は思わず足を止めそうになった。
土と石を積み上げただけの素朴な家。
舗装された道などない。
石畳すらない。
行き交う人々の服は粗末だった。
遠くから、馬車の音が聞こえる。
一台の馬車が、泥道をゆっくりと進んでいく。
見慣れたはずの世界とは、何もかもが違っていた。
(……本当に異世界だ。夢じゃない)
夢なら、そろそろ覚めてほしい。
だが。
頬を撫でる風も。
足元の土の感触も。
馬車の音も。
全部、本物だった。
しばらく歩いて辿り着いたのは、街の中央にある大きな建物だった。
周囲の粗末な建物とは明らかに違う。
人の出入りも多い。
男に促されるまま、足を踏み入れる。
そして——。
入り口の看板を見た瞬間。
ここまで膨らんでいた淡い期待が、音を立てて崩れ去った。
看板には、見慣れない文字。
その下に並んでいたのは。
『職業安定所ショクアン』
俺は、しばらく動けなかった。
目を疑う。
もう一度見る。
やっぱり同じだ。
『職業安定所ショクアン』
……マジか。
(……は? ショクアン? 異世界に来てまで、ハローワークかよ!)
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