198話 黒獅子、猛る
同じ大広間の反対側では、ミライ・ムサシ・カミラとヴォルグの死闘が同時に幕を開けていた。
リュウジィとタツヨは、クラウスと向かい合っていた。
「行くぞ」
クラウスの声とともに、サーベルタイガーの相貌が大きく歪む。黒い毛並みが逆立ち、輪郭が膨れ上がっていく。
「ショウ」
短い掛け声一つ。
獣人の姿が、さらに獰猛な獣王の姿へと作り替えられていく。
「グ、オオオオオオオオッ……!」
巨大な漆黒のライオンの幻影を背後に纏った、黒いたてがみの獣。
獣王憑依。
「ゴ、ゴゴゴゴッ……!」
大広間の床が、その質量だけで軋む。石片が浮いては砕け、周囲へと散った。
肌がひりつく圧力が満ちる。
呼吸するだけで肺が押し潰されるような、絶対的な捕食者の気配だった。
「ぎちり、ぎちりッ」
嫌な音を立て、太い指の先から爪が伸びていく。
鞘から抜かれる無数のダガーのように、一本一本が鋭利な刃と化した。
拳ではない。
刃だ。
これまで対峙してきたどんな敵とも、根本から質の違う殺気。
闘うのは二度目だが、二人の勘が、悲鳴じみた警鐘を鳴らした。
その圧力に呼応し、リュウジィの全身の血管を凄まじい熱が駆け巡る。
単なる内功の循環を超え、ファフニールの意志が肉体を破壊の器へと作り変えていく感覚。
リュウジィの内功とファフニールの身体強化の重ねがけ。
漆黒の生地の上を、真紅と漆黒のタイガーストライプが波打ち、裂け目を埋めるように金色の光が明滅する。
竜が猛虎の意匠を借りて降臨したかのような、禍々しい色彩だった。
タツヨが両腕を胸の前で大きくクロスさせる。
「バチンッ!頼むぜアトラス!」
それに答えるように、両手首のブレスレットが光を弾け飛ばし、タツヨの両腕の上腕をメタリックブルーの金属質が肘の先まで一気に覆い尽くした。
双拳のアトラスのガントレット、第三形態。
二人は左右に分かれ、クラウスを挟む位置を取った。
無言。
冗談も軽口も、挟む余地はどこにもない。
「消えた……!?」
タツヨが叫んだ瞬間、クラウスの姿が掻き消えていた。
消えたのではない。
それほどの速度で、間合いを潰していたのだ。
「ヒュンッ!」
刃と化した爪が、リュウジィの顔面めがけて振り抜かれる。
頬をかすめる冷たい風圧。
喉元に走る冷たい感触。
「っ――」
リュウジィは半身を切り、大きく退いて躱した。
数センチ届いていれば、顔ごと抉られていた。
「ダンッ!」
クラウスは地を蹴り、超高速でタツヨへ一気に距離を詰める。
爪の刃が肩口へ叩き込まれた。
タツヨが左腕を掲げてブロックする。
「ガキンッ!」
硬質な音とともに爪がメタリックブルーの腕に弾かれ、火花が散る。
骨まで響く衝撃に、タツヨは両足の靴底で石畳に深い溝を刻みながら後退した。
リュウジィは床を蹴った。
姿が陽炎のように歪み、次の瞬間にはクラウスの懐に深く潜り込んでいる。
「劈拳ッ!!」
余計な予備動作を排した、最短距離の一撃。
赤黒い炎を纏った掌が、空気を圧縮しながら真っ直ぐに突き出される。
だが、クラウスは体を横に開き、するりと軌道の外へ抜けた。
「速すぎる……!」
「ブォンッ!」
掌は空を切る。
次の瞬間、逆手の爪が弧を描いて横殴りに振り抜かれた。
「ビュッ!」
リュウジィはとっさに首を振って躱す。
頭髪が数本、宙に舞った。
「グルァッ!」
間髪入れず、クラウスは三撃目を放つ。
反対側の爪が、下からすくい上げるように突き上がった。
「シュンッ!」
リュウジィは上体を後ろへ逃がしたが、爪の先が顎の先をかすめる。
皮膚が薄く裂け、一筋の血が滴った。
「ダンッ!」
クラウスはすかさず床を蹴り、標的をリュウジィからタツヨへ切り替えた。
左、右、と繰り出される爪を、タツヨがアトラスの装甲と化した腕で受け止める。
「ガキンッ、ガキンッ!」
甲高い音が大広間に反響した。
その一連の動きを目の当たりにし、二人の背筋が同時に冷えた。
前回、幾度も互角に打ち合った拳の重さとは、まるで比べ物にならない。
今のクラウスは、力でも速さでも技でも、当時の自分たちの手が届く場所からとうに抜け出していた。
リュウジィとタツヨは、二人とも防戦一方だった。
かわしても追いつかれる。
受ければ骨まで軋む。
じりじりと押し込まれていく。
「クソッ、やっぱつえええ……!」
タツヨが吐き捨てた。
技量を尽くしても、二人がかりでなお埋まらない絶対的な格の差が、冷酷にそこに君臨していた。
「ダンッ!」
クラウスは再び床を蹴ってリュウジィへ切り返し、爪を突き入れる。
「ヒュンッ!」
リュウジィは辛うじて上体を反らし、爪の先を紙一重でやり過ごした。
だが、息をつく間もない。
クラウスはすぐに床を蹴ってタツヨへ間合いを詰め直し、そのままの勢いで顔面めがけて爪を突き入れた。
「ぐっ!」
「ズシャッ!」
タツヨは咄嗟に顔を背けたが、頬を爪の先が薄く裂いた。
熱い痛みとともに、鮮血が石畳へ飛び散る。
歯を食いしばり、それでもタツヨは踏みとどまった。
「タツヨ!」
「こんなのかすり傷だ!」
叫び返す声に余裕はない。
荒い呼吸が二人分、大広間に響く。
クラウスは唇を吊り上げながら笑ってる。
「ハッ、ハッ……その程度か」
低く嗤う声に、侮蔑の色が滲んでいた。
リュウジィが石畳の床を蹴って一気に距離を詰める。
ファフニールのタイガーストライプと金色の残像が流れる。
螺旋を描く炎を纏った拳を突き上げた。
「鑽拳ッ!」
だが、放つ寸前、クラウスの爪の方が一瞬速かった。
「ドンッ!」
逆手の爪が二の腕を真横から叩き、拳ごと軌道を刈り取る。
ファフニールの生地は裂けなかったが、凄まじい衝撃にリュウジィの体は横向きに弾き飛ばされ、石畳の上を転がった。
「くっ……!」
痺れの残る腕を庇いながら、リュウジィは奥歯を噛んで立ち上がる。
腕の感覚が、まだ半分戻っていなかった。
(ファフニールの防御力がなかったら、腕が飛んでた)
「クソッ……このままじゃ、削られるだけだ」
タツヨが荒い息の合間に呟く。
二人がかりでも、埋まらない格の差は立ちはだかったままだった。
そのとき、リュウジィの脳裏に閃くものがあった。
――力じゃない。流れだ。二人で一つの拳になれば……!
今までは、それぞれの間合いで、それぞれに戦っていた。
だが今、目の前にいるのは一人の敵だ。
ならば――
「タツヨ、俺が崩す。頼む」
短く言い放つと、リュウジィは地を蹴って超高速で間合いを詰め、爪が振るわれる軌道の内側へあえて飛び込んだ。
「ドンッ!」
爪が胸元へ叩きつけられる。
ファフニールの生地は裂けなかったが、骨の髄まで痺れる衝撃が突き抜け、一瞬、踏み込んだ足がもつれかけた。
それでもリュウジィは体勢を立て直し、止まらない。
「崩拳ッ!!」
竜の顎を象るような赤黒い炎を纏った拳が、クラウスの鳩尾を深くえぐり貫いた。
「ドォォォォォンッ!!」
表面を弾く手応えではない。
内側の力同士が正面から拮抗し、爆ぜる。
クラウスの巨体が大きく後方へよろめいた。
「ぐ、ぬっ……相変わらず厄介な力だ……!」
クラウスが忌々しげに唸る。
「今だ!」
タツヨはその隙を見逃さなかった。
「ダンッ!」
地を蹴って一気に距離を詰め、青い光の弾丸と化した拳を叩き込む。
「ファントムウィップ!!」
「ドッ! ドッ! ドッ!」
「グ、ゥ……!」
一撃、二撃、三撃。
マシンガンじみた連撃が、顔面、頬、顎を的確に打ち抜く。
クラウスの巨躯が幾度も揺れた。
だが、反撃は一瞬で牙を剥いた。
爪が振り上げられ、強引に反撃へ転じる。
「まだだッ!」
「ズバァッ!」
爪がタツヨの頬をかすめた。
皮膚が裂け、血が噴き出す。
それでもタツヨは歯を食いしばり、拳を止めなかった。
攻防はここから幾度も入れ替わった。
炎を纏うリュウジィの拳が崩し、タツヨの拳が叩く。
クラウスが凌ぎ、爪で押し返す。
「ドッ、ガキンッ、ズバッ」
絶え間なく打撃音と斬撃音が入り乱れ、決定打が出ないまま、拮抗した攻防が続いた。
「はぁっ……はぁっ……!」
息が上がる。
汗と血が飛び散る。
だが、その中で二人の呼吸が確かに揃い始めていた。
「タツヨ、来るぞ!」
「分かってる!」
声を掛け合うだけで動きが繋がる。
今まで届かなかった連携が、ようやく噛み合い始めていた。
クラウスが苛立たしげに咆哮する。
「グオオオオッ! いつまで……!」
その苛立ちこそが、隙だった。
「ファントムストレート!!」
タツヨの畳みかけた右腕が、渾身の剛腕を叩きつける。
「パァッキイィィィッ!!」
凄まじい破壊音とともにクラウスの巨躯が仰け反り、圧倒していた男が、じりじりと後退を始めた。
「行けるぞ、リュウジィ!」
「うん――このまま、押し切る!」
クラウスが態勢を立て直そうと爪を振るう。
リュウジィが最小限の動きでそれをいなし、懐へ潜り込んだ。
そこへタツヨの拳が続けざまに突き刺さる。
「ゴッ! ガッ! ゴッ!」
鈍い打撃音が連続で響き、クラウスの体が石畳を削りながら後退していく。
クラウスがよろめきながらも、なおも爪を構え直す。
決着には、まだ遠かった。
「まだ……まだだ……!」
低く唸りながら、クラウスは再び太い両腕を大きく振り上げる。
追い詰められてなお、その闘志は消えていなかった。
リュウジィとタツヨは、荒い息のまま互いに目配せを交わす。
まだ終わらない。
もう一段、押し切らなければ。
二人は再び構えを取り直し、じりじりと間合いを詰めていった。
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